2016N614句(前日までの二句を含む)

June 1462016

 細胞はこゑなく死せり五月雨

                           髙柳克弘

月雨は陰暦五月の雨、梅雨のこと。湿度の高さに辟易しながら、人は半分以上水分でできているのに…、人間は水の中で生まれたはずなのに…、とうらめしく思う。暑ければ暑いで文句が出、寒ければ寒いで文句が出る。声とは厄介なものである。しかしこの文句の多い体を見つめれば、その奥で、細胞は声もなく静かに生死を繰り返している。降り続く雨のなかでじっと体の奥に目を凝らせば、生と死がごく身近に寄り添っていることに気づく。新陳代謝のサイクルを調べてみると「髪も爪も肌の角層が変化してできたもの、つまり死んだ細胞が集まったものです(花王「髪と地肌の構造となりたち」)」の記述を発見した。体の奥だけではなく、表面も死んだ細胞に包まれていたのだ。衝撃よりもむしろ、むき出しの生より、死に包まれていると知って、どこか落ち着くのは、年のせい、だろうか。〈一生の今が盛りぞボート漕ぐ〉〈標なく標求めず寒林行く〉『寒林』(2016)所収。(土肥あき子)


June 1262016

 床拭きて万緑の息通しけり

                           小倉桂子

巾で床を拭く。それは、部屋のお清めです。窓を開け、風を入れる。万緑の息吹が、間を浄化する。今も、このような所作が日々続けられているのなら、素敵な暮らしぶりです。日本人の生活が西洋化されてから久しい年月が経ち、掃除は主に立ち仕事となって、屈んで床を拭く動作はめっきり減りました。私事を言えば、ふだんの床掃除は使い捨てのクイックルワイパーと箒の組み合わせで、床を雑巾がけしたのは今年に入って一回きりです。ただ、この一回が気持ちよかった。膝をつき、腕でごしごし隅々ま できれいにして、雑巾を絞りました。小中学校のときの掃除の時間と、稽古合宿のときの雑巾がけを思い出します。日々の汚れを日々拭きとる。この所作は、日本に住まう所作としてすり込まれた身体の記憶です。世界には、掃除をする習慣がない国もあり、例えば西アフリカのマリでは、日本人のボランティアが掃除という概念とやり方を教えて好評を博しています。日本人は無宗教だと言われますが、むしろふだんは無関心なだけで、掲句のようなお清めの伝統は、無言のうちに生活に根づいています。『告解』(1989)所収。(小笠原高志)


June 1162016

 十薬やいたるところに風の芯

                           上田貴美子

の犬の散歩に時々付き合うようになって半年ほどになる。早朝の住宅街をただ歩く、ということはほとんどなかったので、小一時間の散歩だがあれこれ発見があって楽しい。そんな中、前日まで全く咲いていなかった十薬の花が今朝はここにもあそこにもいきなりこぞって咲いている、と驚いた日があった、先月の半ば過ぎだったろうか。蕾は雫のようにかわいらしく花は光を集めて白く輝く十薬。どくだみという名前とはうらはらに、長い蘂を空に伸ばして可憐だ。いたるところで風をまとっている十薬の花と共に、どこかひんやりとした梅雨入り前の風自体にも芯が残っているように感じられたのを思い出した。他に〈透明になるまで冷えて滝の前〉〈人声が人の形に夏の霧〉。『暦還り』(2016)所収。(今井肖子)




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