September 1692002

 帰る家ありて摘みけり草の花

                           小島 健

語は「草の花」で秋。野草には、秋に花の咲くものが多い。ちなみに、俳句で「木の花」といえば春の季語だ。名も知れぬ花を摘みながら、こういうことをするのも「帰る家」があるからだと、ふっと思った。それだけのことでしかないのだが、考えてみれば、私たちの生活のほとんどはそれだけのことで占められている。そうした些事に、作者のように心を動かす人もいるし、くだらないことだと動かさない人もいる。どちらが幸福だろうか。最近読んだフランスの作家フィリップ・ドルレムの『しあわせの森をさがして』(廣済堂出版・2002)は、ちょうどそのことを主題にした本だった。「幸福であるのは当たり前のことではない。僕にはただ、多くのチャンスがあり、それが通り過ぎる間にそれを名づけたいという願いがある。芝居では、人々は桜の園が競売に付されるのを待ち望み、雪のような花々を懐かしむ言葉に出会うことになる。僕としては、それが売り物になる前に自分の桜の園を歌いたいものだ。僕は、人生からちょっと引っ込んだところ、まさに時間の流れからはずれて立ち止まっている」(山本光久訳)。このドルレムの言い方に従えば、掲句は「自分の桜の園」を歌っている。ささやかな「幸福」を、とても大切にしている。そして俳句は、いつだって「自分の桜の園」を大事にしてきた文芸だ。だからこそ、声高な「戦争」や「革命」や「希望」や「絶望」の幾星霜を生きのびてこられたのだと思う。『木の実』(2002)所収。(清水哲男)




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