バタイユ・ノート 4
政治の中のバタイユ 連載第3回

吉田裕



第8章 「フランスのファシスム」
 前回のノートで「ファシスムの心理構造」まで辿ってきたのだが、そこまでの過程はある意味でまとまりのつけやすいものであった。というのは、バタイユの活動は、主となる舞台を設定することができていたからである。もちろん彼はほかにいくつか活動の場所を持っているのだが、二〇年代には「ドキュマン」、三〇年代はじめには「社会批評」という場所に集中している。「ファシスムの心理構造」は後者の最終号(三四年三月)に掲載されたものだが、この雑誌以後彼は、少なくともしばらくの間、特定の雑誌に拠るということがない。前述のように彼は「ミノトール」(第一号が出るのは三三年五月)に協力するが、シュルレアリストたちに乗っ取られる。彼が自分の雑誌らしいものを持つのは、三六年六月に第一号が出る「アセファル」にいたってである。だがアセファルも薄い雑誌で、五号までしか出ていない。一方彼はかなりの量を書いており、それらは様々の小さな雑誌に寄稿というかたちをとっている。したがって、社会学研究会の講演などいくつかの集合の場合を除いて(だが三七年から三九年の活動を、社会学研究会だけに絞ってしまうのもまた間違いなのだ)、特定のテーマを持続的に追求するということはなされていない。だが草稿のたぐいは多く残される。それらは、後年になっても書物にまとめられることはない。要するにこの時期のバタイユの活動は、混沌としており、それを跡づけるのは容易でない。バタイユとはこの混沌なのだ。だがバタイユを読もうとする限りは、そこに道筋を設けてみなくてはならない。それは仮説にすぎないが、仮説だということを肝に銘じ、必要なときにはいつでも混沌に戻しうる姿勢を保ちながら、それを追求するほかない。
 いくつか考えられる仮説のうちで、まず妥当なのは、全集という形で提出されたものだろう。少なくともすべてを網羅的しているからだ。第II巻はこの時期の草稿類を集めたものだが、その中の「社会学的試論集」と名付けられた一群の草稿が、私たちの関心を引く。この表題はバタイユ自身がひとまとめにしてその束の上に書き付けておいた名前らしく、それだけに必ずしも主題は統一されていないが、そのなかに私たちの目下の導きの糸であるバタイユのファシスムへの関心を照らし出すものがある。そこに収められた草稿は「ファシスムの心理構造」の後に続くものであるらしい。前述のようにバタイユは「フランスのファシスム」という表題の書物を計画したが、そこには同題の草稿がある。草稿は題名のないままで、これは編者がつけたものであるが、確かにこの書物の冒頭部分であるようだ。あるいは「ファシスム定義の試み」と名付けられた草稿がある(いずれも未訳)。
 前者は、ファシスムを、その起源であるイタリアから説き起こし、ドイツに至るというように、ファシスムの総体をとらえようとする試みだが、彼が最初におそらく計画したであろうようにフランスにおけるファシスム的傾向の分析と批判にまでは至っていない。そしてイタリアおよびドイツのファシスムの分析は、後にアセファルに発表された「ニーチェとファシストたち」におけるムソリーニに関する部分などに現れることになる。しかしながら、この草稿にあらわれて興味深いのは、ファシスムとコミュニスムを比較した部分である。この二つの政治体制をどのように比較し評価するかは、周知のように、この時期バタイユにとってに限らず重大な問題だった。彼の立場も、視点により常に同じではないが、この論文では、二つを同一視する視点を提出している(同じ時期に書かれたとおぼしく、同じ「社会学的エッセイ」の中に収録されている「ファシスム定義の試み」では、二つを混同すべきでないと言われているが)。
 それはバタイユによれば次のようである。まず現象として、イタリア・ファシストは、社会変革の契機を作るものとして暴力組織を置くなど、ボルシェヴィキのやり方を学んでいる。生産体系の違いは問題にならない、とバタイユは言う(経済的側面を従属的なものと見なす――反対に心理的側面を重視する――バタイユの傾向が見えるところでもある)。彼が着目するのは、コミュニスムの側における変質である。ボルシェヴィスムとファシスムほど対立し合うものはない。だが類似は起こった。それは〈ボルシェヴィキたちが、自分で引き起こしておきながら制御できないプロセスがあったからだ〉。それは宗教化である。その象徴はレーニンのミイラであり、次にスターリンへの個人崇拝が始まる。ソ連は「労働者の祖国」となり、ついには「労働者の」という限定すらなくしてただの「祖国」となる。〈しかしもし、もっとも執拗な抵抗も・・君主的な制度が発達するのを押しとどめられないとするならば、その場合、大工業社会のカオス的な変容を支配する、死んだレーニン、ムソリーニ、ヒトラー、スターリンといった指導者にして神のごとき存在の、ほとんど信じられないほどの古代的なありようは、何を意味するのだろうか?〉(第六節)。この権力化、宗教化、ファシスム化は、労働運動の勝利によっても起こる。感情も風俗も科学も、すべては、「神」に対する従属に置き換えられてしまうのである。
 次の「ファシスム定義の試み」は、「フランスのファシスム」と一部かさなるところがあり、後者を延長して定義にまで近づけようとしたものだろう。そこでバタイユは、ファシスムを〈一人の頭領に従属するところの軍事的構成を持った党派〉だとしている。軍事性とは、単に武装的勢力であることを指すのではなく、これがバタイユが最も重要視する点なのだが、他に対して情念的に絶対的に従属するという存在の仕方である。それは究極的には、指導者を経て、神の存在を受け入れることである。このような意味での軍事性が、ファシスムの本質をなしていることは、「ニーチェとファシストたち」周辺のファシスム論でも繰り返し強調される。
 むろん違いがすべて無視されるわけではなく、「ファシスム定義の試み」では、実際のコミュニスト活動家をファシストと混同することを厳に戒めているが、思想的な問題としては、ファシスムとコミュニスムが、ともに奇怪な宗教性を持って現れたことを批判的にとらえようとしていると言える。同じ時期彼は、政治的関心と並行して宗教への関心を深めていて、その立場から、ファシスムとコミュニスムに表れたこの奇怪な宗教性は批判されるが、また反対に前者にもこの批判は反映することになる。

第9章 三四年二月から『青空』まで
 強力な工業力を持ったドイツでファシスト政権が成立したことは、当然ながら民主共産主義サークルにも、深甚な影響を与える。眼前に勃興しようとするファシスムにどう抵抗するか? これをめぐってサークル内で意見の相違が明らかになってくる。これは主に、議会制度のなかで反ファシスム闘争を拡大していこうとする一派と、ドイツでの左翼の敗北を鑑みて一層強力な武装闘争を組織する方向にゆこうとする一派の対立が明瞭になってくる。スヴァーリンは前者の主張を持っていたらしいが、それによって全体をまとめていくことはできなくなっていったようだ。バタイユは、「消費の概念」で明らかにされた主張、すなわち生産に還元されない消費が人間の根本であるという主張を、革命の問題に病理的な傾向を持ち込むことだと批判され、どちらのグループからも排除されていたらしい。その頃、すなわち三四年二月六日に、前述のようにブルボン宮前で、右翼による騒擾事件が起こる。二月一二日には、この騒擾事件に対抗して、社会党と共産党、それにこれらの政党に近い労働組合が合同し、ゼネストとデモが計画される。ゼネストには一〇〇万の労働者が参加し、一〇万人がヴァンセンヌからナシオン広場までデモを行った。これをきっかけとして社共の統一行動が模索され、二年後の三五年七月一四日の革命記念集会で急進社会党、社会党、共産党、それに労働組合、人権同盟、反ファシスム知識人監視委員会などを含めて、「人民の結集 rassemblement populaire 」が結成される。そして翌三六年一月に上記の三つの政党を含めて人民戦線綱領が合意され、五月の総選挙を経て、六月五日にブルムを首班とする人民戦線内閣が成立する(しかしこれが崩壊するのは、わずか一年後の三七年六月二二日である。その後ブルムは三八年三月に第二次の人民戦線内閣をつくるが、熱気はもはや消えており、今度は一月で崩壊する)。
 この時期、フランスの国内からすると、戦争は抑止され、社会は漸進的にだが改革されつつあると見えたようだ。三四年二月のゼネストとデモは、左翼がまだ力量を持っていることを示し、人民戦線は結成され、政権についたからだ。この政権によって、週四〇時間労働法、年間休暇法が可決され、労働組合の交渉権が認められ、他方で「火の十字架団」をはじめとする極右の四団体に解散命令が出される。これらブルムの実験と呼ばれる施策によって、時代はある意味では希望を信じ得るものと映っていた。
 だがそれらを背景に置いてみると、バタイユの書き残したものはいかにも対蹠的である。それらのなかで政治的な文脈の上で読むことのできるもの(もちろんほかの文脈で読むことを排除するものではない)が、まず目につく。それらは論文かフィクションか、あるいは公刊されたか草稿のままかの区別によって全集の各巻に分別されているが、「ファシスムの心理構造」「フランスのファシスム」「ファシスム定義の試み」以後を政治的関心という視点から連ねてみると、第II巻の「一九三四年―一九三五年」の項にまとめられた「ゼネストを待ちながら」「人民戦線の挫折」「予感」が来る(いずれも未訳)。このあとに位置させるべきは『青空』であろう。三四年初頭の動乱を受けて民主共産主義者サークルは崩壊するが、その中でもみくちゃになったバタイユは、三五年の五月のほぼ一月の間、当時フランス国境に近いスペインの寒村トサ・デ・マルにアトリエを開いていたアンドレ・マソンのところに避難し、そこでこの小説を書くからである。
 最初に検討すべきは、「ゼネストを待ちながら」であろう。これは「フランスのファシスム」に加えるつもりで書かれたもののようで、ゼネストをはさんで前後三日間、すなわち二月一一日から一三日までの記録、いくつかの項目に分けられた覚え書である。前日のバタイユは、ゼネストの設定が、間に週末があったものの、遅すぎたのではないかと考え、ストがあまり激しくなると、ブルジョワを不安がらせ、右翼勢力を利するから避けた方がいいのではないかと書く。しかしその後の記述には、ストが激烈になることを期待しているような部分が目につく。だが実際にはストは大した混乱なしに終わる。彼はヴァンセンヌ広場で共産党のデモに出会うが、その赤旗を持って先頭に立っていた髭面の労働者に〈悲惨が壮麗さに達している〉のを見て感動する(この労働者のことは一年後の「街頭の人民戦線」の中でも言及される)。ドイツとオーストリアのプロレタリアは一撃で倒されたが、フランスではそうではあるまい、と彼は考える。夕刻になって彼は、クノーら何人かの友人と議論し、概ね成功だったという評価を下す。しかしこれらの印象は、常に悲観的観測と一体である。前日彼は、〈いずれにせよ、ファシスムが発展するプロセスは始まっており、一般的な状況はそれに有利になっていることを忘れてはならない。すぐに収まったとしても、それは決して終わりを意味しない〉と考える。そしてストのあとでも次のように書き付ける。〈しかしながら、統一は、実現されたとしてもつかの間のものだろうし、有用となってファシスムとははっきり異なって区別され得るような組織を作ることに導くというものではあるまい。なぜなら、政府が窮してファシストと戦わざるを得なくなったとき、社会主義者たちは、政府を支えようとする誘惑に抗しきれないであろうからである。そしてもし統一が持続的であるとしても、二つの政党が合わせた力は、ファシスムの道をふさぐのには、まだ十分ではあるまい〉。
 もう一つの「人民戦線の挫折」は口頭での報告、あるいは演説の原稿らしいが、いくらかわかりにくいところがある。タイトルは消去されたものを全集の編者が復元したものらしいが、「人民戦線」という表現が表れるのは、いつ頃だろうか? 左翼諸政党の合同が模索されはじめるのは、三四年二月一二日をきっかけとしてだが、この集合は三五年七月一四日の革命記念集会までは「人民の結集 rassemblement populaire 」と呼ばれていた。「人民戦線」の名が公式になるのは、三六年一月の「人民戦線綱領」の締結によってである。一方バタイユのこのノートが書かれたのは、それが「一九三四―一九三五」という項目の中に収められ、さらに三五年五月のマソン宅への滞在中の覚え書である「予感」よりも前に置かれていることをみると、三五年春以前ということになるのだろうか。その時点で「人民戦線」の名前がささやかれることがあったのだろうか? さらにその「挫折」が語られるとは何だろうか? だがこの論文には多少の不明を越えて、興味深い点がある。それは次のような箇所である。

〈……社会的な動揺は、人間の深みから来る動揺と切り離されえない。もしこのように切り離されないものであるなら、政治的な出来事は、プロパガンダの持つどんな明快さとも異質であるような注意力を求めてくることになるだろう。直接的な現実が観察からもれることはなくなる。そしてデモクラシーの世界での内部的な動きは、狭い限界内にあることが見えてくる。同時に、視野は開放され、地平は開け、そしてさまざまの衝突のなかで賭金となっているものの大部分が、本当はあまりにも実際的な利得や挫折と結ばれているものではないことがわかってくる〉

 政治的なものが、本当は人間のもっとも奥底にあるものと結ばれていることがわかってくる。同時にこのように結ばれることで、政治的なものがただ政治的ではない相貌を持つことになる。私がバタイユのなかで一番惹かれるのは、このように「社会的な」ものと「人間の深み」を直結させ、それによってその双方のありようを変えていこうとする試みである。この研究ノートは政治的な問題を設定しているから、関心を「社会的な」面に集中させてきたが、バタイユには自分の政治的関心が、良くも悪くも政策論議には収まらないことは明らかに見えていた。それはたぶん、彼が、政治が政策として表れざるを得ないことを熟知しつつも、それを「内部的なもの」へと読み変えようとしてきたからである。
 また読み変えへのこの要請は、彼が予感していたように、デモクラシー世界の脆弱さとファシスムの執拗さが明らかで、ファシスム的な世界が到来し、政策的政治のレベルでの可能性をすべて奪われたときに、自分の内的な根拠をどう持つかのための密かな準備だったとも言える。「人民戦線の挫折」という草稿の断片がどのあたりに位置づけられるのかは明確でないとしても、この時期バタイユの関心が、持続的に、「社会的な」ものと「内部的な」ものの結合にあったことは確かである。明らかな証拠は『青空』である。
 ここでは『青空』の全体を取り上げることはできない*1。またそれはフィクションの作品であって、フィクションとしての読み方を求めてくるが、それでも半ば政治的な領域に身を浸した作品であり、その分では政治的に読むことができる。とりわけこの「政治」が、今見たように「人間の深み」に向かって読み変えられようとしているとすれば、なおさらのことである。いやそう読み変えようとしていたからこそ、『青空』のような作品が書かれえたのだ。この作品では、「政治」の側からの変容は、左翼の活動家であるラザールを通して展開され、「人間の深み」の側からの変容は、ダーティを通して進展する。そしてそれは最後に、星空を足下に見ることに表されているように全体的な転倒を成し遂げ、それまで不可能だった交接を成功させるが、この成功は「社会的な動揺と人間の深みから来る動揺」を結びつけ得たことにほかならない。
「政治的なもの」のこのようなありようを、フィクションにすぎないと批判し貶めるのは間違っている。なぜなら、読み変えと変容を経たとき、それは単純に現実的なものであるという様態を遙かに越えていくものであるからだ。

第10章 コントル・アタック*2
 おそらくは『青空』を書くことで、バタイユは気力を取り戻したのである。彼はパリに戻り、二九年以来仲違いしていたブルトンとの関係を修復し、知識人を反ファシスム闘争のために結集させようとする。反ファシスムの知識人組織としては、すでに三四年の騒擾事件直後に、ブルトンの呼びかけ(「闘争への呼びかけ」)をきっかけにしてアランやマルローが参加した「反ファシスム知識人監視委員会」があり、この団体は、人民戦線の発端となる三五年七月の「人民の結集」に一役を買う。だがそれはブルトンにとって満足のいく活動とはなっていなかったようだ。九月バタイユとブルトンは和解し、「革命的知識人同盟」という但し書きのついた「コントル・アタック(反撃)」というグループを結成する。ブルトンの側からペレ、エリュアールなど、バタイユの側からアンプロジーノ、クロソウスキー、デュビエフ、エーヌなどが参加する*3。一〇月七日に宣言が出される。この宣言の執筆は、ほぼバタイユによるらしい。宣言は二度出され、最初の署名者は一三名、二回目には二五名が加わる。後の参加者をいれ、最大限に見積もって七〇人ほどで、それほど大きな団体ではない。
 この組織の実際面での活動を簡単に振り返ってみる。知識人の組織であったせいか、あるいはブルトンとバタイユという相反するグループの糾合であったせいか、またデュビエフによればシュルレアリストの世代とそれより若い研究者世代の食い違いもあってか、活動が跛行している感は否めない。三五年とは、人民戦線の結成が模索され、綱領の合意に向かって進んでいるときだった。設立宣言を見ると、コントル・アタックが共和政民主主義と議会を激しく批判し、直接行動を求めるものであることがわかるが、にもかかわらず、三六年二月ブルムがアクシオン・フランセーズの青年に襲撃された事件に対して、社会党を中心にした抗議行動が行われると(一七日)、それに参加している。それに公開の集会が二度、ビラで宣伝されているように「祖国と家族」「二〇〇家族」のテーマで、三六年一月五日と二一日に開かれている。ついでながら言うと、コントル・アタックの実践的な行動はこれが全てである。
 そしてすぐさま分裂がくる。原因はいくつかあるようだ。コントル・アタックの結成に当たって、ある雑誌からインタビューを受けたブルトンが、あたかもそれが自分のイニシアティヴによるもののようにふるまい、また「設立宣言」が実際はバタイユの起草であるのを知っていながら、同年一一月に出版した自分の著書『シュルレアリスムの政治的位置』に収録する。これは主導権争いと言えるかもしれない。またブルトンとバタイユの性格上の相容れなさは、一夕で改善されるものでもなかった。直接のきっかけになったのは、バタイユに近かったドトリーが起草し、同意を得ないままブルトンを署名者としてしまった三六年三月のビラ「フランスの砲火の下で」に、次のような一節があったためらしい。〈何はともあれわれわれは、外交官と政治家たちのしまりのない興奮ぶりなどよりも、ヒトラーの反外交的な粗暴さを好む。なぜなら実際はそのほうが平和的なのだから〉。この言い方が「超ファシスムsurfascisme」だとして、ブルトンたちとの間の亀裂は決定的なものとなる。だがすぐあとに見るが、分裂の理由は、もっと深い思想的なところにあったと言うべきである。バタイユの側もこの時に早くも分裂を覚悟したらしい。同じ三月、ドイツ軍のラインラント進駐とそれに対する政府あるいは共産党の対応に抗議して出された、今度はバタイユ自身の起草になるパンフレット(これにもブルトンの署名があるが)、「労働者諸君、君たちは裏切られた!」に、「反神聖同盟委員会」という新しい組織の結成を示唆し、それへの参加を求める広告を添付しているからである。時期的に言うと、同じ五月にコントル・アタックに予定されていた機関誌「コントル・アタック手帖」の創刊号が出て、そこにバタイユは「街頭の人民戦線」をはじめとする重要な論文を載せているが、その時にはコントル・アタックの分裂はもう明らかだった。むしろそれはすでにコントル・アタックの限界を越えようとするところで発想されていたように見える。
 コントル・アタックは、左翼諸政党に対して強い批判を持っていたが、それでも人民戦線の結成に向かう思潮のなかで誕生したのは確かである。だがそれは人民戦線が政権を取るとほぼ同時に崩壊する。シュリヤは評伝で、〈人民戦線の成立およびコントル・アタックの内部分裂が、この運動を理由づけていたものを乗り越えてしまった〉と書いているが、内部分裂は別にして、人民戦線が成立したためにコントル・アタックが不要になったということはあるまい。コントル・アタック――少なくともバタイユの――が目指したのは政権の問題ではなかった。それは「街頭の人民戦線」という論文の題名が十分に示しているところではないか。
 バタイユはこの活動のなかで集中的に論文を書いている。それらは全集第I巻に収録され、一一の項目を数えるが、三つに分類できるようだ。第一に分類されるのは、設立に関わる文書で、三五年一〇月七日付けの「設立宣言」および、同盟員がそれぞれの立場から主張を公表する著作の広告「コントル・アタック手帖:紹介パンフレット」である。第二に、集会や行動への参加を呼びかけるビラの一群が来る。「コントル・アタック:祖国と家族」「二〇〇家族」「ファシストどもはブルムをリンチした!」「行動への呼びかけ」、そして先ほど触れた二つのビラ「フランスの砲火の下で」「権利と自由のための戦争を忘れていない人々に:労働者諸君、君たちは裏切られた」がそうである。これらは無署名かあるいは共同署名だが、実際の起草者は多くの場合バタイユであるらしい。第三は、三六年五月の機関誌「コントル・アタック手帖」の唯一の号に掲載された「街頭の人民戦線」「現実の革命を目指して」「戦争についての付加的ノート」の三つの論文である。これらはかなり長く、詳細なもので、バタイユが単独で署名しており、彼の考えを知る上で重要なものである*4。私たちはこれを今しばらく検討しなくてはならない。

*1 この作品を筆者がどう読んだかについては、「星々の磁場」(ユリイカ、一九九七年、七月号)を参照していただきたい。すべてを細部まで尽くしたわけではないが、見方の総体を示すことはできたと思う。
*2 コントル・アタックに関しては、シュリヤの評伝のほかに、参加者の一人であったアンリ・デュビエフ(一九一〇生)の回想記「コントル・アタックについての証言一九三五ー三六Temoignage sur Contre-Attaque (1935-1936), Texture,no6,1970」を参照した。デュビエフは後に歴史学者となる。彼の著書で私が持っているのは、Seuil社から出ているPoints叢書のなかの「三〇年代の危機La Crise des annees 30」(Dominique Borneとの共著)だけで、これは概説書だが、左翼運動の様相をよく伝えているように思える。コントル・アタックにに関する叙述があり、当時の左翼の中の位置づけを知ることができる。
*3 マソンとレリスのいずれも参加していない。マソンは元々政治嫌いで、またマルクシスムの理論に対して批判的であった。三五年一一月八日付けのバタイユに宛てた手紙で次のように書いている。〈マルクシスムに立脚するなにもかもが薄汚いことを僕は確信している。なぜならこの教義は人間に関する誤った考え方に基づいているからだ。――僕にとって人間は、それ自体である一つのレアリテだ(わざと強調して言うが)。マルクシストにとっては、人間は機能にすぎない(何かとの関係においての・・・だけど何との関係においてだ? 環境さ! つまりあらかじめ作られて、深い現実性なしの環境とのね)〉(Andre Masson, Le Rebelle du surrealisme, Herman, 1976)。またレリスは、コントル・アタックをユトピア的か、悪ふざけにすぎないと考えていた。
*4 以上に挙げた論文やパンフレットのうち、「設立宣言」「コントル・アタック手帖:紹介パンフレット」「行動へ呼びかけ」「権利と自由のための戦争を忘れていない人々に」は、『シュルレアリスムの資料』(思潮社、一九八一年)に訳出されている。他は未訳。

第三回終わり


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