January 132002
麦の芽にぢかに灯を当て探しもの
波多野爽波
季語は「麦の芽」で冬。冬枯れのなかに並ぶ若芽は、けなげな感じもあって印象深い。そのあたりを如何に詠むかが、俳人諸氏の腕の見せどころだ。たとえば虚子は「麦の芽の丘の起伏も美まし国」と、まことに美々しく詠んでいる。「美まし」は「うまし」。洒落るわけではないが「巧(うま)し」句ではある。類句とは言わなくとも、同じような情景の切り取り方をした句はゴマンとある。そんななかで、掲句は異色だ。麦畑を通りながら、不覚にも何か大切な物を落としてしまった。……と、帰宅してから気がついたのだろう。どう考えても、あのときにあのあたりで落としたようだ。もう日が暮れているので、懐中電灯を持って慌てて取って返す。で、たしかこの辺だったかなと見当をつけて懐中電灯のスイッチを入れた。その瞬間の情景をつかまえた句である。光の輪のなかに、とつぜん鮮やかに浮かび上がってきたのは当然ではあるが「麦の芽」だった。さて、読者諸兄姉よ。この瞬間に作者の目に写った「麦の芽」の生々しさを思うべし。こんなにも間近に、こんなにも「ぢかに」鮮やかに「麦の芽」を見ることなどは、作者にしても無論はじめてなのだ。「探しもの」が見つかったかどうかは別にして、この生々しさを句にとどめ得た爽波という人は、やはり只者ではない俳人だとうなずかれることだろう。晩年の作。1991年に、六十八歳で亡くなられた。もっともっと長生きしてほしい才能だった。『波多野爽波』(1992・花神コレクション)所収。(清水哲男)
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