September 252002
榎の実散る此頃うとし隣の子
正岡子規
季語は「榎の実(えのみ)」で秋。『和漢三才図会』に「大きさ、豆のごとし。生なるは青く、熟するは褐色、味甘にして、小児これを食ふ。早晩の二種あり。……」とある。榎(えのき)は高さ二十メートルにも達する大木だから、熟して落ちてくるまでは食べられない。落ちてくると、いつも拾いに来る「隣の子」が、このごろはさっぱりご無沙汰だ。どうしたのだろうか。母と妹との三人暮らし。来客のない日には、よほど寂しかったと思われる。子供でもいいから来てくれないものかと、願っている感じがよく出ている。子供は移り気だ。昨日まで何かに夢中でも、今日新しいことに興味がわくと、昨日までの関心事はすっぱりと放り投げてしまう。そのことは子規ももちろん承知しているから、もう来ないだろうと半分以上はあきらめているのだ。だから、いっそう寂寥感が増す。ところで、実は子規庵には榎の木はなく、食べられる実のなる似たような木としては椎の木があった。事実「椎の実を拾ひにくるや隣の子」と詠んでいる。では、なぜわざわざ「榎の実」としたのだろうか。最近出た中村草田男『子規、虚子、松山』(2002・みすず書房)によれば、「此句では、其椎の木を、松山地方には沢山ある榎の木にちょっと入れかえてみたのでしょう」とある。すなわち、望郷の念も込められている句なのであった。病者の寂しさは、どんどんふくらんでいく。『子規句集』(1993・岩波文庫)所収。(清水哲男)
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