2016ソスN6ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2162016

 代掻いて掻いて富士には目もくれず

                           黛 執

植え前の準備である代掻きとはいささか時遅しとも思うが、田植えを終える目安の半夏生まではまだ少し間があるということでお許し願いたい。生まれてから20年余を静岡市で育ったせいか、富士山は方角を知る目印のような山だった。毎日当たり前のように目に入る山が、どれほど美しいものだったのかを知るのは、遠くに離れてからである。代掻きは現代のトラクターを使用する方法でも、ひたすら田の面を見つめ、往復を続ける作業である。掲句でも「掻いて掻いて」の繰り返しに、その作業が単調であることと、なおかつ重労働であることが伝わる。ほんの少し目を上げれば美しい富士があることは分かってはいる。その「分かっている」という気持ちこそ、ふるさとの景色に見守ってもらっているのだという信頼関係を思わせる。仕事が終わり、もう暗くなった頃、富士のあったあたりに目を上げて、一日の無事を知らせるのだろう。『春の村』(2016)所収。(土肥あき子)


June 1962016

 木にも在る白桃を手に独り行く

                           永田耕衣

桃は、エロティシズムの象徴です。これを手に独り行くとき、その足どりは浮かれているのか、それとも忍び歩きなのか。上五と中七では、白桃が存在している場所が違います。「木にも在る」白桃は、その花が結実して種を内包しています。枝にたわむ果肉は、虫鳥猿に食べられて、ポトリと落ちた種は地中に潜み、やがて新しい命の芽を生むこともあるでしょう。一方、「手に」持たれた白桃は、果肉を人間に食われ、種は、ゴミ収集車に運ばれて処分されます。「私が手にしている白桃は既に死んでいる 」。これを自覚しているゆえ、「独り行く」その歩みは浮かれてはいないようです。句集では、掲句の次に「白桃の肌に入口無く死ねり」があるからです。枝からもぎ取られた白桃は、自然界の循環の輪から切り離された「入口無」き存在でしょう。あらためて掲句を読むと、死を抱えて行くということは、単独な道行きなのだということがわかります。その足どりは、人さまざまでしょうが、浮かれ歩きではなさそうです。『非佛』(1973)所収。(小笠原高志)


June 1862016

 水澄し見る水の上水の中

                           そら紅緒

舞虫(まいまいむし)ともいわれるミズスマシ。ランダムな曲線を描きながら水面を忙しく動き回っている。じっくり見たこともないのであらためて調べるとなかなか興味深い体の作りだ。特に眼、二つの複眼はそれぞれ水中用と水上用に仕切られ計四つに分かれているのだという。掲出句を読んだ時は、水面から上を見たり下を見たりしながら進んでいるのかと思ったがそうではなく、あの素早さで動きながら水底も空も同時に見えているということだ。あらためて声に出して句を読んでみると、重なる四つの、み、と七七五のリズムに、想像もつかないミズスマシの視界を体感しているような不思議な世界に引き込まれる。作者は沖縄在住、句集名は沖縄の言葉で「蝶」のことである。『はあべえるう』(2015)所収。(今井肖子)




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