2016ソスN7ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 2672016

 おまへだつたのか狐の剃刀は

                           広渡敬雄

前に特徴のある植物は数あれど、「キツネノカミソリ」とはまた物語的な名である。由来は細長い葉をカミソリに見立てて付けられたというが、そこでなぜキツネなのか。イヌやカラスはイヌタデやカラスムギなど役に立たないものの名に付けられる例が多いが、キツネは珍しいのではないか、と調べてみると結構ありました。キツネアザミ、キツネノボタン、キツネノマゴ、キツネノヒマゴとでるわでるわ。犬や鴉同様、狐も日本人に古くから馴染みの動物だったことがわかる。そして、カミソリやボタンなど、人間に化けるときに使うという見立てなのかもしれない。掲句は幾度も見ていた植物が、名だけを知っていた思いがけないものであったことの驚き。出合いの喜びより、ささやかな落胆がにじむ。〈腹擦つて猫の欠伸や夏座敷〉〈間取図に手書きの出窓夏の山〉『間取図』(2016)所収。(土肥あき子)


July 2472016

 夕立を写生している子供かな

                           清水哲男

情があります。子供は、夕立を選んで写生しているのか。それとも、写生をしていたら天気が急変したのか。いずれにしても、子供は夕立を写生し続けています。この時、降る雨つぶはどのように描かれているのでしょう。その目の先には、いつもと違う街の質感があります。雨つぶに打たれている舗道の影はゆらいでいて、樹は濡れて黒く、雨に洗われた葉は鮮明です。いつもの街が、初めての街に見えてくる。絵筆を握っていた手は、いつしか情景を前にして止まっています。同じ色はなく、同じ形はなく、同じくり返しはない。夕立は、子供を急速に成長させている。もしかしたら、これは、うつろいつづける自然と事象を肉眼で受けとめてきた清水さんの自画像なのかもしれません。『打つや太鼓』(2003)所収。(小笠原高志)


July 2372016

 何もかも何故と聞く子と夕焼見る

                           今井千鶴子

和三十三年の作なので子は四歳、作者はその長女と並びもうすぐ一歳になる次女を抱いて官舎の縁側に立って西の空を見ている。白金育ちのお嬢様は病院勤務の医師と結婚、そのまま東京で暮らすはずだった。ところが突然結核になった夫は療養も兼ねて箱根の国立療養所に転勤、こんなはずじゃなかったという思いを抱きながらこの年三十歳になった作者である。そして長女は「ねえなんで空が赤くなるの」といつもの「なぜなぜ攻撃」を仕掛けてきており、そうねえなどと言いつつ「なんでこんな田舎で暮らさなくちゃいけないの、何故って言いたいのは私よ〜」と心の中で叫んでいたにちがいない。今日も何とか一日が終わった、と見る夕焼が美しければ美しいほど泣きたいような気持ちになったことだろう。豊かな自然の中での暮らしは作者の俳句に大きな力を与え、四十三歳で東京に戻るまでの十数年間、俳句が作者を支えたに違いないけれど、この時の作者の心情を思うとちょっぴり切ない。『吾子』(1981)所収。(今井肖子)




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