July 3172003

 ふだん着の俳句大好き茄子の花

                           上田五千石

語は「茄子の花」で夏。小さくて地味な花だが、よく見ると紫がかった微妙な色合いが美しい。昔から「親の意見となすびの花は千に一つの無駄がない」と言われるが、話半分にしても、見た目よりはずっと堅実でたくましいところがあるので、まさに「ふだん着」の花と言えるだろう。作者は、そんな茄子の花のような句が「大好き」だと言っている。作者のような俳句の専門家にはときおり訪れる心境のようで、何人かの俳人からも同様の趣旨の話を聞いたことがある。技巧や企みをもって精緻に組み上げられた他所行きの句よりも、何の衒いもなくポンと放り出されたような句に出会うと、確かにホッとさせられるのだろう。生意気を言わせてもらえば、私もこのページを書いていて、ときどき駄句としか言いようのない句、とんでもない間抜けな句に惹かれることがある。それもイラストレーションの世界などでよくある「ヘタウマ」の作品に対してではない。「ヘタウマ」は企む技法の一つだから、掲句の作者のような心持ちにあるときには、かえって余計に鼻についてしまう。純粋無垢な句と言うのも変だろうが、とにかく下手くそな句、「何、これ」みたいな句がいちばん心に染み入ってくるときがあるのだ。私ごときにしてからがそうなのだから、句歴の長いプロの俳人諸氏にあってはなおさらだろう。そしてこのときに「ふだん着」は、みずからの句作のありようにも突きつけられることになるのだから、大変だ。茄子の花のように下うつむいてひそやかに咲き、たくましく平凡に結実することは、知恵でできることではない。「大好き」とまでは言ったものの、「さて、ならば、俺はどうすんべえか」と、このあとで作者は自分のこの句を持て余したのではあるまいか。『琥珀』(1992)所収。(清水哲男)




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