December 082001
ヒマラヤの麓に古りし暦かな
山本洋子
外国に取材した句に、佳句は少ない。が、掲句はいただきだ。季語は「古りし暦(古暦)」で冬。使用中の今年の暦だが、来年用の暦が出回りだすと、古暦という感じになる。考えてみると、暦は目に見えない自然の時の流れを目に見えるようにした装置なわけで、実によくできている。装置の形態は種々に変化してきたが、人類最古の文化的所産の一つと言ってよい。暦の必要は、自然現象に関心を抱かざるを得ない生活から発しているはずだ。この国の農事暦などを見ると、そのことが実感される。そういうことからすると、野暮ったい暦のほうが本来の暦なのであり、昨今私たちの部屋にあるような洗練されたデザインのものは、自然現象に関心の希薄な人々のものでしかない。洗練は、自然から遠く離れたところで成立する文化なのだ。いまの「ヒマラヤの麓(ふもと)」では、どんな暦を使っているのだろうか。行ったことが無いのでわからないが、この暦は私たちのものよりも、自然を強く意識して作られているはずなので、見た目には野暮ったいかもしれない。しかしそれがどんな暦にせよ、「古りし暦」が季語として濃密に感じられるのは、現代の日本でよりも、こういう風土のところでだろう。私たちよりもずっと「暦とともにある」人々の生活が、あれこれと想像されて、とても味のある句だと思った。「俳句年鑑」(2002年版・角川書店)所載。(清水哲男)
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