May 1152003

 目高泳ぐ俳句する人空気吸えよ

                           豊山千蔭

語は「目高(めだか)」で夏。私なら春期としたいところだが、夏場に水槽などに飼われ、涼味を鑑賞されたことからの分類のようだ。金魚や熱帯魚と同じ扱いである。でも、いまどき目高と聞いて、水槽の中に泳ぐ姿を思い浮かべる人がいるだろうか。なんとも違和感を覚える分類だけれど、俳句ではそういう約束事になっているのだから、誰もが夏の魚として詠んできた。このように、俳句には常識では首をかしげたくなるような約束事が多い。門外漢には隠語としか思えない季語もあるし、不可解な用語法もある。だから「俳句する人」は勉強しなければならないし、様式に慣れなければならない。特別な研鑽を積む必要がある。となると、つまるところ俳句は「俳句する人」だけにしかわからない文芸であり、結局は仲間内の詩だと断じても、あながち的外れな指摘とは言えないだろう。初心のころはともかく、こうして多くの「俳句する人」は、だんだん俳句世界のなかだけで「空気」を吸うようになっていく。公園や名所などで、句になりそうな動植物に群がっている手帖片手の人たちを散見するが、見ていて哀れだ。いまさら目を見張ってみたところで、そんなに急に何かが見えてくるわけじゃない。いくら目の前にそれがあっても、見え方はその人の器量にしたがって見えるだけなのだ。人の器量は、人生経験やら勉強した知識やら生得の感覚やら、その他の何やかやで構成される。決して、俳句だけで培った何やかやだけじゃないはずだ。ところが、往々にして「俳句する人」は俳句の器量だけで物事を見るようであり、そこから詠んでいくようであり、ますます仲間内の文芸を固めていくようである。まるで水槽のなかの目高なんだね、これは。掲句の作者は、それではいけないと言っている。もっと俳句の外の「空気吸えよ」と、俳句で言っている。『現代俳句歳時記』(1989・千曲秀版社)所載。(清水哲男)




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