2016ソスN6ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1062016

 郭公の声に高原らしくなる

                           中村襄介

公は四月から五月にかけて南方から渡ってきて、夏が終わると南へ帰ってゆく。人間様もこれから夏休みに向かって非日常の世界へ飛び出したくなる。切符は青春切符、泊まりはホテルではなく民宿へ。あれやこれやと思いをめぐらせた結果涼しい高原へ向かうこととなった。「汽車の窓からハンケチ振れば〜」歌を口ずさんだりして心晴れ晴れと、高原列車は走り車窓を満喫する。到着した山は緑、渓は透明、空気はオゾンに富んでいる。天気も上々であるが何か一つ物足りない。思っていた矢先に「カッコゥ」「カッコゥ」の鳴き声。これだ、郭公の鳴き声が加わり高原のイメージはとことん充足された。「朝日俳壇」(「朝日新聞社」2014年7月28日付)所載。(藤嶋 務)


June 0962016

 住み着いてから貧乏と知った猫

                           板垣孝志

の川柳ばかりを集めたアンソロジーの中の一句。猫と孫の俳句は犬も食わないと言われるが、愛情が勝ち過ぎてべろべろになってしまうからだろうか。それに俳句では季語と猫の兼ね合いが難しいが、川柳の猫は輪郭がはっきりしている。適度な距離感をもって猫が生き生きと動き回っている。可愛い写真やエッセイも楽しくお薦めの一冊である。さて掲句は朝日新聞で連載中の「吾輩は猫である」よろしく迷い込んで住み着いたものの自分のエサも危ういぐらい貧乏だと気づいた猫の感想だろうか。猫は冷静な観察者なのだ。飼い主べったりの犬とは違うドライさで飼い主も環境も分析しているのだろう。『ことばの国の猫たち』(2016)所収。(三宅やよい)


June 0862016

 あめんぼをのせたる水のしなひけり

                           高橋順子

書きに「六義園」とあるから、駒込の同園の池であめんぼを見つけて詠んだものと思われる。あめんぼ(う)は「水馬」と書く。関西で「みずすまし」のことを呼んでいたのだそうだが、「みずすまし」は「まいまい」のことであって別物とされる。あめの匂いがするところから、古来「あめんぼ(う)」と呼ばれてきた。古い文献に「長き四足あつて、身は水につかず、水上を駆くること馬の如し。よりて水馬と名づく」とある。水上を駆ける馬、とはみごとな着目と命名ではないか。重量のないようなあめんぼをのせて「水のしなひけり」という見立ては、細やかで唸らせる観察である。順子の俳号は泣魚。掲出句は夫君・故車谷長吉との“反時代的生活”を書いたエッセイ集『博奕好き』(1998)に「泣魚集」として俳句が78句収録されているなかの一句。他に「しらうおは海のいろして生まれけり」がある。泣魚は長吉らと連句もさかんに巻き、呼吸の合ったところを見せていた。例えばーー。(八木忠栄)

雨の中森吉山へ秋立つ日/長吉  花野の熊にひびかせよ鈴/泣魚




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