January 162004
夜目に追ふ雪山は我が帰る方
深谷雄大
北日本の猛吹雪はおさまっただろうか。テレビで見ていても足がすくむ思いだから、いくら雪に慣れているとはいえ、あの猛烈な雪嵐には現地の人もたじたじだったにちがいない。お見舞い申し上げます。ところで当たり前のことを言うのだが、雪国に暮らしているからといって、きちんと雪を詠めるとは限らない。その土地ならではの雪の様子を読者に伝えることは、雪が目の前にあるだけに、かえって難しいのだと思う。作者は旭川在住で、「雪の雄大」と異名をとるほどに雪の句の多い人だ。むろん佳句もたくさんあるが、初期の句を読んでみると、雪に観念の負荷をかけすぎていると言おうか、若さゆえの気負いが勝っていて、意外に雪そのものは伝わってこない気がする。たとえば「雪深く拒絶の闇に立てる樹樹」と、青春の抒情はわかるし悪くないのだが、雪の深さはあまり迫ってこない。そこへいくと同じ句集にある掲句は、過剰な観念性を廃しているがゆえに、逆に詠まれている雪(山)が身に沁みる。雪国の人にとっては、ごく日常的で、なんでもない情景だろう。雪の少ない街場の喫茶店あたりで、友人と談笑している。あるいは、仕事が長引いているのかもしれない。家路を急ぎながらの解釈もできるが、むしろ作者は止まっているほうが効果的だ。そんな間にも、ときおり気になって「我が帰る方(かた)」を「夜目に」追っている。何度も、そうしてしまう。夜だから、追っても何かが見えるわけではない。つまりこの言い方は、作者がそうせざるを得ない行為の無意識性を表現している。すなわち、旭川の雪と人との日常的なありようが鮮やかに捉えられている。地味な句だけれど、心に残った。『定本裸天』(1998・邑書林)所収。(清水哲男)
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