辰野豊吉商店の顛末 観察詩1

山本育夫



辰野豊吉商店の古い木造のたたずまいを、春の午後、しばらく観察していた日があった。風もなく穏やかな昼下がりではあったが、喉の仏のあたり、誰かがいがいがしい触りのようなものを残していった気がする。それがいつのことだったのか、思い出そうとするのだがぼんやりとしていてどこまでも覚束なく、さてあれはいつのことだったのか、そうあらためて一人で言葉に出してみる。しかし、そんなことにはいっこうに無頓着な装いで、辰野豊吉商店は、背後に黒く大きな塊のような影を抱え込んだまま、時間の荒波を力業で耐えているように思えた。まず、辰野豊吉商店の「表面」について観察してみる。商店には通りに面して六枚のガラス戸がはめこまれている。往時にはこのガラス戸は開け放たれていて、近隣の人々は通りすがりに「おい、豊吉っあん、そこんとこにある黒いガラス玉みてえなもんはなんでえ」「ほお、またへんなもんを買いこんだもんじゃんけ」などと言って冷やかしたという。だいたいがこの商店。商店というわりには摩訶不思議な商品ばかりを集めて店に並べていたらしく、役所の古文書をひもといてみると「辰野豊吉商店に至っては言語道断」などという役人の墨書が残っているので、思わずその「言語道断なる商品とはいかなるものであるのか」と詮索したくなる。六枚のガラス戸には、その二枚ほどを荒々しく横断する形で長細い板が、平行に、時には交差するように打ちつけられている。その板の表情を仔細に凝視して見るまでもなく、緻密に付着している埃の垢。のみならず商店の正面全体にはくまなく埃の垢が付着していて、それがちょうど人の体に分泌していく垢のように、言いようのない「てかり」を持っているのが不思議だ。通常の埃なら乾燥質のパウダーのようなものなのだが、それに比べると確かに、辰野豊吉商店の表面に付着している埃は、どこか生きた肉質を感じさせるところがあり、風向きによっては恐ろしく本質的な臭気を伴うことさえある。表面のおうとつのなかには、明らかにかつて「辰野豊吉商店」という浮き彫りの看板であっただろうと思われるものもある。それは斜め右に少しばかりかしがってぶらさがっている。辰野豊吉は人肉を売っていたという、まことしやかな噂が流れたことがある。その噂のでどころは、辰野豊吉の親類筋にあたる日比野捨吉という男だった。捨吉がある夜遅く、何かのついでがあってぶらりと豊吉を訪ねた日のことだ。いくら呼んでも誰も出てこないので、おい、豊さんあがるよといって、捨吉は奥の部屋までずんずんと進んで行った。すると座敷の暗闇の中に、豊吉がむこう向きにこう座っていて、振り返るとその口に千切れた子どもの手をくわえていたというのである。これはいささかできすぎの話ではあるが、確かに豊吉の戸籍謄本を見てみると、一家八人がわずか五年の間に皆死に絶えているのである。豊吉の両親も、豊吉の妻も豊吉の娘と息子四人も、すべてが病死している。しかも豊吉は、一切葬式などあげなかったので、その得体の知れなさがますます奇妙な風評を生んだのであろう。豊吉自身も、初めは左指が、つづいて左手首が、さらに左腕が次第になくなってゆき、しまいには右足は股の付け根のところから義足になっていたという。辰野豊吉商店の店先にはいつも、黒い奇妙な臭気のある塊が、ギヤマンの透明な容器のなかに実に丁重にしまわれて並べられていた。そのギヤマンの数は百個にも及んだというから驚くのだが、もちろんそんなものが売れるわけもないので、実は豊吉が食っていたに違いないと噂された。ある日、捨吉が店の裏手からひょいと庭先を覗くと、開け放たれた縁側の鴨居で首を吊って死んでいる豊吉の姿が見えた。すでに腐りかけていて、庭には体の一部と思われる肉塊が落ちていた。不思議なことに、義足だけは体から離れずにいたという。静かな日だまりが豊吉の周辺を明るく照らし出していて、鴬が鳴いていた。

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