2016ソスN6ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 2262016

 蟹あまたおのが穴もち夏天もつ

                           高垣憲正

般に俳句では、水蟹は「春」、海蟹は「冬」とされるという。『新歳時記・夏』では「夏の蟹は、つゆどきの渓流、磯などの小蟹をさしている」と説明されている。掲出句では「夏天」ゆえ、ここでは夏の蟹である。あまたの蟹はおのれの棲家=穴をもっている。なかには「おのが穴」をもたない、ホームレスの蟹もいるだろうか。だとしたら、せつないやら愉快なやらではないか。まさか人間世界じゃあるまいし、きちんとおのがじし穴をもっていて、ホームレスなどいないのかもしれない。水中を主たる生息地とする蟹に「穴」ばかりでなく、「夏天もつ」と詠んだところからおもしろさが増したし、俳句も大きくなった。蟹は穴掘りの名人だと言われるが、慌てると自分の穴に戻ることができなくなることもあるそうだ。小学生の頃、家の裏を流れている小川の石垣の間に手を突っこむと、たいてい藻屑蟹がひそんでいて、蟹取りに興じたことがある。「蟹はおのれの甲羅に似せて穴を掘る」と言われる。人間は良くも悪くも、そうはいかないケースが多いから始末が悪い。憲正には他に「木陰出てトロッコ浜へ突き放つ」がある。『靴の紐』(1976)所収。(八木忠栄)


June 2162016

 代掻いて掻いて富士には目もくれず

                           黛 執

植え前の準備である代掻きとはいささか時遅しとも思うが、田植えを終える目安の半夏生まではまだ少し間があるということでお許し願いたい。生まれてから20年余を静岡市で育ったせいか、富士山は方角を知る目印のような山だった。毎日当たり前のように目に入る山が、どれほど美しいものだったのかを知るのは、遠くに離れてからである。代掻きは現代のトラクターを使用する方法でも、ひたすら田の面を見つめ、往復を続ける作業である。掲句でも「掻いて掻いて」の繰り返しに、その作業が単調であることと、なおかつ重労働であることが伝わる。ほんの少し目を上げれば美しい富士があることは分かってはいる。その「分かっている」という気持ちこそ、ふるさとの景色に見守ってもらっているのだという信頼関係を思わせる。仕事が終わり、もう暗くなった頃、富士のあったあたりに目を上げて、一日の無事を知らせるのだろう。『春の村』(2016)所収。(土肥あき子)


June 1962016

 木にも在る白桃を手に独り行く

                           永田耕衣

桃は、エロティシズムの象徴です。これを手に独り行くとき、その足どりは浮かれているのか、それとも忍び歩きなのか。上五と中七では、白桃が存在している場所が違います。「木にも在る」白桃は、その花が結実して種を内包しています。枝にたわむ果肉は、虫鳥猿に食べられて、ポトリと落ちた種は地中に潜み、やがて新しい命の芽を生むこともあるでしょう。一方、「手に」持たれた白桃は、果肉を人間に食われ、種は、ゴミ収集車に運ばれて処分されます。「私が手にしている白桃は既に死んでいる 」。これを自覚しているゆえ、「独り行く」その歩みは浮かれてはいないようです。句集では、掲句の次に「白桃の肌に入口無く死ねり」があるからです。枝からもぎ取られた白桃は、自然界の循環の輪から切り離された「入口無」き存在でしょう。あらためて掲句を読むと、死を抱えて行くということは、単独な道行きなのだということがわかります。その足どりは、人さまざまでしょうが、浮かれ歩きではなさそうです。『非佛』(1973)所収。(小笠原高志)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます