翻訳詩
ウィリアム・ブレイク 『無垢と経験のうた』―人間の相反する二つの精神状態を示す─ 連載第一回

訳 長尾高弘



前口上
 私は英文学を勉強しているわけではないのだが、以前から詩の翻訳ということをやってみたいと思っていた。翻訳をするためには、原詩をじっくり読まなければならないが、逆に翻訳をするのでもない限り、原詩をじっくり読むような機会はなかなか得られない。たとえば私のような者が翻訳もせずに原詩を読んだとしたら、曖昧なところを漠然と残したまま少し読み進んだところで、自分の読みの雑駁さにうんざりして原詩を放り出してしまうだろう。しかし、翻訳をするとなれば、細かい一つ一つの疑問に自分なりの答を与えなければ、先に進めない。だからかえって着実に一歩一歩先に進むことができるのである。
英語と日本語には絶望的なほどの距離がある。ヨーロッパ語同士の翻訳とはわけが違う。その分、翻訳は難しいと言えば難しいが、逆に割と早い段階で忠実な翻訳ということを諦らめて、訳者が自分の考えを訳文に盛り込むことができるという側面もある。自分の考えを盛り込むと言っても、原詩に書かれていないことを勝手に書くということではないのだが、たとえば辞書にだって一つの語には複数の訳語が書かれているものだ。どれを選ぶかに訳者の考え方は反映する。しかし、英語と日本語の距離ということを考えるときに大きいのは、文章の構成方法である。文法的に忠実に翻訳しようとすれば、訳文がどうしようもなくぎごちなくなり、翻訳したものが詩ではなくなってしまう。翻訳したものを詩に近付けるためには、息継ぎをしながら日本語のコトバの海を泳ぎ回らなければならない。前のものを後ろにしたり、助詞でニュアンスを変えたり、時にはセンテンスの区切り位置を変えたりすることも、英語から日本語への翻訳では、禁じ手ではないと思う(と言うよりも、原詩を何度も何度も読んで、読み手である私の側に落ちてくるものを自然に語り直すような形で翻訳できればと思っている。私のネーティブランゲージは日本語なので、自然に出てくる言葉も日本語になるというわけである。自然にという言葉を使ったが、この過程は、アタマの仕事であるというよりも身体の仕事であるような気がしてならない。文法的なチェックは、そのようにして出てきたものをあとから点検するアタマの仕事である。そのときに、センテンスの入れ替えなどにも気付くはずである。もちろん、点検という第二次の仕事も、アタマだけでするわけではない。身体とアタマが闘いながら妥協点を見出すようなものになるはずである)。
しかし、自分でアイディアをひねり出して詩を書く場合でも、アイディアが勝負に大きな影響を与えるのは最初だけであり、後半戦はもっぱらひしめき合うコトバのなかでもがくことになるものだ。つまり、自作でも翻訳でも、後半戦の部分は同じように苦しみ、楽しむことができるはずである。それに、自分で全部作るときには、なかなか前半戦に突入できないために、後半戦を楽しむ機会にもなかなか恵まれないが、詩の翻訳をすれば、次から次へとこの後半戦の部分を楽しむことができる。これはなかなか効率的だ。
 ブレイクを選んだことに深い意味はない。著作権でもめるのがいやだったので、死後かなりたった人を選んだまでである。そのような人を探していたときに、飯島耕一の『ウィリアム・ブレイクを憶い出す詩』が、頭に思い浮かび、原書や参考書も見つかったので、ブレイクにしただけである。しかし、いざ作業を始めてみると、ブレイクを選んでよかったと思った。性に合うのである。ブレイクはアメリカ独立戦争とフランス革命を抑圧しようとするイギリスの政治に闘志を燃やし、飯島はブレイクを憶い出しながらベトナム戦争への怒りを書いた。私も闘うことを忘れない人間でありたいと思っている。
 これからお目にかけるのは、初期の代表作であり、もっともポピュラーな『無垢と経験のうた』の試訳である。一七八九年にまず『無垢のうた』が出版され、一七九四年に『経験のうた』の部分が追加されて、合本として出版されたが、『経験のうた』だけの形のものはない。『無垢のうた』の部分は、ブレイクの生涯のなかでも、素直で純真な部分が現れた珍しい作品となっている。
 原詩のテキストは次の本によった。
David V. Erdman Ed. The Complete Poetry & Prose of William Blake, Newly Revised Edition, ANCHOR BOOKS, 1988
 ブレイクの作品は、『無垢と経験のうた』も含め、ほとんどのものが本人によるイラストが入った本になっている(というよりも、全体が版画作品になっていて、ブレイク自身が印刷しているのだが)。そのページイメージをそっくり復元した本も出ている。
David V. Erdman, The Illuminated Blake, Dover, 1974
William Blake, Song of Innocence and of Experience, Oxford University Press, 1970
前者はモノクロ、後者はカラーである。後者には、経済学者ケインズの弟で、著名な書誌学者であるGeoffrey Keynesのコメントが入っている。
 ブレイクの翻訳は、戦前を中心としてかなり出ているようだが、私が入手できたのは、次の三種類である。
梅津濟美訳『ブレイク全著作』一九八九年、名古屋大学出版会
寿岳文章訳『ブレイク詩集』一九六八年、弥生書房(世界の詩五五)
土居光知訳『ブレイク詩選』一九四六年、新月社
土居訳は、昨年平凡社ライブラリーの『ブレイク詩集』としても出版されている。飯島が『ウィリアム・ブレイクを憶い出す詩』で引用しているのは、土居訳である。
 少しでも参照した研究書は、以下の通り。英文のものは、全部読み切ったわけではない。
S. Foster Damon, A Blake Dictionary, refised edition, University Press of New England, 1988
David V. Erdman, Blake: Prophet Against Empire, Dover Publications, 1957
土居光知『著作集第一巻』一九七七年、岩波書店(ただし、ブレイク論は戦前に書かれたもの)
梅津濟美『ブレイク研究』一九六三年、垂水書房
梅津濟美『ブレイクを語る〈増補新版〉』一九九一年、八潮出版社
 また、ブレイクにはキリスト教関係の単語も頻出するが、それらについては、日本聖書協会『新共同訳聖書』を参考にして考えた。
 この参考文献リストからもわかるように、私の作業は間違っても英文学者の仕事ではない。ブレイクだけでもほかに読まなければならない本はたくさんあるし、ブレイクと同時代の詩人の作品も大して読んでいるわけではない。しかし、詩の翻訳は、自分でも詩を書く人間にとっては、面白い仕事なのである。一つの決定訳をあがめるよりも、読む人それぞれがそれぞれの訳を作っていけばよいのではないかというのが、私の考え方である。
 なお、インターネットの私のホームページには、『天国と地獄の結婚』も訳出してあるので、アクセス手段のある方は参照していただければ幸いである。

  無垢のうた



 序詩

笛を吹いて下る谷
奏でるうたは歓びのうた
あれ、雲の上に一人の子。
笑いながらのおねだりは、

小羊のうたを吹いてみて。
おやすい御用とうれしく吹けば
ねえねえそのうたもう一度。
涙を流して聞いている。

楽しい笛は一休み
楽しいうたをうたってよ。
それでは楽しいうたをうたえば
涙を流して喜ぶ子。

そのうた本に書いといて、
みんなが読めるとうれしいな。
見れば子どもはもういない。
私は葦の茎をぬき

むらの筆をこしらえて
きれいな水にしみをつけ
楽しいうたを書き留めた。
みんなが楽しくなるといいな。


 羊飼い

羊飼いのやさしい丘はなんてやさしいんだろう、
羊飼いはその丘を朝から晩まで歩き回る。
一日じゅう羊たちについて歩き
一日じゅう羊たちをほめたたえる。

だって小羊が無邪気にないている、
母親がやわらかい声でこたえている、
羊飼いはみんなをまもっている、
羊飼いがそばにいるから羊たちはしあわせ。


 響きあう緑

日がのぼって
空はしあわせ
陽気な鐘が
春にようこそ
雲雀とつぐみ
森の鳥たちも
声を張り上げ
鐘にこたえる
響きあう緑に
子どもたちの遊ぶ姿

樫の木陰に座った
白髪のジョンじいさん
年寄り仲間に囲まれて
日頃の憂いも笑い飛ばす
遊ぶ子たちに目を細め
思わず口をそろえて言う
あれだ、あれこそが
子どもの頃の歓びだった
響きあう緑に
若いときの姿が見える

子どもたちの遊びも
疲れてきたらもう終わり
日がとっぷりと沈んだら
楽しいときももう終わり
おかあさんの膝のうえ
兄弟姉妹まあるくなって
巣にかえった小鳥のよう
みんなおやすみの時間
暗くなった丘に
子どもの姿はもう見えない


 小羊

 小さな小羊、誰につくってもらったの?
 それが誰だか知ってるの?
小川のほとり、草のうえ
いのちと食べ物をくださって、
何より一番やわらかい
つやつや輝くすてきな服も、
谷じゅうみんなが笑いだす
優しい声もくださった!
 小さな小羊、誰につくってもらったの?
 それが誰だか知ってるの?

 小さな小羊、おしえてあげる
 小さな小羊、おしえてあげるよ
その人の名前はきみと同じ
自分のことを小羊と言ったんだ。
その人はやさしくておだやか
小さな子どもになったんだ。
ぼくは子ども、きみは小羊
その人の名前はぼくらと同じ
 小さな小羊、神さまは
小さな小羊、祝福してる


 小さな黒人の子ども

お母さんが南のジャングルで生んだ子だから
ぼくは黒人。おお、でもぼくの心は真っ白だ。
イギリスの子どもは天使のように真っ白。
だけどぼくは光をとられたように真っ黒だ。

まだ日があまりのぼらないうちに
お母さんが木の根元に座って教えてくれた。
ぼくをひざに乗せて、ぼくにキスして
東の空を指さしてこう言ったんだ。

のぼってくるお日様をごらんなさい。あそこには
神様がいらっしゃって、光と熱をくださってるの。
花も木も、動物も人間も、朝のやすらぎ、
昼の歓びを神様からいただいているのよ。

私たちがこの地上にいるのはほんのわずか、
それは愛の輝きに耐えることを覚えるためなの。
この黒いからだと日にやけた顔は、
雲のような森の木陰のようなものよ。

魂が輝きに耐えられるようになったら、
雲は消えて、神様のお声が聞こえるの。
大事な愛しい子どもたち、木陰から出ておいで、
小羊みたいに歓んで、私の金の天幕に集まりなさい。

お母さんはこう言ってぼくにキスしてくれたんだ。
だからぼくはイギリスの子どもにこう言うよ。
ぼくが黒い雲から、きみが白い雲から自由になって
大好きな小羊みたいに神様の天幕に集まったら、

御父のひざに喜んでよりかかれるようになるまで、
きみが熱に耐えられるようになるまで、日陰を作ってあげよう。
それからぼくは立ち上り、きみの銀色の髪をなでて
きみのようになる。そうしたらきみもぼくが気に入るさ。


 花

明るい明るいすずめ
深い緑の葉のうらで
幸せの花一つ
矢のようなお前を見てる
私の胸のすぐそばに
小さな揺りかご見つけてよ

いとしいいとしいロビン
深い緑の葉のうらで
幸せの花一つ
お前の泣き声聞いている
私の胸のすぐそばに
いとしいいとしいロビン


 煙突掃除の少年

ぼくがとても小さいときにお母さんは死んじゃって、
ぼくがそうじーそうじーそうじーそうじーって
やっと言えるようになったら、お父さんはぼくを売った。
だからぼくは煙突を掃除して、煤のなかで眠るんだ。

小羊の背のような巻き髪の小さなトム・デイカー、
髪の毛剃られて泣いていた。だからぼくは言ったんだ。
泣くなよ、トム、気にするな。その頭なら
煤だってきみの銀色の髪を汚せやしないさ。

それでトムも泣き止んだ。そしてその夜、
トムは寝ている間にこんな夢を見たのさ。
ディック、ジョー、ネッドにジャック、たくさんの掃除の子たち、
みんなそろって黒い棺桶に閉じ込められ、鍵も閉められた。

そこに輝く鍵を持った天使がやってきて、
鍵を開けて、みんなを外に出してくれたんだ。
跳ねて笑ってみんな緑の野原に駆け下りた。
川でからだを洗って日の光を浴びてぴかぴか、

煤袋を残して、はだかの白いからだで
雲のうえにのぼって、風のなかで遊びまわった。そして、
天使がトムに言ったんだ。いい子でいたら神様が
お父さんになってくださるよ。そしたら、いつも楽しいんだ。

そこでトムは目が覚めて、暗いうちにぼくたちは起きた。
煤袋とぶらしを手に持って、掃除の仕事に出かけたんだ。
その朝はとっても寒かったけど、トムは幸せそうであったかかった。
自分のつとめを果たしていれば、いじめなんか怖くないのさ。


 迷子になった男の子

お父さん、いったいどこに行くの?
お願いだからそんなに速く歩かないで
お父さん、ぼくに声をかけて
かけてくれなきゃ、ぼくは迷子になっちゃう

夜は暗く、父親はどこにもいなかった。
子どもは涙でびしょ濡れ。
沼地は深く子は泣きやまない。
そしてすべては霧に覆われた。


 見つかった男の子

先へ先へと漂う光に誘い出され
寂しい沼地で迷子になって泣いている子ども。
しかし、神様はいつも近くで見守っておられます。
白い光に包まれて父のように姿を現わされたのでした。

神様は、坊やにやさしく口づけすると、その手を引き、
心配のあまり真っ青になって、寂しい谷間を
くぐり抜けてきた母親のもとに導かれました。
泣かないで、坊や。もう大丈夫だよ


 笑いのうた

緑の木々が声を出して笑い、
小川がえくぼを見せて走り抜けるとき、
風がぼくらの冗談に腹をかかえ
緑の丘がそのざわめきに笑いを返すとき、

原っぱが生き生きとした緑に笑顔を見せ
きりぎりすが明るい景色に笑うとき、
メアリーとスーザンとエミリーが
かわいい丸い口でハッハッヒーと歌うとき、

色鮮やかな鳥たちが、桜んぼとナッツを広げた
木陰のテーブルで笑い声を上げるとき、
みんなおいで、楽しくなろうよ、
いっしょにうたおう、ハッハッヒー。

(以下次号)


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