坂を下ることから

倉田良成



空で無形のカーテンが揺れる この街の坂は永遠のほうへ延びていて 白い洗濯物をおびただしくひらめかす 濡れた虹彩が映す精緻な夏の市街図 猛禽の眠りの時が太陽とともに過ぎてゆく 窓際のコップに挿したパセリの塊の たけだけしい緑の氾濫に充ちてゆく水滴のために またひとつ ちいさな宇宙は創始されなくてはならないのだ ダイニングルームのあたらしい眼光のなかで 坂を下ってゆくと ひたひたと透明な潮は上昇してくるだろう それが希望だと気づくためには この新緑の街を浸す 淡い血の淵の存在まで降りてゆかねばならない 若い母親の制止を振り切って走るおさな子の 空気にそよぐ金の産毛に 飢えた世界はその秘密を託すのだ 小学校のバザーから聞こえてくる歓声の ただならぬたいらぎが秘めるむごさのうえに 青空は鳴れ 鐘はひびけ いつもここからが発端である ノブをまわして坂の上に立つことからが ここからは見えない 丘のむこうには濃く鮮明な海があるはずだ 逞しく起ちあがる積乱雲のしたで 風景にはむすうの楽譜の線が引かれ とつぜんかがやく亀裂のように雨が襲来して去る 金管楽器の法悦は終わった いっせいにたちのぼる水の死骸の 明るい翳を踏んでわれわれは下った 午後 蘇生した光を悲しみのように浴びながら 木々の祝祭に沸く公園のほうへ歩いていった

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エキスパンドブック版  [98/4/6 朗読会]
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