April 2842004

 夏みかん酸っぱしいまさら純潔など

                           鈴木しづ子

語は「夏みかん(夏蜜柑)」。夏に分類している歳時記もあるが、熟してくる仲春から晩春にかけての季語としたほうがよいだろう。これからの季節に白い花をつけ、秋に結実し、来春に熟して収穫される。句は、戦後彗星のように俳壇に登場し、たちまち姿を消した「幻の俳人」鈴木しづ子の代表作として有名だ。朝鮮戦争が激化していたころの作品である。つまり戦後まもなくに詠まれているわけだが、当時の読者を驚かすには十分な内容であった。いかに戦前の価値観が転倒したとはいえ、まだまだ女性がこのように性に関する表現をすることには、大いに抵抗感のある時代だった。良く言えば時代の先端を行く進取の気性に富んだ句だが、逆に言えば蓮っ葉で投げやりで自堕落な句とも読めてしまう。そして、多くの読者は後者の読み方をした。いわゆる墜ちた俳人としての「しづ子伝説」を、みずから補強する結果となった一句と言えるだろう。最近出た江宮隆之の『風のささやき』(河出書房新社)は、そうした作者をいわれ無き伝説の中から救い出そうと奮闘した小説だ。実にていねいに、しづ子の軌跡を追っている。本書の感想は別の場所に書いたので省略するが、著者は掲句の成立の背景には朝鮮戦争があったことを指摘している。当時のしづ子は米兵と恋愛関係にあり、出撃していくたびに彼の安否を気遣うという暮らしであった。だから、彼女は自分の純潔や純潔感を恥じたのではない。戦争の巨大な不純を憎んだがゆえに、「いまさら(世間が)純潔など」を言い立てて何になるのかと、そんな思いを込めて詠んだのだという。しかし特需景気に湧いていた世間は戦争の不純には目もくれず、作者の深い哀しみにも気がつかず、単なる自堕落な女の捨てぜりふと解したのだ。俳句もまた時代の子である。私たちが同時代俳句を読むときにも、心したいエピソードだと思った。『指輪』(1952)所収。(清水哲男)




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