June 2962004

 子の傘の紫陽花よりも小さくて

                           田中裕明

語は「紫陽花(あじさい)」で夏。たまに小さい子の傘をそれと意識して見ると、実に小さいものだなあと、あらためて思う。この場合は、作者のお子さんの傘かもしれない。どれくらい小さいのかと言えば、そこらへんの「紫陽花よりも」小さいのである。むろん、咲いている紫陽花のひとかたまりよりも、だ。雨の中を行く子の傘の高さも、だいたい紫陽花のそれと同じくらいだし、この比較はごく自然であり無理がない。単純にして明快である。田中裕明の句はたくさん読んできたが、持ち味を一言で言えば、この単純明快さにこそあると思う。言い換えれば、作句時における作者は、常に言いたいことをはっきりと持っていて、そのために表現の焦点を絞り込んでいるということだ。誰だって、言いたいことがあるから詠むんじゃないの。と思われるかもしれないが、それはそうだとしても、言いたいことの実現のためにフォーカスを絞り込むのは楽な作業ではない。つい周辺のあれこれに目移りがして、そのうちに言いたいことから句がずれてしまう経験は、誰にもあるだろう。そうやってずれてしまった句が、けっこう客観的には良い句に仕上がったりもするのだから厄介だ。自身の本意からずれてしまった句は、いかに佳句のように見えようとも、当人にとっては不本意のままでありつづけるだろう。そんな不本意な句をいくら積み重ねても、表現者失格である。俳句様式の怖さの一つはここにあるのであって、いくらずれても句にはなるし、それらしくもなる。すなわち逆に、言いたいことを俳句で言うのがいかに難しいか。掲句はなんでもない句のようだが、その意味で、俳句様式の甘い罠にとらわれることなく、しっかりと言いたいことを言い切った好例として掲出しておきたい。抒情性も十分だ。『先生から手紙』(2002)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます