詩 都市 批評 電脳第14号 1994.8.17 227円 (本体220円)〒154 東京都世田谷区弦巻4-6-18 (TEL:03-3428-4134:FAX 03-5450-1846)(郵便振替:00160-8-668151 ブービー・トラップ編集室) 5号分予約1100円 (切手の場合90円×12枚+20円×1枚) 編集・発行 清水鱗造 |
ももんがとぶんがく |
駿河昌樹 |
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あたしの死体じゅくじゅくじゅく |
駿河昌樹 |
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大山児童食器店のうた |
駿河昌樹 |
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引っ越し |
布村浩一 |
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今を超えないように |
布村浩一 |
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蛙男 |
田中宏輔 |
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回す! |
田中宏輔 |
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桃 |
田中宏輔 |
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絵日記 |
田中宏輔 |
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ローセキ |
田中宏輔 |
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アゲハノカンサツ |
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ペットランドからの通信 |
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煙洞 |
清水鱗造 |
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茶壷のなかの風 |
沢孝子 |
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坂を下ることから |
倉田良成 |
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眠い |
長尾高弘 |
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足留まり |
長尾高弘 |
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夜の海から |
長尾高弘 |
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回復 |
園下勘治 |
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塵中風雅 (一一) |
倉田良成 |
元禄三年陰暦六月初め、京に上った芭蕉は夏の暑い盛りを十八日まで滞在し、去来、凡兆、如行らと「昼夜申(まうし)談(だんじ)」(元禄三年六月三十日付曲水宛書簡より)、「おもひの外(ほか)長滯留(たいりう)」(同)となって、十九日、幻住庵に戻っている。帰庵早々、大坂の商人何処によってもたらされた加賀の小春(しようしゆん)の書簡に短い返事を認める。以下全文を引く。 何處(かしょ)持参之芳翰落手(はうかんらくしゆ)、御無事之旨珍重令存(ちんちようにぞんぜしめ)候。類火之難御のがれ候よし、是又(これまた)御仕合難申盡(しあわせまうしつくしがたく)候。殘生(ざんせい)いまだ漂泊(へうはく)やまず、湖水のほとりに夏をいとひ候。猶(なほ)どち風に身をまかすべき哉(や)と、秋立比(たつころ)を待(まち)かけ候。且(かつ)両御句珍重、中にも、せりうりの十錢、小界(生涯)かろき程、我が世間に似たれば、感慨不少(すくなからず)候。口質(こうしつ)他に越(こえ)候間、いよいよ風情可被懸御心(ふぜいおこころにかけらるべく)候。愚句 京にても京なつかしやほとゝぎす 暑氣痛(いたみ)候而及早筆(てさうひつにおよび)候。 季夏二十日 小春(せうしゆん)雅丈 はせを 小春の閲歴については以下のとおり。小春。亀田氏。通称伊右衛門。名は勝豊。白鴎斎と号す。加賀金沢の人。旅宿業宮竹屋喜右衛門道喜の三男。長兄伊右衛門勝則の養子となり、その兄が創業した薬種商宮竹屋の二代目となる。北陸行脚の途次、芭蕉が本家の宮竹屋に泊まったことが機縁となって入門。そのときの唱和が「寝る迄の名残也けり秋の蚊屋 小春」「あたら月夜の庇さし切る 芭蕉」である。俳諧歴は元禄二年刊の「阿羅野」にはじまるが、その活動範囲は加賀俳壇をおおきく超えるものではなかった。寛文七(一六六七)年に生まれ、元文五(一七四〇)年歿。享年七十四。 「せりうりの十錢」とは「卯辰集」に収める「十銭を得て芹売の帰りけり」のことを指す。また書簡中「類火の難御のがれ候よし」というのは、元禄三年三月十六日の夜から翌十七日に及んだ金沢の大火のことを指す。加賀俳壇の仲間である北枝はこれによって家を焼かれ、このときに「焼(やけ)にけりされども花はちりすまし」という句を得て芭蕉に激賞されたことはよく知られたエピソードである。小春の家は類焼をまぬかれたらしい。「殘生いまだ漂泊やまず」とあるが、元禄二年春にはじまる北国行脚以来、芭蕉は江戸には帰っていない。江戸に戻るのはこの書簡の翌年、元禄四年の十月まで待たなければならない。もっとも芭蕉にしてみれば、江戸に「戻る」という意識は希薄なものであったかもしれない。だいいち帰るべき庵は人に譲り渡してしまっているのである。元禄二年の旅立ちのときと同じく、元禄四年の入府にさいしても杉風の採荼庵(さいたあん)などにやっかいになっていたようである。それに四国・九州までも、とこころざしを洩らした芭蕉のことである(「四國の山ぶみ・つくしの舩路(ふなぢ)、いまだこゝろさだめず候」元禄三年正月二日付荷兮宛書簡)。「猶どち風に身をまかすべき哉と、秋立比を待かけ候」という言葉のうちに江戸のことが頭にあったとはとうてい考えられないのである。 このとき、「せりうりの十錢」の句は、芭蕉のこころによくひびいたのではないか。「小界かろき程、我が世間に似たれば」というのは芭蕉の実感であったにちがいない。ただ、これが元禄三、四年ごろからさかんに芭蕉が提唱しはじめた「新意」「かるみ」とどう関わるかというとこれは一筋縄ではいかない問題をはらんでいるだろう。現に「かろき小界」を観じた芭蕉自身の句を探ってみれば、これ以前にも「ものひとつ瓢(ひさご)はかろき我が世哉」(貞享三年)、「一つぬひ(い)で後(うしろ)に負(おひ)ぬ衣がへ」(貞享五年)などが散見されるからだ。ちなみに前者は江戸深川芭蕉庵での、後者は「笈の小文」の旅中での吟であるが、草庵住まいでなければ旅にあるといった二者しか選択肢を持たない芭蕉の「小界」をまことに象徴的に表している二句であるといってよいだろう(ここに引いたのはたまたま偶然ではあるが)。ただし、これらは「かろき」へ向かう志向ではあるが、その全き成就ではないということは言える気がする。言い換えればここでの「かろさ」は観念や思想ではあっても、芭蕉という存在の機微をおびやかしかつ祝福する「詩」ではありえていない。芭蕉はこのころまだなにものかに渇えている。 元禄三年前後、芭蕉がしばしば「かろさ」について言及していることは、すでに前の項でも書いた。たとえば元禄二年十二月の去来宛書簡では「尚々(なほなほ)愚句元旦之詠、なるほどかろく可被(いたすべく)候。よくよく存(ぞんじ)候に、ことごと敷工(しきたく)み之(の)所に而御座無(てござなく)候」とか、元禄三年四月十日付の此筋(しきん)・千川(せんせん)宛書簡の「猶(なほ)はいかい・發句、おもくれず持(もつ)てまはらざる樣(やう)に御工案可被成(こうあんなさるべく)候」、また元禄三年の春に詠まれた「木のもとに汁も膾も櫻かな」にふれて、「花見のかゝりを少し得て、かるみをしたり」と言ったとある(三冊子より)。 結論から先に言ってしまえば、筆者としてはこれら一連の言及の流れのうちに「十銭を得て芹売の帰りけり」への称賛をとらえておきたい。すなわちこの句はまぎれもなく芭蕉が目する「かるみ」の句でありながら、句中に「かるい」という言葉などまったく使われていないことに思い当たられたい。ここにおける「かるみ」とはなにか。青々とした香草を差し出し、わずかな銭を握って長居もせずに帰ってゆく芹売りの後ろ姿に早春の光まで透けて見えるようだ。そんなことはどこにも書いていないが。句眼は「芹売」の一語だろう。「十銭を得」るから「小界」がかるいのではない。芹という、鮮烈な春の香りを放つが存在自体ははかないものを売る者であるからこそ、そこに「詩」があり、生業(なりわい)はかるくてそして尊いのだといえる。芭蕉が目している「かるみ」とは案外奥が深いもののように思われるのである。この句など、なにか蕪村の「鮎くれてよらで過行(すぎゆく)夜半の門」を思い起こさせると言ったら過褒であろうか。「口質他に越候」と芭蕉の慧眼はさすがにそこのところをはずしていない。のちにはかばかしいはたらきも示さなかった、この親子ほどにも年の隔たりのある薬種屋の跡取りの、匿された資質をどうも芭蕉は感じ取って愛したらしい形跡があるのである。 ところで、書簡中の「京にても京なつかしやほとゝぎす」の句は、たんに近作を無機的に報じただけのものであろうか。この句を仔細に眺めてみると、京住まいの生活者の視点ではけっしてないことがわかる。「京」というしたたかな存在のただなかで、一種既視感にも似た感覚に見舞われている深更の自画像は、まさしく旅中にある者の像にほかならない。「京」という王城の地で、過去数知れず歌に詠まれてきた幻鳥としてのほととぎすを聴く――そこにかぎりない慕わしさ、懐かしさがあるというのは「京」にとっては異邦人である「小界」のかるい旅人の視線だといえよう(ちなみにこの句の別のバリアントの前書には「旅寓」とある)。その意味でこれは「せりうりの十錢」の句への濃(こま)やかな唱和であったと私は考えるのである。この旅人の視線は、西行の「としたけてまたこゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山」にも比肩しうる次の句に昇華されていったと私は思う。元禄七年、芭蕉五十一歳の、最後の旅の途次で詠まれた吟であった。 世を旅にしろかく小田の行戻(ゆきもど)り (この項終わり) |
バタイユ・ノート2 バタイユはニーチェをどう読んだか 連載第7回 |
吉田裕 |
5 過剰から神秘へ・ニーチェを照らし出すものとしての社会科学研究会 雑誌「アセファル」のなかでニーチェが非常に大きな役割を果たしたことを、数回にわたって読んできたが、今回は社会科学研究会のなかで、またそこで活動するバタイユのなかで、ニーチェがどのような意味を持ったかをみることにしたい。とはいえ、この時期のバタイユの活動をとらえるのに、「アセファル」に触れ、次いで社会科学研究会というやり方でとらえようとすることについては、いくつかの点で注意が必要である。というのは、バタイユ自身が「自伝ノート」のなかで言っているのだが、社会科学研究会の活動は、結社としての「アセファル」のもう一つの外部活動機関として想定されていたからである。だから結社「アセファル」、雑誌「アセファル」それに社会科学研究会の三つの活動は、互いに強く結ばれており、かなりの部分で重なりあっている。前回に見たように、社会科学研究会の設立広告は、「アセファル」の3・4合併号に掲載されていた。時間的な面から言えば、この設立宣言が出されるのは37年7月であり、その実践としての講演会活動が行われたのは、37年11月から39年7月までであって、「アセファル」の最終号である第5号の刊行は39年6月であるから、社会科学研究会の活動は、「アセファル」にほぼ重なっていることになる。結社「アセファル」も、ロールの死を経た後も、39年まで持続していたようだ。だからこの時期の彼の活動を、簡単に「アセファル」(結社と雑誌の二つの意味で)から社会科学研究会へという言い方をするわけにはいかないのだ。バタイユはこれら三つの活動を、一貫したものととらえていた。ただ実際には、それぞれ性格が違うこともあって、参加者は必ずしも同じではなかったし、また結社と雑誌の「アセファル」についてはバタイユがリーダーシップを持っていたものの、社会科学研究会に関しては中心人物はカイヨワだと見られていたようだ。38年7月にNRF誌にバタイユ、レリス、カイヨワの3人の論文が発表されたとき、問題にされたのはほとんどカイヨワの「冬の風」だけだったらしい。共同体の今日的な可能性を探ることをうたったこの論文には、右翼からの反応もあったとのことである。 社会科学研究会の活動は講演が主であったから、資料らしいものは元々少なく、さらに散逸していたが、77年にオリエによって収集がなされ、かなりよくわかるようになった(邦訳『聖社会学』工作舎。現在ではさらに増補版が準備されているらしい)。しかしそれをニーチェという関心から読んでみると、意外にニーチェに対する言及が少ないことに気がつく。ニーチェを主題にした講演は行われていない。バタイユもそのような講演を行ってはいない。資料が残っている講演のなかでニーチェの影響がもっとも明らかなのは、39年1月のガスタラの「文学の誕生」であろう。「悲劇の誕生」を思わせる題は、たしかにそれを文学に応用したことを思わせるが、論旨は意外に平凡で、編者のオリエは、この講演についてクノーが「ニーチェ以来誰でも言うような常套句の域を出ていない」と評したことを明らかにしているが、たぶんその通りだろう。そのほかのところでは、ニーチェの名は散見される程度である。比較的かたちを保ったまま残っているバタイユの講演のなかで、いくらか目に付くのは、最初の講演会である37年11月に彼が行った「聖社会学および『社会』『有機体』『存在』相互の関係」のなかで、〈ニーチェは無機物質に知覚が存在し、したがって意識が存在すると考えていた〉と書いている部分である。彼は自分もものごとを同じように見る傾向があり、そのようなニーチェの文章を非常に興味深く読んだと述べているが、これは無機物質も含めて世界を意識の作用を媒介として総体的な交感状態におこうとするためだったのだろうか。もっともそのあとに、ニーチェもその当時この問題に深くはかかわらなかったと述べているから、この言及もさしたる重要性を持っているわけではないようだ。 だからこの時期のバタイユのニーチェ像を見るためには、社会科学研究会ではなく、雑誌「アセファル」が適当だと言うことになるだろう。しかしながら、社会科学研究会に仮にニーチェに関する直接の言及が少ないとしても、それがバタイユのニーチェ理解について知るために益するところがないと言うことはできない。なぜなら、雑誌「アセファル」でニーチェの影はすでに大きいが、その3・4合併号から5号にかけて度合いを急速に高めていくニーチェの神秘主義的解釈の傾向は、刊行期間が長いこともあって、必ずしも「アセファル」だけからは読みとりにくいのだが、社会科学研究会の活動は、背後からこの部分を照明してくれるように見えるからである。 社会科学研究会の記録を通読して、いちばん印象的なのは共同体に対する強い関心であろう。共同体に関する関心があったればこそ、社会学を表題とする活動を組織したのだから、それは当然だとは言えるし、またバタイユには社会学に対する関心がずっと以前からあって、それがここで実践的活動を行わしめるほどの力を持つようになったとも言えるが、それでもここではもっと根本的に、なぜバタイユが共同体や社会に対して持つ関心がこれほど強いものになったかを考える必要があるだろう。補足しておくなら、共同性への関心は、結社「アセファル」やこの社会科学研究会を別にしても、またもう一つある。それは37年4月の「集団心理学会」の設立のことである。会長にピエール・ジャネという高名な心理学者をいだき、バタイユは副会長に名を連ねている。これもまた今のところ、ほとんど名前だけが伝えられているものの資料のない、あるいは本当に名前だけで終わって実質がほとんどなかったかもしれない、ある点ではいかにもバタイユ的な活動のひとつではあるが、それは少なくとも、名称が示しているように、集団すなわち共同性に対する関心を表したものではあったはずだ。 集団、共同体、あるいは社会と呼ばれるものに対するこれほどの関心はなぜなのか。それは共同性が、神秘と表裏一体の関係にあったからである。共同性と神秘経験が結びつくことは、現在の水準ではわかりやすくはないだろう。共同体とはとりあえず社会のことだとすると、現在の通念からすれば、社会とは複数の個体の集合であり、この結合は合理的であるべきであり、そのような場合神秘経験は社会に対立するからだ。けれども神秘と共同性は、本当はひとつのものの表と裏であることを、バタイユは社会学あるいは精神分析学を引用しながら主張する。社会は単に個体の集合ではない。個体が集まって社会を作るとき、そしてそれが単なる集合ではなく有機的に結合するとき、そこには個体の和以上のものがあらわれる。その時この集団は共同体と呼ばれることになる。 ではこの和以上の部分はなにか? それは文字どおり過剰なものである。この過剰さは、過剰さであるからには、共同体内部では解消されえない。するとそれは犯罪、破壊、暴力等共同体を脅かすものとして現れ、共同体を動揺させるのだが、共同体は逆にこの動揺を、共同体の本質としての過剰なものを確認する機会として利用し、自己を共同体として確立するのである(たとえばフロイトによれば兄弟による父親殺しがあり、またバタイユは、イエスの処刑によってキリスト教団が成立するとみている)。ただしこの時、共同体確立の根拠となった犯罪、破壊、暴力そのほかは、共同体を揺さぶるものでもあるために、隠蔽される。するとこの隠蔽によって犯罪そのほかは、触れてはならぬものとして聖なるもの、神秘的なものという性格を帯びることになる。 バタイユとその友人たちは、社会科学研究会の活動のなかで、社会や共同体の結束点である聖なるものの探求をおこない、それは同時に新たな共同性はどのように可能であるのかの探求でもあったが、それは反対側では、共同体の結節点となるべき神秘的な体験の可能性を探し求めることであった。 バタイユに限って言えば、この関心はもちろんそのとき急に始まったものではない。共同体が生じさせる和以上のものは、「消費の概念」以降、彼がまさしく過剰という名で惹かれ続けてきたものであったからだ。そしてこの過剰分を放出するための非生産的消費は、贈与、性愛、戦争であったが、これらが聖なるもの、神秘的なものとほぼ同一であることは、容易に理解される。しかしながら、この部分には階梯を想定し他方が問題ははっきりするだろう。つまり過剰はさらにその性格を強化して、神秘となって現れることになる。この時期のバタイユは神秘的なものへの傾斜を急激に強めていった。そのことは、いくつかの面で観察できる。先に言っておけば、神話と神話的なものへの関心はこの時代に顕著に現れていた。オリエは、神話は時代の流行だったと言っている。彼の盟友であったカイヨワが38年に「神話と人間」、39年に「人間と聖なるもの」を出し、レヴィ=ブリュルに「原始神話学」35年、「原始人における神秘体験と象徴」38年があった。ほかにナチスムに近いところで、ローゼンベルク「二〇世紀の神話」がある。 バタイユもこのような著作と時代を共有している。彼においてこの傾向は、まず神秘経験を持った人物への関心となって反映する。彼がフォリニョの聖アンジェラやアヴィラの聖テレジアをはじめとするキリスト教の聖女たちへの関心を深めていくのはこのころからである。シュリヤによれば、バタイユの最初の神秘主義的テキストは、「死を前にしての歓喜の実践」だということだが、これは前述のように、「アセファル」第5号の「ニーチェの狂気」の特集号にでたもので、39年のことである。同じ関心がニーチェを眺める視野のうちにも侵入し、その結果としてニーチェの像を変え、神秘主義的解釈が始められたように思われる。だが彼の神秘化の傾向は、他と比べてさらに過激だったらしい。レリスは社会科学研究会の発足当時から批判的だったが、カイヨワでさえも次第に批判に転じるようになり、それが結局は社会科学研究会を崩壊させることになる。 しかし今はバタイユの軌跡を追うことにしよう。このように「過剰」が「神秘」へと読み変えられていったとき、他方それと相関関係にあった「共同体」も変化を起こさざるを得ない。突飛な言い方に聞こえるかもしれないが、共同体が変化していった先は「戦争」であると言えるように私には思われる。過剰はあまりにも過剰なものとなり、共同体の秩序のなかに回収され得なくなる。そこで引き起こされる戦争とは、有機的な組織としての共同体の共同性、つまり人間と人間を結びつけ対立させる力がもっともむき出しにされた状態ではないのか。戦争とは共同体の本質が露呈される瞬間なのだ。 彼は〈戦争と供犠の儀礼と神秘的生活には等価性がある〉と言っている(「有用性の限界」)。これは文字どおり、神秘と戦争の同一性を言っている。さらにバタイユが男女の性愛をしばしば供犠のイメージで語っていることを思い出せば、この同一性のなかにさらにエロチスムの問題を重ね合わせることができるだろう。事実バタイユは、社会科学研究会の最後の講演で、おそらくは不特定多数を相手にする講演という性格のために押し隠していた性愛に関する考えを、あたかもそれが最後の講演になることを知悉しているかのようにあからさまにし、性愛が共同体の擾乱に繋がっていくことを明言する。〈彼らは抱擁のなかで出会う共通存在を越えて、激しい消費のうちに見境のない無化を要求するのです。その消費のなかでは、新たな対象、つまり一人の新たな女あるいは男の所有も、さらにいっそう破壊的な消費のための口実にすぎません。………こんなふうに彼らは徐々に、自分たちの供犠への熱狂を伝染させ広めるという欲望にとりつかれてゆきます〉。ニーチェの像をめぐってなされたその神秘化と戦争のなかへの位置づけは、以上のような全体的な流動化のなかのひとつの例であるが、またニーチェの像の変化という限定された例を検証することで、この全体的な流動化を観察することもできるのである。 (この項終わり) |
Booby Trap 通信 No. 5 |