第18号 1995.8.17 227円 (本体220円)〒154 東京都世田谷区弦巻4-6-18 (TEL:03-3428-4134:FAX 03-5450-1846)(郵便振替:00160-8-668151 ブービー・トラップ編集室) 8号分予約1100円 (切手の場合90円×12枚+20円×1枚) 編集・発行 清水鱗造 ブービー・トラップ特別号No.1、8月末日出来! 『presence/echolalia』(プレゼンス/エコラリア)発行:昧爽社 田中宏輔の二つの長編詩〈陽の埋葬〉を収める。 この号は予約には含まれません。別途、注文してください。700円(送料込み) なお、書店でも買えます。その際は、地方・小出版流通センター扱いと指定してください。
清水鱗造 一枚の景色が少し浮き上がってもう一枚の景色を作る。しかし、はがれた一部はもとの景色とくっついていて、樹木の根も絡まりながら二つの景色とつながっている。 ぼくは毎日人に出会う。そして話が始まる。しばらくすると出会ったことは、生成でも破壊でもなかったことに気付く。生理の行方はゼロ方向に毛細血管を張り巡らす。 これは一枚の景色とそこからはがれた景色のあいだ、何もない部分に発達するから、誰も見ることはできない。 遠近法はここからの距離、見えない地点への方向を表わすが、いっぽうで考え方の一つの型を眼から与えている。自分からの距離は生活するときにはとても意識しなければやっていけないが、密着することも無限遠に離れることも、まったく同じことなのだ。 だから作るとき遠近法を駆使することは〈厳粛な遊び〉〈普通の生活〉の枠のなかに思想を入れることだ。 そのような遠近法の〈団子〉を台所で味噌汁を作っているとき、たしかに感じている。 |
にぎやかな場所 |
布村浩一 |
|
花々のための恋唄 |
倉田良成 |
|
夜景 |
長尾高弘 |
|
私の壁 |
長尾高弘 |
|
裁判 |
長尾高弘 |
|
旅仕度 |
荒川みや子 |
今年の夏の暑い日に、おばあさんが死んだ。去年の夏の暑い日におじいさんが死んだ。二人共生きるのを終えたので旅の仕度をしなければいけない。娘と二人して始めた。それは白い脚絆である。羽のように軽くうすく、足に捲くと冷たい水音がする。編み笠も置いた。足には草鞋をそえた。足袋もはかせる。広い広い地平線と空のあいだにおばあさんは横たわる。冷たい水がひたひたわたしたちを取り囲み、祭壇近くまであふれ出した。生きているわたしたちには、冷えた番茶があった。Tシャツの裾から欠けた月も過ぎる。朝顔、レンコン、ザリガニも出てきた。娘は傍で毬を投げている。二人して膝を折ったまま止まっていようか。イヤイヤ、わたしたちは豆を剥かねばならない。私が嫁さんに来た当初のように、私は娘とそら豆を剥かなければならない。 おじいさん、うまく川を渡れよ三途の川。小銭は入れといたよ。おばあさん、おばあさんの息子と私は仲よく川の中にいるよ。バタバタ、ブクブクああたのしい。だから、できるだけ遠くことさら遠く、マメの蔓を登ろう。鳥さえ落さずように。 |
秋の歌 |
駿河昌樹 |
|
駆ける森 |
駿河昌樹 |
|
いまここで火を焚く |
駿河昌樹 |
|
仮面にはらむ夏 |
沢孝子 |
|
陽の埋葬 |
田中宏輔 |
|
矢印 |
清水鱗造 |
|
バタイユ・ノート3 バタイユ・マテリアリスト 連載第2回 |
吉田裕 |
3 「ドキュマン」以前 物質性への関心は、バタイユにおいて最も注目すべきものの一つだろう。物質性はバタイユにおいて、どんなところでも作用している。ほかの要素はかき消されてしまうように見えるところでも、それはかならず作用している。たとえば精神分析学というテーマをとり出してみる。するとバタイユがそれに引かれた時期と批判的になっていった時期のあることが見えてくるが、だからといって、バタイユはこのような理由から精神分析学に関心を持ち、後になるとこのような理由から関心を失った、と述べることには、ほとんど意味はない。なぜなら関心のこの消長は現象にすぎないからだ。それは根底的には、物質的なものへの関心に動かされているが、それを見ないかぎり、精神分析学またほかのどんな主題も、個別的であるにとどまる。またこの関心抜きでは、ほかの主題につながっていくということも起こらない。たとえば、もう一つ政治的関心という主題を取り出すとき、これら二つのものへの関心は、何年頃には、精神分析学に関心を持ち、また別のの時期には政治的な関心を示したという年代記的羅列にとどまる。それでなければ、集団形成に関する心理学は政治的関心と同質の関心であるという指摘にとどまる。だが、これらバタイユが次から次へともった関心は、簡潔だがもっと深い関心に貫かれている。この関心は、私の見るところでは、物質的なものへの関心なのだ。それをとらえることで、彼の目の眩むような多様性は、もっとはっきりとしてくるだろう。 それぞれの個別の主題の中のいくつかには、個別性の枠が破られていく場面の現れることがある。政治的関心の場合は、そのひとつの例である。たとえば「ニーチェ時評」(三七年)で、〈共同の情熱が人間の諸力を結び合わせるのに十分な大きさを持たなくなったときには、強制力に頼ること、またさまざまの調整、取引、ごまかし等を発達させることが必要になる。これが政治という名を受けることになったのだ〉と彼が言うとき、彼は普通政治という名のもとに受け取られているものの奥に、本来的な何かの運動を見ている。この運動こそが本当の意味で政治的なものに違いないのだが、それは根本的には、共同体を熱狂のうちに動かす作用をもっとも強く持つ死のなせるわざであることが証明される。だが死とは、人間の物質性があらわになる瞬間でもあり、その意味では、共同性そして政治とは、物質にかかわり、物質性のもたらす運動であることになる。バタイユの政治という概念をそこまで踏み込んでとららえておけば、戦争が始まってバタイユは政治に背を向けたと言われる出来事の意味を、過剰あるいは過小にとらえる過ちを免れることができる。政治的と見える体験と考察の中に、常に変わることなく作用し続けたのは、物質的なものへの関心と、そこから来る否応なしの力だったからだ。それは彼の次の探求と実験の中でも継続した力だったからだ。 精神分析学や政治というのは例証にすぎない。だから物質性の作用はバタイユのあらゆる関心と主題に作用していて、それをできるだけ多くの領域でとらえたいのだが、そのためにまずそれが最初の時期にどのように現れたかを検証する。なぜなら最初期には、この関心はもっとも率直なかたちで現れているにちがいないからだ。対象とするのは主に「ドキュマン」以前の部分である。この時期のバタイユの活動については、便宜的な分け方に過ぎないが、小説と論文とまだ実践的ではないが政治的な関心の三つの相でとらえることが、有効ではないかと私には思われる。 一九一八年二十一才の時の「ランスのノートルダム」を別にすると、二三年に彼はシェストフの「トルストイとニーチェにおける善の概念」の翻訳に協力し、二五年には「シュルレアリスム革命」のために「ファトラジー」を翻訳している。だが彼自身による著作としては、二六年の『WC』が最初である。これは破棄されたが、一部分は残り、「ダーティ」と題されて後に『青空』に組み込まれる。それを見るとこれがエロチックな小説であったことがわかる。これをきっかけにして彼は同様の小説あるいはエッセイふうのものをいくつか書く。二七年には「松果腺の眼」、「太陽肛門」、そしてボレルによる精神分析の療法の一つとして『眼球譚』に着手し、これは長編となるが、翌二八年書き終えられ、出版される(同じ年に『ナジャ』が出ている)。そしてこの時期、つまり二六年から、彼は美術と考古学の雑誌「アレチューズ」に寄稿しはじめる。これは学術雑誌であって、彼はそこに彼の古文書学、あるいは配属された国立図書館の貨幣室の専門家として、モンゴル、ベネチア、インドの貨幣についての専門的な論文を発表している。「アレチューズ」への協力は二九年まで続く。そして二八年には、「プレコロンビア芸術展」――つまりコロンブス以前の南米文化に関する博物展――に接して、「消え去ったアメリカ」を書く。この論文は、血と残酷さへの彼の関心を明らかにしてきわめて重要であり、以後論文の先駆けとなるものである。 バタイユにおいてエロチスムは、常に汚辱する行為として現れるということに、昇華に反抗する物質性の存在を認めることができるが、そうすると、後に彼の関心の中枢を占めることになる物質性への関心は、まずエロチックなものとして、小説を書くことの中であらわになったということができる。おぞましさという点では、先行する「松果腺の目」や「太陽肛門」のほうがまさっているかもしれないが、最初の成果が『眼球譚』であることは、量から見ても、また地下出版であれかたちになったことから見ても確かである。 他方、論文というかたちでこの関心があらわになるのは、少し遅れるようだ。だが右にあげた学術的という枠のうちにあるを論文も、詳細に読んでいくと、ここかしこに後に固有の関心の萌芽が論文という枠を破って出てくるのを見い出すことができる*1。彼は「アレテューズ」に計七つの論文を寄稿しているが、主に書評と紹介であって、長いものは二つである。それらは「ムガール帝国の貨幣」および「ササン朝クシャンの貨幣」と題されていて、後者は純粋な学術的論文であって客観的な記述に終始しているが、前者には、後のバタイユから見てわかることではあるが、学術性の枠を破るような記述がある。四代のムガール帝国の皇帝の貨幣政策について述べているのだが、バタイユは、その中でもっとも華麗な貨幣を造った第四代皇帝のジェハンジルの人物性に、貨幣についての研究という枠を超えるような関心を示している。この皇帝は大酒のみで、残酷で、殺害者で、「激しい愛情」を持った女を、その夫を殺して奪い、后にする。そして彼の鋳造させた貨幣には、イスラムの伝統がある地域にしては珍しく、さまざまの動物が刻印される。このような人物への関心はいかにもバタイユ的で、次の「消え去ったアメリカ」を準備し、またはるか後のジル・ド・レーへの関心を予告しているようだ。 「消え去ったアメリカ」は学術雑誌に載せられているから、学術論文として執筆されたのだろうが、言葉づかいも客観的と言いがたいものが多くなり、彼の関心はいっそう前面に出てくる。彼はより豊かで進んでいるとされるインカやマヤよりも、〈気違いじみた暴力と夢遊症的な歩み〉を持つアズテカ文明に惹かれる。彼はそこにヨーロッパの観点から言えば悪魔に近い様相を持ったものが信仰の対象とされていること、またその祭礼が、残酷極まる供犠――数千人が生きたまま心臓をえぐり出され、祭司たちはそれを食する――によって恐怖に満たされていることに惹かれる。これはヨーロッパ人に度を失わせ、理解をそれ以上に進ませなかったが、バタイユはさらに、その血にまみれた恐怖が幸福につながっていることを見い出す。彼はそこに〈恐怖の持つ驚くほど幸福な性格〉を見る。だから〈アズテカ人にとって、死はなにものでもない〉と彼は言う。恐怖は極度のものになることで幸福に転化し、そしてこの転化を媒介するのは死だ、というのが、バタイユが教えられたことである。さらに〈この悪夢のような破局はある種のしかたで彼らを笑わせた〉とも彼は書いている。ここには後年のバタイユの主要なテーマが、十分明らかなかたちで顔を出していることを認めることが出来よう。 4 政治的なものへの接近 小説に現れたものは、作者のもっとも内発的な関心だと言えるだろう。プレコロンビア期のアメリカに対する関心も、内発性からくるところが大きいとたぶん言えるだろう。だがこの同じ時期に、つまりバタイユが青年期を、ヨーロッパが一九二〇年代を迎えるというこの時期に、ただ内発的ばかりではない、つまり外側から否応なしに侵入してくる関心と言うべきものが重なってくる。それはとりあえず政治的と言いうる問題である。 バタイユは一八九七年生まれだから、二十歳前後に第一次大戦と、ロシア革命と、その後に続くファシズムの勃興過程を見ている。これが知的な青年に精神的な影響を及ぼさなかったはずはない*2。第一次大戦後のフランスは左右への分極が激しく、右翼運動も多くの若い世代を引きつけていたが、彼の政治との接触は、左翼運動への傾斜として始まる。この傾斜はロシア革命後の世代への特徴だったろう。〈私は同世代の多くの人々と同じようにマルクス主義に傾斜する運命にあった〉*3とバタイユは言っている。ところでバタイユにおいて左翼運動への仲介役を果たしたのは、シュルレアリスムであるようだ。二四年、バタイユはレーリスの紹介によって、『シュルレアリスム宣言』を出したばかりのブルトンたちと接触し、前述のように「シュルレアリスム革命」に中世の詩を翻訳することになる。ブルトンとの交遊は、生涯の終わり近くなって和解らしきかたちを取るものの、二、三〇年代においては、ほとんど両立しがたいものだった。ブルトンにとってバタイユは、〈汚れて、おいさらばえ、すえた匂いのする世界で、悦に入っている〉(『第二宣言』)偏執狂だったが、バタイユから見たブルトンは度しがたい観念論者だったからである。バタイユの反理想主義、唯物論は、ブルトンとの対立があればこそ、あれほど先鋭で過激なものとなったと言える。 だがシュルレアリスムとの接触でもたらされたのは、文学上の刺激だけではない。それはバタイユにとって政治的なものへのイニシアシオンともなった。ブルトンたちは、夢の記述また自動記述などの実験を一九年頃から開始している。ブルトンとスーポーの『磁場』は二〇年のものだが、その試みが前衛的、つまり伝統的な価値観に対する強い批判を持っていることによって、政治的な前衛の関心を引くことになる。関心を示したのは、クラルテのグループである。クラルテとは、一九一九年にアナトール・フランスによって創設された文化人のグループでアンリ・バルビュスを責任者とし、ハインリッヒ・マン、ゴリキー、アインシュタインらを主要メンバーとしたが、若い会員の間では社会主義の影響、ことに第三インター(一九年にコミンテルンとなる)の影響が強かった。二〇年一二月には、トゥールで社会党が分裂し、翌年の一二月には共産党が成立する。こうした動きを背景として、クラルテの一人で、小説を書いていたアンリ・ベルニエ*4が橋渡し役になって、シュルレアリストのグループとクラルテのグループを接触させる。二一年頃からこの交流は始まるらしい。二四年にシュルレアリストたちは、アナトール・フランスの葬儀に際して、フランス労働党までが右派に一致して哀悼の意を表したのに反撥し、それを攻撃するパンフレット『死骸』を出し、続いて「クラルテ」自体もその創設者を批判する。それによって、既成政党の枠を越えた左翼運動が生じることになる。シュルレアリスム運動の機関誌として、二四年から「シュルレアリスム革命」が出ているが、二五年には、政治的パンフレット「まず革命を、常に革命を」*5が出され、文学芸術上の革命を社会革命と重ね合わせようというへ志向をシュルレアリストたちは持ちはじめる。 この交遊の中にスヴァーリン*6の名前が入ってくる。彼はキエフ生まれのユダヤ人で、子供時代にフランスに移民し、労働運動の活動家となり、二〇年にフランス社会党から共産党が分離するときの創立メンバーの一人である。党の機関誌の編集長を務め、コミンテルンへの代表として、二一年以来モスクワで活動するが、二四年のレーニン死後のスターリンとトロツキーの間の権力闘争で後者を擁護したことで追放され、フランスに戻る。しかし彼は、ソ連共産党と協調路線を取るフランス共産党からも除名される。以後彼はいくつかの独立的なグループを作り、フランスにおける非共産党系の左翼活動家の一中心となる。二五年に彼は「共産主義者会報」を出し、二七年にはマルクス・レーニン主義共産主義者サークル」 というグループを作るが、これは三〇年に「民主共産主義者サークル」と名前を変え、三一年から「社会批評」を出しはじめる。彼自身は三五年に『スターリン』を出す。これはフランスでの最初のまとまったソ連論である。この活動の中にシュルレアリストたちが交差してくる。ブルトンの最初の妻シモーヌ・コリネは、シュルレアリスムの初期にブルトンにもっとも顕著な政治的感化を及ぼしたのは、このスヴァーリンとベルニエだと証言している*7。 二七年にブルトン、アラゴン、エリュアール、ペレらは、共産党に入党する。トロツキーが追放された二四年にクラルテのグループは、共産党批判を行っているし、帰国後のスヴァーリンらを中心とするコミンテルン批判、スターリン批判もすでに開始されていたが、またブルトン自身もトロツキーの『レーニン』に感銘を受け、紹介記事を書くほどであったが、彼らは共産党に加盟する。なにがしかの幻想がまだあったからだろうか。スヴァーリンは相談を受けたが、反対はしなかったらしい。しかし芸術が政治に従属させられ、シュルレアリスムが利用されても理解されてはいないことを感じて、彼らと党の間には齟齬が生じる。ペレはすぐさま離党する。ブルトンも距離をとるが、ただ離党するのは三五年になってからである。一方アラゴンはそのまま党にとどまり、反対に三〇年にはシュルレアリスムの運動から脱退する。 バタイユとブルトンの関係の最初の結節点となった事件が起こるのは、二九年はじめのことである。この年の二月一二日ブルトンとアラゴンは、個人的活動か集団的活動かの間で態度を明確にするように求めるアンケートを、シュルレアリストのグループとその周辺にいた人物八十人ほどに送付する*8。シュルレアリスム運動からは、二六年にアルトー、スーポー、二八年にはデスノスらが除名され、また自らすすんで運動から離れ、すでに分裂が起きている。だからブルトンとアラゴンのこのアンケートには、このようにたがのゆるんだシュルレアリスム運動の方向性をあらためて明確にしようという意図があったことは間違いない。この質問は同時に、共同行動を行うときには、誰となら行動をともにすることが出来るかを答えることを第二の質問とし、これは多くの紛糾を巻き起こした。だが重要なのはやはり、最初に出された共同行動か個人行動かという問いのほうであろう。それは単に芸術上の運動としてのシュルレアリスムのみにかかわるのではなく、政治的な意味あいを含んでいることは明らかだった。集団行動がというのが何を指すのかは明示されていなかったが、それだけにそれは政治的なものである可能性を持っていた。前述のように、ブルトンたちはこの時期、集団で共産党に入党し、また脱退していた。それにこの時期には、トロツキーの問題があった。彼は二五年に権力機構から排除されたが、この年ソ連領からも追放されたからである。マルマンドは、このアンケートの実行の背後には、トロツキーの影があったと言っている*9。右のアンケートに肯定的に答えた者たちには、三月一一日に集会に出席するよう招待状が出されたが、この集会にはトロツキーの問題が議題の一つとして取り上げられることになっていた。 このアンケートに対してバタイユは、きわめて簡潔に〈イデアリストの糞ったれどもにはうんざりだ〉と答えている。この頃バタイユは、政治的な行動を行っていないし、思想的な探求もそれほど深かったとは言えないが、ブルトンたちへのこの回答の中には、その政治的な匂いをかぎつけた上での拒否があるように思われる。党を担ぐのであれ、トロツキーを担ぐのであれ、彼らのうちにあるのは、あいも変わらぬ観念論にすぎない。そうである限り、自分の考えるような革命は原理的にあり得ようがない。仮に直観に負うところが大きかったとしても、この時、文学上でも、思想上でも、バタイユの立場は揺るぎようなく明確なものになっていたように見える。 *1 バタイユの「ドキュマン」以前の論文は、全集第1巻におさめられ、十項目ある。うち最初の一つは、古文書学校の卒業論文――一三世紀の騎士団に関する研究――の梗概、二番目がファトラジーの翻訳、最後が「消え去ったアメリカ」であって、「アレチューズ」に載ったのは七つである。引用する二つの論文は未訳である。 *2 バタイユの政治上の活動については、マルマンド『政治的バタイユGeorges Bataille Politique』一九八五年とシュリヤの『バタイユ伝』一九八七年(河出書房新社)に多くを負っている。 *3 『バタイユ伝』上87、OC,t8,p563 *4 ベルニエは、ブルトンやバタイユよりわずか年上で、第一次大戦に従軍したあと、政治ジャーナリスムの世界で活動し、その関係でドリュ・ラロシェルの友人となる。『ジル』でグレゴワール・ロランとして戯画化されているのが彼である。さらに彼はドリュを通じてペニョー家を知り、その娘であるコレットを政治活動の世界に連れ込む。 *5 「シュルレアリスム革命」は二九年まで続く。その最終号に第二宣言が掲載される。その後分裂を経て三〇年から「革命に奉仕するシュルレアリスム」となる。これは三三年六号で終わる。以後シュルレアリストたちは新たに創刊された美術雑誌「ミノトール」に参加する。 *6 スヴァーリンに関しては、次の伝記を参照した。"Boris Souvarine", Jean-Louis Panne, Ed. Robert Laffont, 1993. *7 マルマンドは、ほかにマルセル・フリエとナヴィルの名を挙げているp23。 *8 このアンケートの文面は、モーリス・ナドー『シュルレアリスムの歴史』思潮社に収録されているp191。 *9 前掲書p33。 |
Windowsヘルプを使った詩集の製作 |
長尾高弘 |
パソコンでMicrosoft Windowsを使っていれば誰でも知っていることだが、このWindowsという基本ソフトウェアには、ヘルプ機能というものが組み込まれている。プログラムを使っていて操作方法やコマンドの意味がわからなくなったときに、[F1]キーを押すか、マウスなどで“ヘルプ”メニューを選択すると、プログラムの操作方法を説明してくれる別のウィンドウがオープンされるという機能である。ウィンドウには、もちろん説明の文章が表示されるわけだが、気の効いたヘルプなら、ダイアログボックス(コマンドやファイルなどを指定するための特殊なウィンドウ)の画面コピーなどのグラフィックイメージも含まれている。 このように書くとすばらしい機能のように感じられるかもしれないが、正直なところ、私はあまりこの機能をありがたいと思ったことはなかった。しかし、仕事でビジネスアプリケーション開発の参考書を翻訳していて、“最近、ヘルプを利用してコンピュータ画面で見る出版物、プレゼンテーションを作る企業が増えている”という一節を見たときに、おお、そうかと思った。 実は、このヘルプ機能はなかなか凝った作りになっていて、表示されているテキスト、グラフィクスの一部をマウスでクリックすると、画面が変化するようになっている。クリックできる部分は、マウスポインタが矢印形から人指し指を伸ばした手の形に変わるので、すぐに見分けられる(テキストの場合には色付き、アンダーライン付きになっているのでさらにわかりやすい)。たとえば、文章の終わりに「関連項目あれ、それ」という部分があったとして、その「あれ」や「それ」をクリックすると、ウィンドウの中味が「あれ」や「それ」の説明に変わる(ジャンプと呼ぶ)。また、文章のなかでちょっとした専門用語が使われているときに、その用語の部分をクリックすると、ヘルプウィンドウの上に一時的に小さなウィンドウが開いて、その中に2、3行の説明が表示される(ポップアップと呼ぶ)。この場合は、マウスをもう1度クリックすると、元の画面に戻ることができる。マクロと呼ばれる簡単なプログラムを実行することもできる。 つまり、ヘルプのこれらの機能を利用すれば、冒頭から末尾まで直線的に進む本ではなく、前後左右に自在に移動できる本を作ることができるわけである。たとえば、全集のようなものでは、いくつもある異稿の間を自由に飛び回れれば便利だろう。注の多い本は、ポップアップウィンドウを活用すれば、かなり読みやすくなるはずだ。しかも、ヘルプはWindowsの標準機能なので、ヘルプ形式のデータファイルさえ作っておけば、Windowsの動くどのマシンでも見ることができる。つまり、特別なソフトウェアはいらない。そして、ユーザーがデータを書き換えられないということも、この場合は好都合である。勝手に本文に手を入れられては困る。しかし、本に書き込みをするように、ページごとにコメントを残す機能や、しおりをはさんですぐにアクセスできるようにする機能は含まれている(ユーザーがジャンプなどを定義できればさらによいが、それは不可能である)。 少しくどくどと説明したが、実際には、おお、そうかと思った次の瞬間には、ヘルプ形式の詩集を作ってみようと思っていた。ちょうど手元には、近く刊行する予定の自分の詩集の原稿がある。この原稿を次のように料理することにした。 1. 起動したときには表紙を表示する。適当なグラフィックデータを使って飾り気を付けるとともに、タイトルをクリックすると、奥付データがポップアップされ、著者、出版社名をクリックすると、それぞれの住所、電話番号がポップアップされるようにする。 2. 画面上部の[>>]ボタンを押せば、表紙から最後のあとがきまで、ページを繰るように直線的に読めるようにする。[<<]ボタンを押せば逆に末尾から冒頭に進める。 3. 画面上部の[目次]ボタンを押せば、どこにいても、目次ページにジャンプできる。目次ページからはあらゆるページにジャンプできる。 4. 雑誌発表済みの11篇については、それぞれのページの末尾に“初出”というラベルのついたクリック可能領域を設け、そこをクリックすると2次ウィンドウという別ウィンドウに初出形を表示する(ヘルプでは、主ウィンドウ以外にもう1つ同じような形のウィンドウをオープンすることができる。両者で比較対照できるのである)。また、初出一覧というページを作り、そこからも2次ウィンドウにジャンプできるようにする。2次ウィンドウの初出形で、“現行”というラベルをクリックすると、主ウィンドウに詩集掲載形が表示される。 5. その他いちいち書くのが面倒な詳細。 図1は、これをまとめたものである。 本当は、一番書きたいことは、方針を決めてから、動作するヘルプファイルを作るまでの苦労の数々なのだが、BoobyTrapの読者にとっては退屈な話だろうと思われるので省略することにする。基本的な手順は、次の2ステップである。 1. Microsoft Wordというワードプロセッサで文書を作る。ジャンプ、ポップなどを定義するために、決められた形式を守る必要がある。 2. ヘルプコンパイラと呼ばれるプログラムを使って、1.で作成した文書をヘルプファイル形式に変換する(注1)。 完成したヘルプ詩集は、図2のような画面を表示する。ファイルのサイズは50Kバイトほどになった。25000字分ということだが、表紙のグラフィックデータがこのうちのかなりの部分を占めている。しかし、ファイル内のデータ自体はこれでも圧縮されているのである。ちなみに、プレーンテキストでは、本文は30Kバイトほどである。 今回は、多分に実験的なプロジェクトだったので、やれることはやらなくてもよいことまでやってみたつもりだが、マルチメディア的なことは試していない。たとえば、ウィンドウのなかにビデオを埋め込むようなこともできるはずだが、これにはC言語による本格的なプログラミングが必要になるようである。しかし、ボタンをクリックすると朗読データが流れるようにすることは、もっと簡単に実現できると思う(もっとも、朗読データは、記憶スペースを大量消費してくれるが)。 さて、私はたまたまWindowsを使っているのでWindowsヘルプを利用したが、世の中にはほかにもこのような機能を持つプログラムがある。この種のプログラムは、一般にハイパーテキストと呼ばれる。このハイパーテキストという概念は、もともと1965年にテッド・ネルソンが提唱したものだが、実用化されたのは80年代である(注2)。このようなプログラムでもっとも有名なのは、間違いなく、Macintoshのハイパーカードだろう。Windowsヘルプの場合、データ作成にかなり苦労するが、ハイパーカードの開発環境ははるかに優れている(という噂である。試してみたいが、私はMacintoshを持っていない)。 Microsoftは、Windows用のCD-ROMタイトル(Bookshelf、Encartaなど)のために、MediaViewソフトウェアと総称されるプログラムも作っている。初期のマルチメディアタイトルは、viewer.exe、mviewer2.exeといった汎用ビュア(表示プログラム)を使っていたが、最近では、タイトルごとにビュアを開発するような仕組みに変わった。最初期のviewer.exeがヘルプファイルをオープンできたことからもわかるように、このシリーズはヘルプとよく似ているが、ヘルプよりもユーザーインターフェイスに凝ることができるようである。しかし、ヘルプのような手軽さはない。 もう1つ触れておかなければならないのは、最近のインターネットブームに火をつけたWWW(World Wide Web)である。Windowsヘルプは同じマシンのなかでしかジャンプできないが、WWWはネットワーク越しに世界中のあらゆるページにジャンプできる。マルチメディアという点でも、さまざまなことが実現されているようだ。 ハイパーテキストだ、マルチメディアだと言っても、所詮、紙には勝てない部分がある。しかし、紙にはない便利さを発揮する部分もある。WWWのようにネットワークが絡んでくれば、情報の流通にも大きな影響を与える。いずれにせよ、これらの試みは、まだ生まれたばかりのものであり、これから自然淘汰が始まるだろう。多くの人が使って役に立つような機能以外は、自然になくなってしまうものだ。しかし、遊び感覚で色々と試してみるのも悪くはないと思う。コンピュータは所詮道具であり、オモチャである。あまり肩に力を入れずに、面白い遊び方を考えるのが一番だ(注3)。 注1 実際にヘルプファイルを作ってみたい方は、マイクロソフトウィンドウズソフトウェア開発キットのマニュアル"プログラミングツールズ"と"プログラマーズリファレンスVol.4リソース"、先ほど触れた翻訳中の本、Christine Solomon, *Developing Applications with Office,* 1995, Microsoft Press(秋頃にはアスキーから翻訳が出る予定)などを参照していただきたい。手前味噌だが、開発キットのマニュアルよりもこの本の方がはるかにわかりやすいはずである。 注2 マイクロソフト(株)「コンピュータ用語辞典」、アスキー出版局、1993年7月 注3 なお、このヘルプ版詩集は、紙の詩集の読者のなかで希望される方には無料でお送りする予定です。また、筆者のパソコン通信ID(NIFTY-Serve PEA01357)、Internet nyagao@longtail.co.jpに問い合わせていただければ、製作のノウハウなども提供します。 |
Booby Trap 通信 No. 9 |