批評的切片 連載第一回
スーパー・スターとしてのイエス
     千石剛賢著 父とは誰か、母とは誰か 1986年4月刊

清水鱗造



○書かれたものとしての聖書――信仰の次元
 「イエスの方舟」が興味深いのは、この集団の生活状況が、追い込まれた個人をうまく吸収できる力があることを示している点にある。興味の集中点は、まず現在の状況によって追い込まれた個人がどういう生きかたを模索するかにある。追い込まれた個人の行く末を調べること、それに現在の状況が映しだされているはずだ。もうひとつ先走っていえば、「大衆意識」の切っ先が現われているはずだ。
 聖書を「すべて本当のことが書かれている」と一口に言うことの中には、「自分の受け取り方に誤りがあるとしても、書かれていることはすべて本当である」という意味が含まれている。これは「書かれているもの」と「受容」を画然と分けることである。
 例えば「受容」に誤りがあれば、「受容」から立てられた概念をもととする行為にも誤りがありうる。また結果としての明らかな誤りを、別の誤った「受容」から立てられる概念によって正当化してしまうという更なる誤りが起こってくる。言葉を受け取っていくとき、常にこの危険に直面している。
 普通書かれた言葉を受け取るとき、自分の受け取り方に誤りがありうるということ、さらに正しい受け取り方をしたとしてもその内容に誤りがありうる、という二重の不審のうちに言葉は受け取られている。さらに書かれたものと受容には必ずズレがあって一致しないという考え方も普通だし、積極的には言葉が含蓄的に表現している見えない価値、無意識に伝えようとする価値を受け取りの経過中に伝えられるという考え方も普通である。だから言葉で表現されたものは、人間全体からみれば限定されているものであって、しかし人間の概念形成能力によって極限の「方向」は示すことができるということである。
 信仰の領域は、自分の受け取り方には誤りがあるのかもしれないが、仮に誤りなく受け取れたとしてそのときその内容には誤りがないという領域である。
 例えばカトリック教会は聖書の不可謬姓について次のようにいっている。

 聖書は神の霊感によるものであるから、従って不可謬である。レオ十三世教皇が教える通り、神の霊感は、事実上の誤謬を排するばかりでなく、(真理そのものなる神が誤謬を示し得ないと同様に)必然的、先天的に誤謬を退ける。といっても、聖書史家の教育程度によって起る単に形式上の、つまり文法とか文章構成法とかいった方面の誤りはありうる。(カトリック系の新約聖書訳者の聖福音書緒言より)

 しかし、言葉というものを客観的に考えれば、それ自体が誤りのない極限に近づくということで常に本当のことには届かないということは前提なのであるから、この視点において信仰はありえないということになる。しかし、すくなくとも言葉の真実に対する漸近線を構成する意思は現実にあるということは考えられる。信仰は絶対を措定しなければ不可能であるが、そのことを前提としたうえで、一方で常に言葉としての経典を分解し、この意思にできるだけ近づくという作業も行なわれる。例えば言葉を発したイエスの意思に極限的に接近していくことである。
 引用した《真理そのものなる神が誤謬を示し得ない》というところに表われているように、先に不可能を設定してしまえばその上にフィクションを構築することもできる。しかし、言葉に対する考え方においても、聖書の内容は本当は反構築の立場に立っているように思われる。言葉の含蓄する内容に対する受容の漸近線について認識しているように思われる。

○理路の典型
 「イエスの方舟」のライフ・スタイルは、まず通常的な家族を捨てるところからはいっていく。

 聖書には「仇はその家の者なるべし」(マタイ10-36)というみ言葉があります。このことを突っ込んで深くいきますと、たいへんなことになっちゃってね。まず、仇の鉾先にあげられる者は、父とか、母とか、兄弟とか、こないになっちゃうんです。
 これをまともに説教したら、えらいことになります。まともに説教したつもりはないんですけれども、ちょっと触れたのが、あの事件(イエスの方舟事件)のとっかかりみたいになっちゃったんですね。もちろん、親が悪魔だと言いきったことはないんですけれども、それに等しいような状態になっちゃったんですね。けども、もちろん、聖書の真意をなお深く突っ込んでいきますと、「仇はその家の者なるべし」といわれても、これは、父や、母や、兄弟に留まるのではなくて、実は己れ自身ということになるんですね。いちばんの仇は己れ自身。いうなら、悪魔の巣窟は己れだと、こないなるんですね。(168ページ)

 ルカ伝にこうあります、「だれでも私のもとに来て、父と母を憎み、妻、子、兄弟、姉妹、自分のいのちまでも憎まないならば、私の弟子であることはできない」(ルカ14-26)と。これを端的にゆうと、イエスの弟子になるためには、父と母を憎まないかんと、こうなっちゃうんです。これをまともに取られたらどうにもならん。調子悪い。(略)
 ここでは「父と母を憎む」という訳ですけれども、創世記二章だと、「憎む」というのは「父母を離れて」と、こうなるんです。つまり、幻想的な人間関係は真実とするなということなんです。親と子というのは、幻想的な人間関係なんです。つまり、人間が勝手にそういうふうに認識しているだけなんです。人間という存在の現実じゃありません。(略)
 だから、この「憎む」ということは、けっして幸せにしない人間関係の認識を離れるということです。自分の母、自分の父、自分の子、他人の子、こういう発想は人間を幸せにしません、けっしてね。そういう意味ですよ。(218〜221ページ)

 こういう考え方には、家族の存在がすでに自分を幸福にしていない、俗にいって家族運が悪い、しかし血を分けた者、どんなことがあっても愛さなければならない。しかし、憎しみが湧いてくる。という二重の強迫的枠組を解消する理路がある。被迫害者にとって当面必要なのは自分のアイデンティティーを保つことである。迫害が厳しければ厳しいほど、
被迫害者の心理の真相に障害が及んでくる。聖書は被迫害者の心理について精通しているから(被迫害者としての時間の集積をもっているから)、被迫害者のアイデンティティーを保つ理路が用意されている。

 加担というものは、人間の意志にかかわりなく、人間と人間との関係がそれを強いるものであるということだ。人間の意志はなるほど、撰択する自由をもっている。撰択のなかに、自由の意識がよみがえるのを感ずることができる。だが、この自由な撰択にかけられた人間の意志も、人間と人間との関係が強いる絶対性の前では、相対的なものにすぎない。(吉本隆明〈マチウ書試論〉より)

 家族内でどうしても迫害され、家族を憎むことしかできない。それが苦しいから家族から出てしまった人を癒やすのはその二重の強迫的枠組を解体してしまうことしかない。吉本の「関係の絶対性」は二重の強迫的枠組そのものである。この概念を反転すれば、例えば家族という関係に基づく秩序に反抗する理路が得られる。阻害するものを正面から糾弾するときの、二重の強迫的枠組を除く理路が得られるのである。《秩序にたいする反逆、それへの加担というものを、倫理に結びつけ得るのは、ただ関係の絶対性という視点を導入することによってのみ可能である。》(同前)家族という秩序のなかにいるのに、自分だけはその秩序からただ阻害されるだけとしたら、そこから離脱するまでである。しかし簡単にはいかない。現実的にほとんど離脱できない。というとき、もし、本当はすべてを捨てて離脱してもいいんだという考えをもちつつ離脱しないならば、自分を定位することができる。関係の絶対性ということはまた時間的には「過程」である。阻害という時間的な一点を「過程」に位置づけることができる。
 だから「イエスの方舟」における家族離脱者は、理念としてその根拠をもっているともいえる。この集団生活は過程的なものであり、家族離脱も過程的なものであると考えられれば、生活におけるアイデンティティーは保たれる。

○「イエスの方舟」の生活
 聖書が人間の心理に通暁していて、サイコセラピーさらに意思の拠点づくりに役に立つということが入口としたら、そこから先は「イエスの方舟」はどのように考えているのだろうか。実は現在の状況はその入口に集中的に現われている。後は「イエスの方舟」の個個の生活の問題になってくる。彼らがどんな生活をしているかは、別に興味はない。マスコミの「イエスの方舟」の追い方、報道の仕方の問題は芹沢俊介著『「イエスの方舟」論』がくわしく批判しているが、入口の向こうを見ようとするのにそれほどの意味は見出せない。入口には、生活するのに必要な概念の糸口が出揃っているはずである。

 私を支えつづけているのは、ある意味では〈十字架の死〉と〈復活〉。それと〈マリアの名〉(神がインヌマエルとして、人類の中に人格的に現われ給うときにかかわる受的存在者の人格の実質を指す)と処女降誕。これは一つになりますけれども、この四つとも三つともいえる在り方が私を支えているし、本質的な意味でいいますと、イエスの方舟を支えています。この在り方に支えられながら、主のみ言葉を各人各人の場で自己のすべてをかけて生活しているのが、イエスの方舟の生きざまです。(81〜82ページ)

 これらは多くのキリスト教信者の考えとそれほど変わりがあるとは思えない。しかし、千石剛賢の日常的な実践の切り口は現在的である。一口にいえば教義の現在的な解体ということになるのだが、欲望を扱うとき陰湿感がないし、開かれている印象をもたせる。現実の秩序に反抗する契機を持ち続けながら生活することを可能にさせる理路が聖書にはあるのだが、その状態をつくるのはとても難しいだろう。制度に和合していったキリスト教の在り方には、何の魅力もない。

 イエスが十字架にかかられたあの客観情勢は、人間としては、最悪の客観情勢です。(略)
 ところが、これほどひどい客観情勢の真っ只中で、主イエスはパラダイスとおっしゃっているんです。(略)
 極端なことを言いますと、金がなくなっちまって生活に困るという状態が出ても、客観が変わるという意味はすこしも変わらないんです。ご利益宗教的なもんやったら、どうしてもお金ができんと困っちゃう。客観が変わらんことになってしまう。すると、その祈りは虚しいと、こうなるんですけれど、私自身の場では、祈りはけっして虚しくならないんです。なぜならばご利益宗教的な客観情勢の好転を願ってませんから。金ができることなどは考えちゃいないですからね。(246〜247ページ)

 ここまで、聖書の解釈をポップに生活意識に入れることが可能になれば十分であるような気がする。十字架上のパラダイスというのを陰湿にではなく、生活上に取り込んでいる。

 あなたたちがおそわったように、「姦通するな」ときめられている。しかし、私はいう、色情をもって女を見れば、その人はもう心の中で姦通したのだ。(マテオ5-27)

 この句に対する千石の解釈は《イエスには、要するに、性欲の悩みというのはなかった。
健康な男子なのに、なかった。その理由は〈原罪〉がなかったから。(略)これは、とんでもない言葉ですね。こんなことが平然と衒いもなく偽善でもなく言えるのは、〈原罪〉がなかったイエスしかないはずです。》(201〜202ページ)ということである。イエスという彼岸を措定し、それへの漸近線を解釈とするということである。
 一方、吉本隆明の〈マチウ書試論〉から引用してみる。《この性に対する心理的な箴言は異常なものである。渇望をもって女をみるものは既に心のなかで姦通を行ったのだという性に対する鋭敏さは、けっして倫理的な鋭敏さではなく、病的な鋭敏さである。姦通してはならないという掟は、ユダヤ教の概念では、社会倫理的な禁制としてあるわけだが、原始キリスト教がここで問題にしているのは、姦通にたいする心理的な障害感覚であることは明らかだ。(略)この性についてのマチウ書のロギヤは、決して倫理的なものではなく、むしろ本当は倫理観の喪失以外のものではないのだが、もし、このロギヤを倫理的なものとして受感するならば、人間は、原始キリスト教によって、実存の全領域を脅迫されるよりほかないであろう。》
 吉本はこの句を真正面から解釈している。信仰の領域にある千石の考えと違って、マチウ書の成立と原始キリスト教とユダヤ教の対立の側面から、どうしてこういう言葉がイエスから発せられたのかを考えている。聖書をまともに考えるためには、どうしてもこういう手続きが必要なのだが、信仰の領域では、どうしても人間の全実存を脅迫できるような絶対的なものを措定するしかない。さらに向こうに投げ返すしかない。
 その絶対的なものから構築することは不可能である。絶対的なものは現実に存在しないのだから。だから現在的な信仰の課題として、絶対的なものを措定したら、瞬時にそれを解体するという手続きが必要で、色合いを分けるのは絶対に対する漸近線をつくる方法ということになる。スーパー・スターとしてのイエスをポップにとらえて、生活するという「イエスの方舟」の遣り方が、現在的な信仰のひとつの形を示しているのは確かだと思われる。
 ところで、「絶対的なものから構築するのは不可能である」という立場からみれば、「絶対的なもの」が丈夫から設定された瞬時に、すでに解体が始まらなければならない。そこから向こう側へ簡単に踏み出すのが信仰かどうかも問われなければならないが、こちら側にいる人間としては、向こう側に立てられるものは全否定の立場をとらねばならない。「イエスの方舟」が家族崩壊の現在のかたちの緊張の吸収装置という機能になりえていることから、逆に現在の状況をみなければならない。このことが重要だと思う。キリスト教の細かい教義など瀬戸際に立たされている者にとってどうでもいいのだ。当面の平衡と、新しい場面に出ていく思想をポップに吸収できれば、そこが足場になりえるのだ。<

*聖書の引用は『新約聖書』(昭和32年発行 フェデリコ・バルバロ訳)から。


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