September 2792002

 豊年や夕映に新聞を読み

                           加畑吉男

の季語「豊年」の意味は誰でも知っているが、昨今「豊年」を実感する人は、農家の人を含めても少ないのではあるまいか。品種、技術の改良工夫が進んできて、五穀の収穫も均質化され、よほどのことがないかぎり、まずまずの豊作は保証されるようになってきたからだ。その意味で、豊年はだんだん死語と化していくだろう。いや、もはや実質的には死語かもしれない。したがって、豊年の季語を詠み込んだ俳句が生き生きと感じられるのは、昔の句に限定される。掲句がいつ詠まれたのかはわからないけれど、戦後にしても、十数年とは経っていないころかと思われる。「夕映(ゆうばえ)」のなかで「新聞」を読む農夫……。忙しい収穫期に、まず新聞など読むヒマもない人が、今日は夕映のなかで新聞を読んでいる。豊作が確実となった心の余裕からか、あるいはあらかたの収穫を豊饒裡に終えた安堵からなのか。かつて農村に暮らした私などには、もうこの情景だけでジ〜ンと来るものがある。そして、この新聞は夕刊ではないだろう。いまでもそうした地方は多いが、夕刊がきちんと配達されるのは、都会か都会に近い地域に限られている。ましてや昔ならば、まず農村に夕刊が届けられることはなかった。この人は、だから朝刊を読んでいるのだ。夕映のなかにある朝刊。この取り合わせが、五五七の破調とあいまって、一読、胸に響いたまま離れないのだった。『合本俳句歳時記・新版』(1974)所載。(清水哲男)




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