October 20102003

 山桜もみぢのときも一樹にて

                           茨木和生

の紅葉は早い。早い地方では九月の終わりころから色づきはじめ、他の樹の紅葉を待たずに早々と散ってしまう。ただ、句の場合は「山桜」だから、どうなのだろうか。子供のころの山の通学路に、それこそ山桜の「一樹」があったけれど、花の季節ならばともかく、紅葉のことなどは何も覚えていない。子供に、紅葉を鑑賞するような風流心はないし、あったら気色が悪い。端正な句だ。かくされているのは「花が咲くときも」であり、こうしてひっそりと年輪を重ねていく山桜の存在感をよく表している。私はこの種の自然のありようを人生の比喩として捉えるのは好まないが、掲句にはおのずからそのように読ませてしまう力が働いているようだ。やはり「一樹」だからだろう。盛りのときも枯れてゆくときも、せんじ詰めれば、しょせんは人も「一人」という思いを誘い出される。二十年も前のことだが、黒衣のシャンソン歌手ジュリエット・グレコが私の番組に出演してくれたことがあった。スタジオの窓からは皇居の紅葉がよく見える季節で、しばらく眺めていた彼女は「あれは私の色よ」と、かすかに微笑した。「私の色、人生の秋の色ね」と繰り返した。さすがにシャンソン歌手らしく上手いことを言うなと感心すると同時に、日本人なら「人生の秋」とまでは誰もが言うけれど、その色(紅葉)までを自分の年齢になぞらえることはしないなとちらりと思った記憶がある。むろんグレコが見たのは山桜の紅葉ではなかったが、掲句を読んで、ふっとそんなことも思い出されたのだった。『野迫川』所収。(清水哲男)




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