August 312003
法師蝉煮炊といふも二人かな
富安風生
季語は「法師蝉」で秋。我が家の近所でも、ようやく法師蝉が鳴くようになった。まだ油蝉のほうが優勢だが、短かった夏もそろそろおしまいだ。子供たちの夏休みも今日で終わり、明日からは新学期。これからは、日ごとに秋色が濃くなってゆく。ちょうど、そんな時期の感慨を詠んだ句だ。夏の盛りには独立した子供らが孫を連れて遊びに来たりして、「煮炊(にたき)」する妻は大忙しだった。みんなが帰ってしまったからといって、もとより煮炊の仕事が途切れるわけではないのだけれど、気がついてみたら、いつものように二人分の煮炊ですむようになっていた。毎年のことながら、法師蝉の鳴くころにはいささかの感傷を覚えるのである。揚句を印象深くしているのは、「煮炊」という言葉の巧みな 使い方だ。多くの人の感覚では、煮炊と聞くと、料理の素材の分量として「二人」分くらいの少量は思い浮かばないだろう。少なくとも、三、四人分か、もっと大量を想像する。作者もそのようなイメージで使っていて、だから「煮炊といふも」とことわってあり、それを「二人きり」と一息に縮小したことで、味が出た。すなわち、句には何も書かれてはいなくても、読者は作者宅の真夏のにぎわいを想像することができる仕掛けなのだ。俳句という装置でなければ、とてもこのような味は出ない。外国語に翻訳するとしても、外国人にも理解できる世界だとは思うが、ポエジーの質を落とさずに短く言い換えるのは不可能だろう。あくまでも、俳句でしか表現できない味なのである。『俳句歳時記・秋の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)
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