November 04112002

 此秋は何で年よる雲に鳥

                           松尾芭蕉

が間近の元禄七年(1694年)九月二十六日、大坂清水での作句。詞書に「旅懐」とある。「何で年よる」の「何で」の口語体に、ただならぬ身体の不調感がよく表われていて、いたましい。「此(この)秋は」、どういうわけで、こんなにも急に老け込んだ感じがするのだろうか。「何故に」ではなく「何で(やろか)」とくだけた物言いのなかに、自問自答の孤独性が滲み出る。誰にせよ、自問自答に文語を使用することはしないだろう。文語はあくまでも他者を意識した表現なのだから、つまり他所行きの言葉なのだから、だ。そして、この「何で」は、皆目見当がつかないという意味でもない。ある程度の心当たりは、これまた誰にでもあるのが普通だ。芭蕉の場合には、愛弟子の人間関係のこじれを、放っておけば関西蕉門の分裂につながりかねないと、自ら調停に乗りだして失敗したことが言われている。「座の文芸」には、参加者の人間関係によって盛り上がりもすれば崩壊もするという生臭さがつきまとう。このときの芭蕉には、今で言えば相当にストレスの溜まった状態がつづいていたわけで、それが身体の弱りをなお促進したと考えてよいだろう。こういうときには、人間は「何で(こうなのか)」と精神的にも天を仰ぐしかない。で、そこには「雲に(消え逝く)鳥」があったと結んだ下五文字について、「寸々の腸(はらわた)をしぼる」と述べている。苦吟もここに極まり、最後の力を振り絞って振り出したような鳥の孤影への飛躍的表現が、「何で」の個人的な思いの切実さに、濃い輪郭と深い客観性とを与えることになった。(清水哲男)




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