バタイユ・ノート 2
バタイユはニーチェをどう読んだか 連載第1回

吉田裕



1、ニーチェの像をどう引き出すか

 シュリヤの詳細なバタイユ伝によれば、バタイユは一九二二年頃、ニーチェにはじめて接したらしい。古文書学校をでる二十五才の頃である。最初の本は『善悪の彼岸』であって、次に『反時代的考察』がくるが、それらは決定的な読書体験となる。後に〈なぜこれ以上書こうとするのか。私の思考――私の思考のいっさい――がこれほど完全に、これほどみごとに表現されているというのに〉と書くほどである。ところでバタイユが哲学から受けた影響を言うならば、もうひとりヘーゲルの名をあげなければなるまい。ヘーゲルに決定的な形で出会うのは一九三三年にコジェーヴの講義にでるようになってからであるが、このドイツ観念論哲学の完成者について、バタイユは、〈ヘーゲルは自分がどれほど正しいか知らなかったのだ〉と言っている。これらの引用から、バタイユが二人の哲学者から、きわめて強い影響を受けたことがわかる。しかしながら、ニーチェがヘーゲルに対する批判者であったことから推測されるように、ヘーゲルからの影響とニーチェからの影響は、葛藤なしに両立しうるものではなかった。ある批評家は、バタイユはヘーゲルに不満を持つとニーチェの立場から批判し、逆にニーチェに不満を持つとヘーゲルの立場に移ったと言っている。バタイユはニーチェについては、〈ニーチェには弁証法が理解できなかった〉と批判し、またヘーゲルのことを〈老いぼれ坊主〉と罵倒したりした。
 けれども、〈私は哲学者ではない。私は狂人だ〉と言うような人間にとっては、ニーチェのほうがより身近に感じられていたと言えるかも知れない。バタイユを読んでいて節目々々でより直接的に現れるのは、ニーチェの名である。彼のファシスム批判はニーチェ的な原理に基づいているし、彼が占領下の困難な生活を切り抜けるのは、全編ほぼニーチェ変奏曲というべき、『無神学大全』を書くことによってである。戦後においても彼は、最大の問題となったコミュニスムに触れるにあたって、〈今日の世界において、コミュニスムとニーチェの姿勢以外に、どんな姿勢も受け入れることはできない〉(「マルクシスムの光によってみたニーチェ」)と言うのである。だからバタイユにおいてニーチェの像をたどることは、ただ彼の思想形成の影響関係のひとつを探ることなどではなく、彼の根底を照らす視点となるだろう。
 しかしながら、バタイユがニーチェをどう読んだかを明らかにすることは、限定された小規模な作業のように見えながら、実際はそれほど簡単ではない。バタイユがニーチェから受けた影響を、彼の書いたどの著作にみればよいのか、焦点が絞りにくいのである。バタイユを少しでも読み込めば、彼がニーチェの影響を深く受けていることはすぐ見て取れるが、しかしそれがどこに具体的に現れているかを特定することはむずかしい。『ニーチェ論』と題した一冊があるが、半分は彼の日記であり、収録されたいくつかの論文も個別に発表されたものを集めたものであり、これを一冊読めば、彼のニーチェ理解がくまなくわかるというものではない。ニーチェの像はバタイユの全体にわたって、広く深く浸透し、バタイユの骨肉と化していると言うほかない。そのようなときどんな方法によって、この影響関係をとらえることができるか。私には平凡な方法しか思い浮かばない。つまりバタイユがニーチェを主題にした論文、あるいはニーチェについての言及がある論文をともかく読みつないでみることである。
 この方法には欠陥があることはわかっている。ニーチェの名を冠された部分だけを取り上げると、トピック的な部分だけが強調され、全体に浸透して基底をなしている部分をかえって見逃してしまうことがないとはいえないという点である。これはその通りだが、個別の論文は目につく露岩にすぎず、それはただきっかけであって、そこから基底のほうへ下っていく通路を常に開いておくことを自分に言いきかせるほかあるまい。そこで完結したガリマール版の全集から、題名中にニーチェの名を含むもの、論中にニーチェに関する言及の多いものを、目につくかぎりで抜き出してみると、次のようになる。

1、「ニーチェとファシストたち」、三六年(六〇枚)
2、「ニーチェ・クロニック」、三七年(四〇枚)
3、「ニーチェの狂気」、三九年(一五枚)
4、「序文」(『ニーチェ論』)、(四〇枚)
5、「ニーチェ氏」、(四〇枚)
6、「頂点と衰退」、(八〇枚)
7、「ニーチェと民族社会主義」、(一〇枚)
8、「ニーチェの内的体験」、(一〇枚)
9、「ニーチェの笑い」、(二五枚)
10、「ニーチェとコミュニスム」、(二〇枚)
11、「ニーチェとイエス」、(六〇枚)
12、「ニーチェと禁制の侵犯」、(四五枚)
13、「ジッドとヤスパースによるニーチェとイエス」、(四五枚)
14、「マルクシスムの光のよって眺めたニーチェ」、(二〇枚)
15、「ニーチェとトーマス・マン」、(四五枚)
16、「ニーチェはファシストか?」、四四年(一〇枚)
17、「ジッド・ニーチェ・クローデル」、四六年(一〇枚)
18、「ニーチェとウィリアム・ブレイク」、四九年(三〇枚)
19、「ニーチェ」、五一年(一〇枚)
20、「ツァラツストラと賭の魅惑」、五九年(一〇枚)

 これらは全集の番号の若い順に、また収録順に並べたものである。執筆年、あるいは発表年がわかっている場合は末尾に示した。また()内の数字は翻訳した場合に四百字詰めの原稿用紙でどれくらいの量になるかを概算で示したものである。1と2は実は連続したひとつのものである。だから以後二つを合わせて、「ニーチェとファシストたち」と呼ぶことにする。4から8は一九四四年刊の『ニーチェ論』からで、そのうち4、5、6が本文、7、8は補遺である。10から12は、「呪われた部分」の一部として構想されたが生前には刊行されなかった『至高性』からのものである。13から15は全集では付録として扱われているが、13は11の、14は10の、15は12のもととなった原稿である。従って10から12は一九五二、三年頃の執筆と推測される。16以下は戦後の補遺的なニーチェ論で、そのうち16は7のもとになった原稿である。特に言及しなかったものは、独立した論文として扱われている。
バタイユにおけるニーチェというテーマで書くためには、これらの論文を主なる対象にすることになる。しかし、それには欠落している部分があるので、それをあらかじめ明らかにしておく。それはここには、彼がニーチェを読みはじめた最初の時期のことを示す論文がないことである。標題から推測できようが、彼のニーチェ論はいきなりファシスム批判の文脈の上で現れる。それ以前の彼のニーチェ読書は、この一覧からは必ずしもうかがうことができない。
 ほかのところから知りえたかぎりでは、バタイユは一九二〇年頃から徐々に信仰を失っていったが(「自伝ノート」では、ロンドン旅行からの帰途、ワイト島のベネディクト派の修道院に滞在中に突然信仰を失ったと書いているが)、そのかわりにニーチェの像が彼のうちに食い込んでいったように見える。そのときニーチェはバタイユに、神の概念、少なくともキリスト教的な神の概念に頼らずとも、神的な体験が可能であること、そのゆえに神の名は拒絶されるべきであることを教えたのではないか。バタイユはこの示唆に従って、少しずつキリスト教的な思惟の方法と用語から抜けでるのである。
 ただこの時期のことについては今は十分な証明ができないので、保留するとして、ともあれこれらの論文を読んでみる。すると私はいくつかの印象を受ける。ひとつにはニーチェがかなり戦略的、実践的に読まれていることである。そしてそのためか、時期によってバタイユにおけるニーチェは、かなり違った様相を見せる。変化は戦争以前、戦争中、戦後の時期にほぼ対応している。
 戦争以前のニーチェ論は、標題から明らかなように、ファシスム批判のために書かれている。ニーチェはドイツ・ファシスムの思想的な先行者のひとりとして喧伝されたが、バタイユからみればそれはニーチェを歪曲するものであった。だから彼はファシスム的なニーチェ像を批判し、ニーチェを奪い返さねばならなかった。そしてそれがバタイユにとってはそのまま反ファシスム闘争の重要な支柱のひとつであった。
 これにくらべると戦争期のニーチェ理解は、内在的なものだといえるかも知れない。フランスはドイツ軍の占領下にあり、バタイユには「社会科学研究会」も「アセファル」もなく、しかも結核を発病して療養の身であって、彼は自分の内部をのぞき込むほかなかった。この時期のニーチェの像は神秘主義的であり、「内的体験」と深く絡みあって現れる。
 戦後のニーチェ論で目につくのは、コミュニスム批判の文脈で読まれたニーチェである。彼はこの〈戦後最大の問題〉に取り組むにあたって再び、ニーチェの視点に拠っている。それ以外では、彼は他の作家思想家のニーチェ論を批判し、また以前のニーチェ理解を反すうして、多面的な展開を見せているが、私はかならずしも戦争以前、あるいは戦争下のニーチェ論のような緊張を感じない。戦争は終わったこと、また一九五〇年くらいからすでに彼の健康が衰えはじめていたことが原因になっているのだろうか。
 とりあえずこのように分類される彼のニーチェ像の諸領域のなかから、他の領域との接点を見失わないよう留意しながら、私はまず戦前のニーチェ像、すなわちファシスムと争った時期のニーチェ像を問うことにする。若年の出会い以来神の存在に変わって刻み込まれたニーチェの像は、この時期に最初の現実的試練を受け、次にくる神秘主義的なニーチェと対になって彼のニーチェ理解の最大の振幅を形成し、その動揺のなかにバタイユ自身の思想の根底をも覗かせるように思われるからである。


Booby Trap No. 8



バタイユはニーチェをどう読んだか 1-バタイユはニーチェをどう読んだか 2-バタイユはニーチェをどう読んだか 3-バタイユはニーチェをどう読んだか 4-バタイユはニーチェをどう読んだか 5-バタイユはニーチェをどう読んだか 6-バタイユはニーチェをどう読んだか 7-バタイユはニーチェをどう読んだか 8-バタイユはニーチェをどう読んだか 9(最終回)-バタイユ・マテリアリスト 1-バタイユ・マテリアリスト 2-バタイユ・マテリアリスト 3-バタイユ・マテリアリスト 4-バタイユ・マテリアリスト 5(最終回)-政治の中のバタイユ 1-政治の中のバタイユ 2-政治の中のバタイユ 3-政治の中のバタイユ 4-エクスターズの探求者 1

バタイユ・ノート2
バタイユはニーチェをどう読んだか 連載第2回

吉田裕



2 ファシストたちをめぐって

 前回のノートで、バタイユのニーチェ理解を取り出すのに、ファシスム批判の視点から眺めるという方法を選択することにしたが、この方法から論文としてまず興味をひくのは、「ニーチェとファシストたち」(36年、以下「ファシストたち」と略)、「ニーチェ・クロニック」(37年、同「クロニック」)、「ニーチェと民族社会主義」(44年同「民族社会主義」)、「ニーチェはファシストか」(44年)といった諸論文である。付加しておけば、「ニーチェとファシストたち」が発表されたのは、「アセファル」の2号においてだったが、この号は、「ニーチェの回復」と題されたニーチェ特集号であった。回復とは明らかにファシスム的理解からの回復を指している。また次の3、4合併号には、「クロニック」が掲載されたが、この号のテーマはディオニュソスであり、カイヨワが執筆している。これらのことから、「アセファル」の編集に携わったアンブロジーノ、バタイユ、クロソウスキーらと、また彼らに加えるに執筆者であったジャン・ヴァール、ジャン・ロラン、そしてカイヨワらの間では、ファシスムの理解に抗して、ニーチェの読み方を変えようという合意があったことがうかがわれる。バタイユのファシスムのニーチェ理解批判のなかにもまた、この集団的な試みの中に位置づける必要のある部分があるだろう。だがまず、彼のいうところを聞くことからはじめたい。
 ファシスムといっても、多くの研究者が言うように、これがファシスムの理論であるとして取り出しうるものはなく、時には相矛盾するさまざまな傾向の寄せ集めであり、その分逆に批判も困難になる。だがバタイユは「ファシストたち」をはじめとする諸論文の中で、ファシストと目された人物たちのニーチェとのかかわりおよび理解を、具体的に取り上げており、その意味では、ニーチェ理解を通してのファシスム批判の、またファシスム批判を通してのニーチェ理解を見る出発点にはなりうると考えられる。
 まず目につくのは、ニーチェの妹エリザベトにかかわる問題である。1844年に生まれたニーチェは、88年頃に錯乱に陥り、1900年に死ぬ。死後膨大な遺稿が残され、エリザベトがそれを管理する。ところでこの妹は、断片のかたちで残されたこの遺稿を整理し、編集して、兄の死の翌年の1901年に『力への意志』の標題で刊行する。ニーチェがこのような題の書物を構想していたことは確からしい。しかし問題は、その編集であった。そこにある種の偏向――つまり反ユダヤ主義的な――があったからである。そのような批判は、当初からあったらしい。しかしながらそれが一挙に表に出てきたのは、1933年12月に、その年の1月に政権をとって首相となったばかりのヒトラーを、エリザベトが、ニーチェが晩年をすごしてその遺稿を保管していたワイマールの山荘に招待し、ニーチェの愛用していた杖を贈呈し、そのうえ夫であるフェルスターにニーチェを反ユダヤ主義者であったとする論文を朗読させることによって、ニーチェを反ユダヤ主義に公然と結びつけたときである。またニーチェの母方のいとこは、ニーチェが揶揄するために引用した反ユダヤ主義者の言明を、ニーチェ自身の意見であるかのように見せかけるという、拙劣なほどの偽造を行っている。
 バタイユは家族によるこの事件を、ニーチェの捏造と詐取であると激しく攻撃している。ニーチェの著作、ことに『偶像の黄昏』や『アンチ・クリスト』などには、確かに反ユダヤ主義的とみなされかねないような叙述があるが、それは単にユダヤ的な要素に対する批判ではなく、ユダヤ・キリスト教的な要素に対する批判だったし、また仮借ない批判は同じくゲルマン的な要素にも向けられていたのである。ニーチェを反ユダヤ主義に結びつけることについては、バタイユは、まずそれがいかにニーチェ自身の考えを裏切るものであったかを、ほとんど実証的な手続きによって、つまり彼の手紙を引くことで証明しようとする。妹エリザベトについて彼は、そもそも〈私の妹のような人間は、私のような思考のしかた、私の哲学の不倶戴天の敵なのだ〉と言っていたが、彼女が1885年に結婚しようとして、その相手が当時の反ユダヤ主義団体の幹部であると知ったとき、ニーチェは猛然と反対している。後年エリザベトが『力への意志』を、反ユダヤ主義的と読まれるようなやり方で編集した背後には、この夫の存在があったのだろう。〈ツァラツストラの名が反ユダヤ主義者の口から出るとき、私が何を感じるとあなたは思いますか〉とニーチェは言う。それ以外にも彼は、ゲルマン主義も視野にいれて人種という考え方に批判的どころか、嘲弄的であった。〈人種などという恥知らずの悪ふざけにはまりこんでいる者どもを訪問することなど決してするな〉ともニーチェが言ったことをバタイユは繰り返して引用している。
 しかしながら、これらの批判を大々的に取り上げることは、過大な評価になるのかもしれない。なぜなら、『力への意志』の出版は1901年のことであり、その編集上の問題は、研究者の間ではすでに知られていたようだし、ワイマールでの儀式も数年前のことであるからだ。けれども、ここには確認しておくべきいくつかの点が浮かび上がっている。そのひとつは、彼のファシスム批判の軸のひとつが、反ユダヤ主義に対する強い批判だったことである。〈ユダヤ人に対する憎悪以上に、ヒトラー主義に本質的なものはない〉とバタイユは言っている(「民族社会主義」)。この反対には、ひとつには、彼が28年に結婚した最初の妻シルヴィアがルーマニア系のユダヤ人であったことも作用しているだろうが(34年頃離婚している)、もちろん理由はそれだけではあるまい。この問題についての彼の基本的な立場はもっと幅の広いもので、彼には確かに人種主義に対する激しい反発があったと言わなくてはならない。当時彼は、人間の本質が共同性の中にあると考え、この共同性をどのように実現するかを模索していたが、それは少なくとも、人種という生理的な条件によるものでないこと、またその上に構築される祖国といったものではないことは、彼には明らかだったからである。
 基礎的な事実の問題として、もうひとつ押さえておきたいのは、ファシスムの中でニーチェがどのような地位を与えられていたかという点に関するバタイユの考えである。ニーチェは、一般にそう思われているほどファシスムの偶像ではなく、ドイツ・ファシスムの人種主義のパンテオンに祭られたのは、ニーチェと同時代ではチェンバレン(ドイツ民族の支配的役割を主張する人種理論を説いた、1855-1927)、ワグナー(もちろん音楽家のワグナーである、1813-1883)、ラガルド(ゲッチンゲン大学の東洋語の教授であった、1827-1891)、そして二〇世紀に入ってはローゼンベルク(ドイツ文化擁護団の指導者で、『20世紀の神秘』の著者である、1893-1946)らであって、ニーチェに対する評価は保留つきだったとバタイユは言っている。ニーチェが一九世紀末のドイツ社会にたいする仮借ない敵対者であったことは、ファシスムの側も知っており、だからファシスムがニーチェを取り入れたのは、もっぱら彼が国外で持った名声のためであったとバタイユは見る。〈この操作のもたらす危険がどのようなものであれ、新生ドイツはニーチェを認知し、利用しなければならなかった。彼は、どのように激しい行動にも利用できるような、動態化された本能というものを代表していたからである。そして偽造は容易であった〉とバタイユは書いている。
 したがって、バタイユは、これらの思想家たちとの意図的な混同を明らかにするために、ニーチェが彼らとの間に持った激しい対立を明らかにしようとする。ワグナーに対する批判は周知のものである。ニーチェはその反フランス主義と反ユダヤ主義に〈うんざりし〉ていた。またラガルドの汎ゲルマン主義については、〈ポール・ド・ラガルドというセンチメンタルでうぬぼれの強い頑固者の著作を読んで、この春私がどれくらい笑ったかを知っていただけるでしょうか〉という手紙を残している。また先ほどの〈人種という恥知らずの悪ふざけにはまりこんでいる者ども〉と言うのは、チェンバレンに向けられたものであろう。
 またローゼンベルクについては、バタイユは彼が必ずしも第三帝国公認の思想家ではなかったことを知りつつも、ニーチェを、イタリア・ファシスムの本能主義的な解釈によってではなく、〈数百万の抑圧された人々の絶望の叫びを表現する〉と読むことによって、ドイツファシスムに近い解釈を与えたと認めている。しかし彼がニーチェの名をラガルドやワグナーと並べて、反ユダヤ主義者とみなそうとするときバタイユは激しく批判する。またローゼンベルクは〈天上の神々はあがめたが、地下の神々に対してはそうではなく〉(「ファシストたち」)、その結果、〈ディオニュソスの祭儀をアーリア的でないとして否定した〉。この否定は〈青年たちに必要なのは運動場であり、聖なる森などではない〉というヒトラーの言明に通じている(「民族社会主義」)。そして汎ゲルマン主義者ラガルドを嘲笑したニーチェの笑いは、ローゼンベルクにも充当されるだろうとバタイユは考える。
 また新しい資料が明らかにされた戦後になってのことだが、バタイユは、ローゼンベルクがニーチェの完全な賛同者ではなかったことを指摘している。49年のクリチック34号の短いニーチェ覚え書のそのまた脚注の中で(11-424)、ローゼンベルクの回顧録に触れ、このドイツ・ファシスムのイデオローグが、はじめてニーチェ(「ツァラツストラ」だったらしい)を読んだときのことを、〈彼の本質の中の何かが自分に異質で〉、あとでわかったのだが〈ニーチェの荘重で劇的な側面が、自分にはわざとらしく不完全に見えたのだ〉と述べていることを書き留めている。
 個人名と結びついた批判でもうひとつ目につくのは、ボイムラーに対するものである。ボイムラーとは、33年以来ベルリン大学の政治教育学講座の教授でローゼンベルクの元で活動していた人物だが、彼は31年に『ニーチェ、哲学者にして政治家』という著書を著している。バタイユはこの書物の中に知識と原則があって、その意味ではまともなものであることを認め、批判の爼上に乗せている(参考のためにつけ加えておくと、ハイデガーの最初のニーチェ講義である「芸術としての権力への意志」は36年の学期に始まったばかりで、それが出版されるのは戦後のことであり、当然バタイユはここでは言及していない)。ボイムラーはニーチェの迷路じみた著作から、「共通する力への意志によって統一された民衆」という原理を引き出してくる。しかしこれを彼は性急に、現実の民族的共同体に結び付けようとする。そこでバタイユは、ヘーゲルが絶対精神の実現をプロシアに期待したように、ニーチェはツァラツストラの実現を民族社会主義に期待したろうかと反問し、否と答える。なぜなら、ニーチェには、思想とは何かの実現に奉仕するものではなく、それ自体を目的にするものだという考えがより根本にあると考えるからである。同様にしてボイムラーは、「神は死んだ」を歴史的な背景の中に位置づけ、その結果この断言をいわば機能的に理解して現実の中に解消してしまう。したがって彼はニーチェが神の死のあとに見いだした「永劫回帰」についても、その発見がニーチェに持った強いインパクトを理解できず、それをニーチェの個人的な体験にすぎないとしてしまうのである。バタイユはニーチェの思想のもっとも重要な考えは、「永劫回帰」だとし、それをしばしば言明しているが、「力への意志」や「超人」は、それに比べれば重要さは薄いのである。
次回は個人の名に限定されない思想的な問題を扱いたい。

[注]ファシスムに関する知識は、主に『ファシズム』山口定著(有斐閣・1991年)、『ハイデガーとナチズム』ヴィクトル・ファリアス著(名古屋大学出版会・1990年)、『ナチス第三帝国辞典』ジェームス・テーラー著(三交社・1993年)によった。



Booby Trap No. 9



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バタイユ・ノート2
バタイユはニーチェをどう読んだか 連載第3回

吉田裕



3 共同体論の視野

 前回のノートで、次には個人名に限定されない思想上の問題を一般的に扱いたいと書いた。そうした思想的な問題は、指導者原理の問題、軍事性の問題、反ユダヤ主義の問題等多くあるが、それらの中で共同性という問題を取り上げるならば、これら数多くの問題を、かなり包括的にとらえることが出来ると考えられる。
 共同体をどのように考えるかは、ファシスムにとってもバタイユにとっても、ということは、確認しておかなければならないが、両者にとってだけというのではなく、20世紀の思想のあらゆる流派にとって最大の問題の一つであった。バタイユは、〈古典的モラルの拒絶は、マルクシスム、ニーチェイスム、民族社会主義に共通している〉といっている(「ニーチェと民族社会主義」 6-187)。この言い方から、いくつかの思想的な運動体には、近代に対する批判を共通させ、そのうえで差異をもっていることがわかるだろう。共同体の問題も、同じ筋道の上であらわれる。
 近代資本主義は、農村人口を労働者として引き寄せることで発展してきたが、それによって農村が持っていた共同体としての性格を、人々から奪い取った。しかしその見返りとして、新しい共同性を与えるということはなかった。都市の生活の中で、人々は単なる個人として、ふるまうことを促された。この変化は一方で、近代的自我の確立という美名を与えられたが、同時に人間の一方の本質としての、少なくともそれまで保持していた本質であるところの共同性を失うことであって、それは近代の人間に、他者から切り放されたという孤独感と喪失感を与えたのである。この喪失感は、第一次大戦によって、あらゆる階層と地方の出身者が無差別な個として扱われるという経験を経ることによって、不安にまで強められることになる。するとこの不安は、失われた共同体を、あるいは新しい共同体を求めるという希求となって現れることになる。たとえば学問の上では、このころ社会学や文化人類学といった新しい領域が現れるが、その出現の理由の一つに共同体への関心の高まりをいうことができる。
 マルクシスムとファシスムについて簡単にいうならば、前者は共同体を階級というかたちで、後者は民族あるいは国家というかたちで実現しようとしたといえるだろう。
 
 バタイユの関心の広がりも、この大きな暗黙の関心に導かれている。たとえば彼には最初から強い宗教への傾斜があったが、宗教といってもそれは、ただ神の存在を問うというのではなく、また神と個人の関係というのでもなく、宗教の意識は供犠の実践によって成立する共同的なものだという認識によっていた。また20年代に現れるフロイトへの関心も、同時代のシュルレアリストたちのフロイトが無意識とリビドーの理論家であるのに限られていたのに比べ、バタイユの場合は、それに加えて「トーテムとタブー」等の集団心理学のフロイトであった。彼は33年に「社会批評」に「ファシスムの心理構造」を書いているが、これは当時の左翼の間で定式化されつつあったファシスム理解、つまり、〈権力を握ったファシスムは、……金融資本のもっとも反動的で帝国主義的な部分の公然たるテロリスム的独裁である〉という35年のディミトロフ・テーゼに定式化されることになるような経済至上主義的な理解とは、異質なものであって、ファシスムを集団形成の新たな方法を案出した運動体としてとらえるものであった。そこにバタイユの共同体への関心の強さをみることが出来る。また彼は37年には、実質的な活動はほとんどなかったものの、ボレル博士やレーリスとともに「集団心理学会」なるものを設立している。これは「アセファル」や「社会学研究会」と同じ時期のことである。
 他方ファシスムの側にも、共同体への志向は色濃く現れている。そもそもファシスムという言葉のもとになったイタリア語のファッショと言う言葉は、「束ねる」という意味を持っていて、この運動は人間の共同性を作り出すことを目的として開始されたのである。この運動は第一次大戦に従軍した元兵士たちの交遊から生まれたが、それは戦場での死を賭した体験の中ではぐくまれた友愛を基礎としていた。帰還兵士の集団を発端に持つというこの始まり方は、ドイツ・ファシスムの場合でも変わらない。初期のナチスム運動の中心となったのは、擬似的な軍事組織であった突撃隊(SA)の活動であったからだ。この求心力の強い集団は、ついで、資本主義の発達によってプロレタリア階級と資本家階級に両極化しつつあった社会の中で、後者に上昇することは出来なかったが、前者に落ちていくことも心情的には肯定できなかった浮遊する中間層を引きつけつつ、いっそう拡大されることになった。
 これに対して、いわゆるデモクラシーの側からは、共同体という問題は、それほど大きくはあらわれてこない。なぜなら、デモクラシーとは、人間を共同性から解放された個体をしてとらえるところに成立するものであったからだ。だから共同体論は、少なくともある程度まで、デモクラシー批判の色彩を持つことになる。

 共同体をどのように考えるかという問題は、まずなにを基盤にして共同体を構成しようとするかという点から考えることが出来るだろう。だがこの点からすでにドイツ・ファシスムとバタイユの間には、はっきりとした差異が現れる。後者にとって共同体の基礎となったのは、民族社会主義という名が如実に示しているように、民族であった。ドイツ・ファシスムの標語の一つに「血と土」というのがあったが、ファシスムは一つの土地に定住した民族というものを、共通性として取り上げ、共同性を再構成しようとした。ローゼンベルクに触れて、バタイユは次のようにいっている。〈反キリスト教主義が求められ、生が神化される時、彼らの唯一の信仰とは人種なのだ〉と。この人種的民族的な統一性を高めるものとしての神話や伝説が強調される。そして祖国の観念と愛国主義が称揚される。この称揚は、必然的に視線を過去の方に振り向けることになる。だがバタイユが、激しくニーチェを対立させるものの一つは、この過去への志向に対してである。ニーチェのワグナー批判は、ゲルマン神話への過剰なのめり込みに対する批判である。またニーチェは自分のことを、過去に属するものではなく、〈未来の子ども〉であると言っているからだ。ニーチェにとって未来とは、過去からくる規定を拒否する根拠だったのである。この対立の示唆は、「ニーチェとファシストたち」にも「ニーチェと民族社会主義」にも現れる。ここでは後者から引用する。〈ニーチェは奇妙にも自分のことを「未来の子ども」であると言っていた。彼はこの名前に、祖国を持たない自分の存在を結びつけていた。実際のところ、祖国というのは、私たちのなかで、過去に属する部分であって、ヒトラー主義はただこの部分に依拠してのみ、その価値のシステムを打ち立てたのであり、それは新しいなにものをももたらさないのである〉。
 復古主義的な共同体思想は、近代に対する反動として、ロマン主義的な色彩を帯びてしばしば現れたものだが、ファシスムにおける特徴はその著しい急進性であった。それによってこの種の共同性の特性ははっきりとあらわれる。それは二つの局面であらわれている。一つは外側に対して発揮されるもので、共同性を保持するために、この共同性を共有しないもの、すなわち異端を徹底して排除しようとする傾向が強く現れることである。いうまでもなくこれは反ユダヤ主義である。もう一つは内側に向かうもので、共同性を保持する具体的な人物を求め、それに従おうとする傾向を生むことになる。これは指導者原理の発端であり、また他者への服従という軍事性の始まりである。
 バタイユはこの二つの帰結に対して、ニーチェの思想が真っ向から対立するものであることを証明しようとする。まず反ユダヤ主義に対してだが、彼は〈ヒトラー主義にとって、ユダヤ人憎悪ほど本質的なものはない〉(「ニーチェと民族社会主義」)と述べて、反ユダヤ主義が、単なる現象ではなく、ファシスムの本質に属するものであることを明らかにした上で、すでに前回引用したような、〈人種などという恥知らずの悪ふざけにはまりこんでいるような者どもを決して訪問するな〉というニーチェの断言を数度にわたって引用するのである。
他方指導者原理に対する批判は、軍事性に対する批判と一体になっていて、後者の視点から見る方がわかりやすいだろう。ファシスムが帰還兵士の組織として始まり、ナチスにおいては、レーム粛清の直前には50万人に達し、国防軍を脅かすほどの巨大な組織に達していたということは、ファシスムに軍事的な性格が最初から備わっていたことを明らかにするに十分である。バタイユはドイツ・ファシスムの性格を、革新的に見えるところがあるとしても、その本質は反動的な軍事的愛国主義だと考え、〈もし民族社会主義の哲学というものがあるとすれば、それは自分たちと考えを同じくしないものを無視し、軍事的な強化に役立たないものを軽蔑する軍事的愛国主義である〉と言っている。
 この軍事的な性格は、組織上では、上級者に対する絶対的な献身と服従の義務によって成り立っており、その最高部にあるのが、指導者としての総統に対する献身と服従である。しかし、この連鎖をもう少し子細にみていくと、より原理的な姿が見えてくるだろう。兵士が上官に献身し服従するとき、それはすなわち前者が後者のために存在しているということ、他者のために有用なものとして存在すると言うことにほかならない。
 ところで他のものに対して有用であるという性格は、バタイユがもっとも激しく嫌悪したところの性格であった。そのことはすでに33年の記念碑的な「消費の概念」で疑問の余地なく明らかにされている。人間には生産のためではない消費、計算と合理性を越えた純然たる消費というものがあり、それを実践しうることが人間の動物に対する優位であり、また人間の中の高貴な人間と凡俗な人間を差異づける。そしてニーチェの思想は、ほかのなにごとかに応用されて有用であるといったところはいささかもなく、ただ思想としてのみ存在するような思想であった。それは政治的に利用されることを断固として拒否する思想であった。バタイユは「ニーチェとファシストたち」の中で、次のように言っている。〈ニーチェの原則は、利用されることはできない〉、あるいは〈反ユダヤ主義、またファシスムであれ、社会主義であれ、使用ということはあり得ない。ニーチェは、利用されるままになることを肯わない自由な精神に向かって語りかけるのだ〉と。
 これら表裏一体になった反ユダヤ主義と指導者原理に対するバタイユの反応はどのようだったか。あまりに単純すぎる反証だとしても次のようなことは、あげておかねばなるまい。35年頃離別するが、彼の最初の妻シルヴィアはルーマニア系のユダヤ人であったし、彼にはエリック・ヴェイユをはじめ多くのユダヤ人の友人があった。また彼は36年に雑誌「アセファル」を発刊させ、また翌36年には同名の秘密グループを発足させるが、アセファルとは、頭脳を表す単語セファルに、否定の接頭辞がついた表現であって、それは雑誌の表紙のマソンのデッサンが明瞭に示しているように、無頭の怪物の意であった。この怪物は、頭脳すなわち理性の否定であると同時に、指導者を拒否する共同体の意味でもあったに違いない。そしてこの集団は、たしかに秘密結社の閉鎖的な外貌を持っていたが、バタイユのエロチックな地下出版物の言語と同じく、外側に向かって開く亀裂をそなえた共同体であったはずである。


Booby Trap No. 10



バタイユはニーチェをどう読んだか 1-バタイユはニーチェをどう読んだか 2-バタイユはニーチェをどう読んだか 3-バタイユはニーチェをどう読んだか 4-バタイユはニーチェをどう読んだか 5-バタイユはニーチェをどう読んだか 6-バタイユはニーチェをどう読んだか 7-バタイユはニーチェをどう読んだか 8-バタイユはニーチェをどう読んだか 9(最終回)-バタイユ・マテリアリスト 1-バタイユ・マテリアリスト 2-バタイユ・マテリアリスト 3-バタイユ・マテリアリスト 4-バタイユ・マテリアリスト 5(最終回)-政治の中のバタイユ 1-政治の中のバタイユ 2-政治の中のバタイユ 3-政治の中のバタイユ 4-エクスターズの探求者 1

バタイユ・ノート2
バタイユはニーチェをどう読んだか 連載第4回

吉田裕



4 雑誌「アセファル」のなかのニーチェ

 前回のノートの最後に、共同体理論のバタイユの実践としてグループ「アセファル」があることを書いたが、よく知られているように同名の、けれども性格は異なる雑誌が、同じ時期に創刊されている。正確に言うと、雑誌「アセファル」の方が先行していて、第1号の出るのが36年6月、グループの発足するのが37年はじめのことである。これら二つに先立っては、コントル・アタックが35年はじめに結成されて、はやくも36年四月に瓦解し、そのあと37年11月には「社会学研究会」の最初の講演会が開かれている。これらはバタイユの共同体への関心の実践だったといえるだろうが、であればその中にニーチェの陰が色濃く現れてくるのも当然だともいえるかもしれない。典型的なのは、前回述べたように、指導者原理を拒否したグループである「アセファル」だが、雑誌「アセファル」にも、同じ影は色濃く落ちている。それはまず第一に、これまで多く引用してきた「ニーチェとファシストたち」および「ニーチェ・クロニック」が、第2号および第3・4合併号に、そして「ニーチェの狂気」が第5号に掲載されているからである。
 しかもこれは、バタイユがたまたまこの雑誌にニーチェ論を発表したというのではない。この雑誌そのものがニーチェの強い影響下にあった。簡単に「アセファル」のことを振り返ってみる。この雑誌は、バタイユのイニシアチヴによって発刊されたが、編集陣には、クロソウスキー、マソン、ロラン、ヴァールを加えている。ただし最終の第5号は、すでに分裂が兆していたのだろう、バタイユの単独編集で、執筆者もバタイユ一人である。5号まで発行されたが、合併号がひとつあるので、都合4冊しか出ていない。バタイユが関与した多くの雑誌同様、短命に終わっている。この雑誌は一九八〇年に、ジャン・ミシェル・プラス社から復刻版が出たので、容易にみることができるが、さして厚い雑誌ではなく、各号によってばらつきが大きい。創刊号の裏表紙の広告によれば、季刊で各号16ページとされているが、36年6月の1号は8ページのみ、37年1月の2号、同じ年の7月の3・4号は32ページ、39年6月の最終5号は24ページである。これらは号毎に特集が組まれていて、第1号が「聖なる陰謀」、第2号が「ニーチェ復元」、3・4合併号は「ディオニュソス」であった。第5号は「狂気、戦争、死」である。これらの特集名からだけでも、ニーチェの影響の大きさを推しはかることはできる。第1号の「聖なる陰謀」で、中心になっているのは、サド、キルケゴール、ニーチェの3人であり、2、3・4各号はいうまでもないし、5号の中心にあるのは、ニーチェの発狂という事件である。
 バタイユのニーチェ理解も、このような文脈の中に織り込まれ、またこの文脈から浮上してくる。彼の理解は、必ずしも彼単独のものではなかった。そのことは彼の理解を少しもおとしめるものではない。彼の理解は、彼の交友関係の中から、そして本当はもっと深い時代の共同性の中に根を持っている。それはとりあえず、この時期のフランスの知識人の間でのニーチェの紹介のされ方、受け取り方の問題だが、その下にさらに時代と社会全体の問いのようなものがあることだろう。しかし、現在、この根のところまで探索を及ぼすことは、筆者の力量を越える。ただ彼のごく近いところでのニーチェの読み方をいくらかでも明らかにしたい。そのための典拠となるのは、まず「アセファル」である。
「アセファル」の5つの号は、通読されたとき、どんな印象を与えるか。どのようにすればニーチェをファシスム的読解から救い出すことができるかという私たちがこれまでバタイユのうちに見てきた関心に立って見れば、それは必ずしも、同人たちに共通する第一の問題であったとはいえないかもしれない。このような問題意識を真正面から打ちだしているのは、ほとんどバタイユ一人であるからだ。ただニーチェへの関心は、前述のように同人全員にほぼ共通し、そこからバタイユ的な意図が生じてくる経路は見えてくると言えるだろう。

 第1号は、マソンのデッサン2枚のほか、特集と同名だが、バタイユの「聖なる陰謀」とサドをテーマとするクロソウスキーの「怪物」という二つの論文からなっている。バタイユの論文の冒頭は、イタリックおよびゴチックで書かれ、かつ論旨からして、雑誌全体の宣言文のようになっているが、そこでとりわけ目を引くのは、〈われわれが企てるのは、戦争である〉という断言である。この一節は明らかに、最終の第5号の最後におかれた「死を前にしての歓喜の実践」のそのまた最後の節の大文字で書かれたもう一つの断言、〈私自身が戦争そのものである〉につながっている。この戦争の意識は「アセファル」の全体に流れているし、また「無神学大全」にまで延長されることになる。そしてニーチェもこの意識の上で読まれていることは疑いを入れない。
「聖なる陰謀」で主張されているのは、合理的な世界を拒絶して、陶酔を求めることである。バタイユはそれを、マソンのデッサンを示唆しながら、〈彼は人間ではない。彼はもはや神ではない。………彼は怪物なのだ〉と言っている。重要なことは、この陶酔は個人単独では達成されない、とされていることである。なぜ個人ではそれが不可能かというと、それは、自己という限界を超えることを前提とするからであり、必然的に他者を必要とするからだ。それは共同的な作業でなければならない。フランス語の〈陰謀conjuration〉という言葉には、接頭辞としてすでに共同のという意味が含まれている。そしてそこに呼応するようにニーチェの言葉が引用されている。〈あなたたちはばらばらに生きていて、今日は孤独だが、そのあなたたちはいつか群衆となるだろう。個々人として名指されてきた人々は、いつか群衆として名指されることになるだろう。そしてこの群衆から人間を越える存在が生まれることになるだろう〉。人間が群衆と化する契機を、バタイユは戦争にみている。そしてそこに生じる陶酔の経験から、またキルケゴールから示唆を得て、宗教的とも考える。それが宣言文の大文字のゴチックで強調された〈われわれは断固として宗教的である〉という断言の意味である。ここにはすでに、ニーチェを共同的あるいは神秘主義的に読むというバタイユの特異な読み方の一端が現れている。それは戦時下でよりいっそう鮮明にされるはずのものである。
 もう一つおもしろいのは、ここにドン・ジュアンの名が現れていることである。バタイユは「アセファル」の創刊を、スペインのトッサにあるマソンの居宅に滞在中に、彼と話し合って決めたらしいが、この序文を書いているときに、マソンが隣の部屋で蓄音機でモーツァルトの「ドン・ジョバンニ」の序曲をかけていたことを書き留めている。この論文ではそれだけの話なのだが、「アセファル」を通じてこの名は見えかくれすることになる。それがはっきりと浮上するのは、3・4号におけるクロソウスキーの論文「キルケゴールによるところのドン・ジュアン」においてである。この題からみて、そして「アセファル」創刊号のバタイユの論文中の引用からみて、キルケゴールがニーチェと並んでよく読まれていたらしいことがうかがわれるが、キルケゴールのドン・ジュアンは、もちろん『あれかこれか』に出てくるモーツァルトの「ドン・ジョバンニ」に関する叙述からきている。キルケゴールを通したモーツァルトの「ドン・ジョバンニ」というのは、推測するにバタイユ、マソン、クロソウスキーらの間に共通する関心だったのだろう。バタイユについて言えば、戦後になるが彼は、「ニーチェと禁制の侵犯」(51年に初稿が書かれている『至高性』所収)のなかで、「ニーチェとドン・ジュアン」という一節をもうけて、同じ問題を取り上げている。
 ではドン・ジュアンとは誰だったのか。この点では、クロソウスキーとバタイユは、書かれた時期の違いもあるが、かなりの差異を示している。クロソウスキーによれば、ニーチェにとってのディオニュソスが、キルケゴールにとってのドン・ジュアンであった。〈ドン・ジュアンは、彼にとって基本的で形をとらない力のことであり、この力はその動きのさなか、対象に出会い、接触することで個体化しようとするその点でたまたませき止められるのだが、そのとき再び最初の非形態的な動きのなかに立ち戻り、その際限のないリズムを取り戻すのである〉。一方、戦後のバタイユの論旨によれば、ドン・ジュアンによる禁制の侵犯は、まだ理性の力によるものなのだ。〈ニーチェにとっては道徳的要請が内側からの自己主張をやめることはなく、ニーチェはドン・ジュアンのように、理性の過誤を頼みとすることができなかったのである〉。こうしてバタイユはキルケゴールよりもいっそうニーチェに近づくが、いずれにせよ、これらの解釈のなかにあるのは、明らかにニーチェ的な視点を基準に置く立場である。

 私たちの関心をもっとも強く引くのは、次の第2号である。なぜならこの号は「ニーチェ復元」の特集名を持ち、バタイユの「ニーチェとファシストたち」をはじめとして、多数のニーチェ論を集めているからである。構成を簡単にみてみると、マソンのデッサンを別にして、バタイユの右記の論文が冒頭にあって、量的には全体の半分近くを占めており、続いてヘラクレイトスに関するニーチェの未訳の断章が翻訳紹介され、再びバタイユが、ファシスムと神の死という二つのテーマに関して行った「提案」と題する短いが重要な文章が置かれている。この文章の背後にいるのも、明らかにニーチェである。
 続いてヴァールの「ニーチェと神の死(ヤスパースのニーチェ論についての覚え書)」、ロランの「人間の実現」、クロソウスキーの「世界の創造」がある。ヴァールのものはもちろん直接ニーチェに関わるものだが、ロランのものはニーチェの名が現れるがニーチェを正面から扱ったものではない。クロソウスキーのものは特にニーチェを主題にしたものではない。いずれも3ページ以下の、バタイユの論文に比べれば短いものである。そのほかにこの号では書評の欄があり、先にヴァールが取り上げたヤスパースのニーチェ論を、今度はバタイユが取り上げ、もう一つでは、クロソウスキーがさらにその前年の38年に出たレーヴィットのニーチェ論を取り上げている。
「ニーチェとファシストたち」に表されるバタイユのニーチェ理解は、直接にはこのような文脈のうちにある。そのなかでまず取り上げたいのはヴァールの論文である。ジャン・ヴァールは一八八八年生まれで、バタイユより八歳年長で、一九七四年に死んでいる。専門的な哲学者であって、戦後はソルボンヌで教えている。最初英米哲学の紹介者として活動するが、二〇年代後半からドイツ哲学に関心を移す。29年に『ヘーゲル哲学における意識の不幸』、38年に『キルケゴール研究』の著書がある。「アセファル」にキルケゴールを持ち込んだのは彼だったのだろうか。彼はイポリットとならんでフランスにおけるヘーゲル研究の最初の世代である。ただしイポリット、ヴァールともコジェーヴの講義には出ていない。「哲学研究」グループの創設者でもあり、このころNRF誌の外国思想および文学の紹介の欄を担当していて、ニーチェに関する書物をいくつか取り上げている。
「アセファル」でのヴァールの論文は、ベルリンで出たばかりのヤスパースのニーチェ論に関する覚え書という体裁をとっているが、それに触れる前にもう一つの書物に触れておかなくてはならない。それはシャルル・アンドラーの『ニーチェの生涯と思想』と題された本である。アンドラー(一八六六―一九三三)はフランスのゲルマニストで、ビスマルクやマルクス、エンゲルスに関する著作があるが、全六巻となる大部のニーチェ論をも著している。ヴァールはこの書の最終の第6巻が出たとき、NRFで取り上げているが、書評としての性格からか、内容を紹介して文体に敬意を表することで終わっている。他方バタイユは、「アセファル」のこの号の書評で、この書が〈今日までのところニーチェの生涯と思想を総体的に表す唯一の本〉であることを認めながらも、〈彼の解釈はプロフェッサーのものであって、危険に満ちた哲学的な苦悩にむかうよりも、文学史の静的な報告にむかう趣を持っている〉と批判している。そのような不満があったとき、ヤスパースのニーチェ論は、すくなくともバタイユには大きな刺激を与えるものであったようだ。

(この項続く)



Booby Trap No. 11



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バタイユ・ノート2
バタイユはニーチェをどう読んだか 連載第5回

吉田裕



4 雑誌「アセファル」のなかのニーチェ(その2)

 前回に続いて、雑誌「アセファル」の第2号でニーチェの姿が、どのようにあらわれているかを検討する。全体的にいって、この号は、さまざまのニーチェ理解のしかたを同人たちが合同で検討するというような体をとっている。さまざまのと言っても、実際は次に上げる二つだが、その背後には前回言及した、当時唯一の総合的資料であったアンドラーの著作、またファシスム的な理解の仕方も含めて、多様なニーチェの読み方に関する議論があったに違いない。ただ表にあらわれるのは、前述の35年のレーヴィットの『ニーチェの哲学』と36年のヤスパースの『ニーチェ』の二つで(前者は岩波書店、後者は理想社の邦訳題名による)、前者についてはクロソウスキーが、後者についてはヴァールとバタイユが論文あるいは書評を担当している。これらを私たちは、ヤスパースのニーチェ理解に対するバタイユの反応にたどり着くようにと読んでいくことになるだろう。なぜなら、バタイユのニーチェ理解にとって、ヤスパースの著作が少なからざる意味あいを持ったことは、明らかであるからだ。
 レーヴィットの『ニーチェの哲学』を取り上げたクロソウスキーの書評は、二段組みで4ページ近く、バタイユのものの倍近くの量があり、かなり本格的なものである。クロソウスキーは、レーヴィットがニーチェをキリスト教的な「おまえはそれをしなければならない」からニヒリスムの「わたしはそれを欲する」へ、さらに超人の「わたしは存在する」へという三つの段階に見ていることをたどりながら、その結果としてある「永劫回帰」をもっともよく表すところの「力への意志」が、一般にほとんど誤解されていることを指摘している。この箇所には別にファシスムの名は現れていないが、それが、バタイユにおいてはファシスム的なニーチェ理解に対する批判が主に「力への意志」の解釈にかかわるかたちで行われていたことと通底するのを見ることは決して無理ではないだろう。クロソウスキーは、レーヴィットの理解がいくらか病理学的、また概念的な解釈に傾く傾向があることを指摘し、キルケゴール、マルクスとニーチェを並べ、彼らの仕事は共通して失われた世界を回復することだったと言っている。バタイユの「ニーチェとファシストたち」の第13節にも同じ趣旨があらわれるが、そのうえでクロソウスキーは、これは彼自身の考えだろうが、ニーチェに関して次のように述べる。〈ニーチェが告知するところのヨーロッパの闘争、彼が予言する戦いは、意識の戦い、宗教の戦い、精神的な戦いとして理解すべきである。これらの戦いが、大いなる政治の時代を満たしている〉。ここには失われた古代世界への回帰と合わせて、ニーチェを宗教的、とりわけ神秘主義的に読もうとする傾向が色濃くあらわれているのを見ることができる。これもまたバタイユと照応するところであろう。
 他方ヴァールの「ヤスパースの『ニーチェ』に関するノート」という副題のついた「ニーチェあるいは神の死」は、論文として扱われているが、クロソウスキーのものと比べると量は半分以下のもので、しかも「1」と番号が付されているものの、少なくとも「アセファル」の以下の号には続編はあらわれてこない未完のものである。ヴァールがヤスパースから取り出すのは、内在性と超越性(immanence:transcendance)の対立のシェーマである。ヤスパースによれば、ニーチェの哲学のエッセンスは、世界を純粋な内在性として肯定したところにある、とヴァールは言う。内在性とは、それぞれのものに固有の価値を認めることであり、外側にそれを越えるものを想定して、そこに価値の基準をおくのを拒否することだ。〈この世界そのものが存在なのだ〉とヴァールは述べる。反対に外側の最たるものが神である。したがって内在性を貫くことで神は否定されることになる。この内在性と超越性の対立のシェーマは、バタイユの理解に対しても大きな影響を及ぼすことになる。たとえば彼のニーチェ理解の主著である『ニーチェ論』のその序文中で、このシェーマは手中をなしている。しかしながらこの二項対立は、単純にどちらかに加担することで終わるというわけにはいかないことをヴァールは見て取っている。いま見たように〈神の否定は存在との真正の関係であ〉り、したがって、キルケゴールの信仰が懐疑する信仰であったように、ニーチェの神の否定はまた、神的なものの探求となる。〈ニーチェは神の死を求めると同時に神を求める。そして彼においては、神の不在を考えることは、神を創造する本能を消去することではない。これがヤスパースの言う「実存的無神状態(existenzielle Gottlosigkeit)」なのだ〉。ここでもまたニーチェを単なる無神論者ではなく、神が不在となったところでの神的な経験の新たなかたちの探求者と見ようとする傾向が顔をのぞかせている。
 ではバタイユの場合はどうなのか。「アセファル」のこの号での書評はさして長いものではなく、しかもその半分はヤスパースからの引用で埋められているが、そこでヤスパースから引き出されていることは、ほとんどバタイユの言と見まがうばかりである。これはたまたまバタイユにヤスパースと共通するところが多くあったということだろうか? それとも前者が後者から大きな影響を受けたということだろうか? バタイユはまず、ヤスパースがニーチェを概念に固定してとらえようとはしていないことに共感を持つ。ニーチェは矛盾に満ちているが、それは概念間の矛盾ではなく、すべてが生成の途上にあって、どんなものも完成したものとしては与えられていないところから来ているためである。その上でバタイユは、ヤスパースが、この変転きわまりないニーチェが政治に接触するところに視線を移す場面をとらえる。この関心の重なり方は、少なくともわたしにはきわめて興味深いところである。バタイユはヤスパースの次のような部分を引用している。
 〈ニーチェは政治的な出来事がどのようにして始まるかを明らかにする。ただし、政治的行動の場たる個別の具体的な現実に方法を持って介入するということはしない。……彼は人間の存在の最終的な基礎(最後の動機)を揺り動かすような運動を作りだし、そして彼のいうところを聴き理解する人々が、彼の思考によってこの運動のなかへ入り込むようにする。ただし、この運動の内実が、国家的であれ、人民的であれ(ボルシェヴィッキ的な意味で)、またそのほかどんなに社会的なものであれ、あらかじめ限定を受けることなしに、である〉
 この一節は、バタイユにとって示唆するところの多いものだったに違いない。このようなヤスパースの解釈について、彼は〈ニーチェをファシスト的な解釈から分かつ距離を、ほかのどんな考察よりもよりよく示すもの〉と評しているからである。
 ところでニーチェの読み方に関してヤスパースがバタイユに及ぼした影響は、この書評のなかにあらわれたものだけに限られるのではない。バタイユがヤスパースから得たものは、狭義のニーチェ解釈に限られず、非知non-savoirというバタイユの中枢をなす表現がおそらくヤスパースのNichtwissenから来ているように(酒井健氏の「フランス文学研究54号」の「バタイユとニーチェ」による)、また内在性・超越性のシェーマがほかのところでも見られるように、彼の思考の根本にかかわる。補足しておくと、バタイユにおいてヤスパースの名が再度あらわれるのは、50年11月の「クリチック」に発表され、『至高性』に収録されることになる(周知のようにこの本は彼の生前には刊行されない)「ニーチェとイエス」においてである。そこでバタイユはニーチェのキリスト教に対する態度を、ジッドとヤスパースの二人の思想家の読み方を通して考察するのだが、ヤスパースに充当された量は少なく、また今度は批判がかなり強くなっている。ただ「アセファル」におけるニーチェの像を対象とするという現在の設定からははずれるので、ここではこのような論文があるのを指摘するにとどめる。

 第2号から半年後に3・4合併号が、「ディオニュソス」の特集名で刊行される。特集に合致する企画は三つある。ひとつは「ディオニュソス」の表題のもとに、このギリシア心に関する短い断章を、十二ほど集めたものである。ほかに論文としては、モヌロの「哲学者ディオニュソス」とカイヨワの「ディオニュソス的徳性」がある。前者は比較的長いが、後者は見開き2ページのものである。また前回の「ニーチェとファシストたち」の続編であるバタイユの「ニーチェ・クロニック」がある。この中には「ニーチェ・ディオニュソス」と題された一節があるが、それによって、この続編は特集に連なっているに違いない。ほかに前回触れたクロソウスキーの「キルケゴールのドン・ジュアン」にも、ニーチェにとってのディオニュソスがキルケゴールにとってのドン・ジュアンであったというふうに、ディオニュソスと結びついており、さらに社会学研究会の発足宣言がある。ここではまずディオニュソスの名が意味するところを取り出すことを試みる。
断章を集めた「ディオニュソス」は二つの部分に分かれていて、最初のグループはオットーの著書『ディオニュソス』からの引用で、ディオニュソスそのものに関するものであり、もう一つのグループはニーチェとディオニュソスの重なりに関するところのニーチェ自身の著作、またレーヴィット、ヤスパースらからの引用である。補足するとオットーとはドイツの宗教学者であって、一九一七年のその著書『聖なるもの』は、聖なるものという考えが初めて打ち出された記念すべき著作である。岩波文庫に邦訳があるが、読んでみると、バタイユがそこから多くを学んでいることがわかる。このオットーはディオニュソスのことを〈恍惚と恐怖の神〉と言っている。またニーチェの『力への意志』からの引用によれば、ディオニュソス的宇宙とは〈それ自身で永遠に産み出されては破壊される〉宇宙である。だからディオニュソスへの注目とは、永劫回帰そのほかの概念を、それらがどれほど重要であれ、概念として検討するのではなく、運動そのものとして経験することの方へ接近していったことの徴であろう。
 モヌロの「哲学者ディオニュソス」は、モヌロにとっては「アセファル」に掲載した唯一の論文であるが、ここでもドン・ジュアンの名が大きな場所を占めていて、〈ドン・ジュアンが暴力によって、術策によって、またすべてに抗して獲得しようとしたのはディオニュソス的状態である〉と彼は述べる。この間神は前回触れたクロソウスキーの場合と共通であって、キルケゴールにとってのドン・ジュアンとはニーチェにとってのディオニュソスだったという類推によっている。
 カイヨワの短い論文も、ディオニュソスを陶酔の力だと見るところでは共通している。しかしながらこの論文において注目すべきなのは、この陶酔が、単に哲学的あるいは個人的な問題としてではなく、社会的実践的な問題へと拡大された視野のなかでとらえられていることである。〈ディオニュソス主義の本質的な価値は……人間存在を社会化しつつ結びつけるところにある〉と彼は言う。しかしこの社会化は、地域的、民族的、また言語的な共通性によるものではなく、情念的な昂揚によって結ばれる共同性に根拠をおくものであって、カイヨワはそれを超社会化(sursocialesation)という表現で表している。そして興味深いのは、通常の社会を変えていくこの異質な力のよってくるところを、都市に対する地方、貴族有産階級に対する無産民衆のありように求めたあと、次のように言うにいたることである。〈かくも恩寵を失って周縁にあったものが、秩序を作りだし、いわば結節点となる。反社会的なもの(そう見える)が集団的なエネルギーをかき集め、結晶させ、蜂起させ、――そして超社会化する力となって姿を現す〉。ここであげられている周縁の人々あるいは反社会的なものの上に、当時ついに権力を握るにいたったファシスムの姿が二重写しになっているのを見ることは、それほど不自然ではあるまい。ニーチェをディオニュソスのイメージへと読み込んでいくことは、ニーチェ的なものを社会的な動きに重ねることに連なっていく。カイヨワの論文のあとの余白に、来るべき社会学研究会の設立宣言がおかれていることも示唆的ではある。この拡大はたしかにバタイユに影響を及ぼしたに違いない。だがバタイユが「ニーチェとファシストたち」の第15節で同じ問題に接近し、ニーチェ的ディオニュソス主義とファシスムの混同を「不吉な混同」と言っていることを忘れてはならない。

(この項続く)



Booby Trap No. 12



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バタイユ・ノート2
バタイユはニーチェをどう読んだか 連載第6回

吉田裕



4 雑誌「アセファル」のなかのニーチェ(その3)

 今回は「アセファル」最後の第5号を取り上げる。第5号は前号からほぼ2年の間をおいており、その間の37年1月にはロールことコレット・ペニョーの死があり、また戦争の切迫を予感して、死が深く影を落としていることは、一読して読みとることができる。また判型も活字も小さくなっている。この号は「狂気・戦争・死」の特集名を持ち、「ニーチェの狂気」「切迫する戦争」「死を前にしての歓喜の実践」という短い三つの文章から構成されているが、それぞれは特集名の三つの観念に対応している。ただし前述のように、この三つの文章の著者は、発行時には無署名だが、実際はすべてバタイユである。二年を経て「アセファル」という場所に残ったのは、バタイユ一人であった。したがってこれら三つの文章は、いままでよりももっと緊密に、つまりトライアングルのように常に他の二つと結びつけて読まれなければならないだろう。そして当然と言うべきか、この号を貫いている原理もまたニーチェである。冒頭の「ニーチェの狂気」には、20行ばかりのエピグラフがつけられているが、そこでは、倒れた馬の首に抱きついて正気を失い、気を取り直したときには、自分をディオニュソス、あるは十字架にかけられたイエスだと確信するにいたったというニーチェの最初の発狂のことが述べられている。この事件は実は1889年1月3日のトリノでの出来事であって、「アセファル」第5号は、この出来事の五〇周年を記憶するためのものだった。
 バタイユはこの短い文章のなかに、『ツァラツストラ』から〈生きようとするものが自らの支配者となるとき、彼は自らの権威をあがない、自らの法による裁き手、復讐者、そして犠牲者とならなければならない〉という一節を引用している。生きるということにおいて、その人間が同時に裁き手、復讐者、犠牲とならねばならないということは、彼の生きるという行為がほかのなにものにも依拠しない絶対的なものになろうとしていることを意味するが、このような一節を書き記しているということは、バタイユ自身の生が、このような場所に追いつめられつつあったということを示している。ところでこのニーチェの一節は、バタイユが『内的体験』のなかで語っているブランショの言葉と直結しているように思える。バタイユが、内的体験を追求するとき、目的や権威等のものに対する配慮をひとつひとつ排除しながらも、ひとつの空虚だけは相変わらず残ってしまうという不満を訴えたとき、ブランショは目的や権威は推論的思考の要求するものにすぎず、内的体験はそれ自身で権威でありうる、しかしこの権威は罪あるものであって、その罪を自らあがなわなければならない、と答えて、内的体験には特異な根拠のあることを示し、大きな示唆を与えたという。バタイユがブランショと出会うのは41年頃、右の一節が含まれる「刑苦」が書かれるのはこの年の9月から10月のことであるらしいが、実際にはバタイユは、同じような意味の言葉を39年に見つけだしていると言えるし、また逆に彼やブランショが占領下で見ていたのは同じニーチェ的な経験であったとも言える。
 このエピグラフのあとには、二部構成の短い本文がくる。いずれも断章形式で書かれているが、第1部のほうには39年1月3日という日付が記入されている。いうまでもなくこれはニーチェ発狂五〇周年の日付である。この短い文章は印象の強いものだが、それはここに神秘的ニーチェの姿が否応なしに現れてくるように見えるからである。このノートの最初にバタイユのニーチェ像には、戦略的実践的ニーチェと神秘的ニーチェの二つがあるといったが、「アセファル」5号では、ニーチェの姿は前者から後者へと旋回し移行していくように思われる。この変容は狂気への関心によって媒介されている。狂気とは、後にバタイユが内的なと呼ぶことになる体験、先ほどのニーチェやブランショの言葉によって表されるような経験のことだが、それ自身だけですべてを根拠づけることを求めるような試みであって、そのような試みは、他者から見たとき理解のきっかけを与えないから、狂気と呼ばれる。しかしながら、バタイユの取り上げる狂気のなかには、彼のみが明らかにしえた、特異な姿があらわれる。つまり彼の「狂気」は、ほかのどの場合よりも徹底して他者と現実に依存するのを拒否するものでありながら、同時に他者と現実をいっそう深く遠く関係づけるものとして実行されるのである。この結果、移行は単に別のものに移り変わるというのではなく、両者をともに保持するようなかたちで、つまりバタイユにおいてはファシスム批判的な実践的な姿と内的体験という神秘的な姿を直結して保持するようなかたちで行われる。レイモン・クノーは、39年頃のバタイユについて、〈きわめて懐疑的。民主主義勢力をまったく「擁護」しない。彼はもはや政治とはいかなる関係を持とうとも思っていない〉という観察を残しているが、それでもバタイユが、必ずしも「政治的」であるばかりではない現実的なものとの関係を持ち続ける回路を探っていたことは明らかだとわたしには思われる。
 バタイユはこの回路の探求をまず、ニーチェの狂気がほかの狂気の場合と異なっていることを明らかにすることからはじめる。〈狂人たちの逸脱ぶりは、分類され、単調に反復されるので非常に退屈なものとなる。痴呆者たちに魅惑がほとんどないことは、論理のまじめさと過酷さをあかし立てることになる。だが哲学者というものはたぶん、その言説において、異常者たちよりももっと不実な「うつろな空を映し出す鏡」なのであって、この場合にはすべては破裂しなければならないのではないだろうか?〉。
 ついで、論理の果てに見いだされた狂気としての哲学者は、次のような様態を持つことになる。〈哲学者は人間の総体から独立して存在することはない。この総体は互いに引き裂きあう何人かの哲学者と群衆からできている。この群衆は、無気力状態であれ、興奮状態であれ、哲学者たちのことは知らずにいるのだが〉。しかし哲学者の側からは、この「総体」はいつも拒否し得ない課題としてあるのだ。そして哲学を通じて狂気のまぎわでおびただしい発汗を経験する者は、総体とのこの絆のおかげで、「歴史」にうちあたることになる。〈この地点において、冷たい汗を流す者たちは、歴史を眺める者たちに「闇のなかで」うちあたる。後者は変転する歴史が人間の生の意味を明らかにするのを見ているのである。なぜなら、群衆は互いに殺戮しあいつつ、歴史をとおして、両立しがたい諸哲学に結末――虐殺という対話の形態のもとに――をつけるというのは本当のことであるからだ〉。
 バタイユはここで、変転する歴史に追われ、歴史からくる意味付けを拒否することにまで追いつめられながら、それを哲学を検証する機会としてとらえ返そうとしている。ここで哲学と呼ばれているものは、次第に観念、思考、そして経験へと読み替えられていくのだが(それは第2部で、表現することや芸術また文学の持つ欺瞞に対する激しい批判として行われる)、この「哲学」が、不思議なやり方でいっそう深く回復される「総体」あるいは「歴史」との緊張した関わりのなかで検証されるという構図は、戦争を含む以後の期間を通じて不変となるだろう。
 では歴史のなかで検証される思考あるいは体験のなかからは何があらわれるのか。これも原理的にはすでに明らかであって、「死」というのがその答えである。〈歴史の完了と戦闘の彼方には、死以外の何があろう?〉とバタイユは反問しているが、「アセファル」第5号では、この問は「切迫する戦争」と「死を前にしての歓喜の実践」という二つの文章に受け渡される。いうまでもなく変転する歴史に相当するのが「戦争」であり、死の経験に相当するのが「歓喜の実践」である。

「切迫する戦争」は、三つの文章のうちもっとも短いもので、六つの断章からなっている。これらのなかでバタイユは闘争(この場合は反ファシスム闘争であり、ファシスムといわゆるデモクラシーに対する反感がはっきりと名を挙げて言明される)と生の同一視、文学的な遁辞への嫌悪を語っているのは前と共通するが、とりわけ目につくのは、総体あるいは共同性を強調する部分のあることだ。第3節で彼は次のようにいっている。〈人間の運命の果てまで行こうとするならば、単独のままでいることは不可能であって、本物の「教会」をつくらなければならない〉。この共同性は霊的な力を基盤とするために教会と表現されているが、共同的なものの不可欠が述べられていることには変わりがない。そして最後の第5節で彼は、この共同性が現今の状況においては政治的なものとしてあることをはっきりと述べる。〈あまたの人々が意味を奪われつつ地獄へと下っていくのを見たいならば、政治的な諸結果から切りはなされては不可能である〉。ここでもバタイユが、狂気を媒介にした絶対的な経験と現実の実践の間のさらに引き裂かれつつあった距離を、懸命に保持しようとしていたことが見えてくる。

「死を前にしての歓喜の実践」は、実は68年つまり五月革命の年に、詩人のベルナール・ノエルによって、今度はバタイユの名を出して刊行されたことがある。この文章は二つの部分に分かれているが、主要部たる後半は、理論的な叙述ではなく、どうやら実際に「歓喜」を経験するための手引きのようなものであるらしく、反復の多い祈祷文のような文体で書かれている。前半部はそれに対する序文である。エピグラフにはニーチェの一節が引用され、本文中の多くの引用も、すべてを確認しえたわけではないが、ほぼニーチェからのものらしい。冒頭でバタイユは、完了という言葉を数回使っているが、それは歴史の完了のことであって、無用性として追求される経験の条件を確認するためである。これを前提として、この文章の視点は、とりあえず「切迫する戦争」の反対側、それ自体としての権威を持とうとする経験の側に振り向けられる。そしてそれが宗教上の神秘体験と共通することが述べられる。〈「死を前にしての歓喜」という主題について、「神秘的」という言葉を使用する余地がある〉。彼が自分の経験について、神秘的という表現を使いはじめるのはこのあたりからである。同時に彼は「内的」という言葉も使いはじめる。彼は「歓喜」に触れるために、眼前の一点を凝視することから開始する。彼はこの一点を彼の全存在を集約する点とみなし、そこに苦悩、欲望、死等あらゆるものを集中する。するとこの集中によってそこに、〈純粋は暴力性、内部性、無限の深みへの純粋で内的な墜落〉が生じる。このエクスターズ(自己からの脱却)によって、恐怖と同時に「歓喜」を経験しうる、と言うのである。
 しかしながら、私にいちばん興味深いのは、神秘的あるいは内的といわれるようになったこの「歓喜」の経験が、現実との緊張した関係のうちに保持されていることである。そのことはまずキリスト教批判のうちにうかがわれる。〈その「死を前にしての歓喜」が内的な暴力になるような人間の持つ神秘的な存在性は、どうみても、それ自身で満足してしまうような至福、――永遠を前もって味見するキリスト教徒の至福と比べられるような――というものと合致することはできない〉。これは現実に目をつぶり、脱出して、彼岸のみを得ようとすることへの批判である。この批判はもっと一般的にされる。彼は「彼方」へと超越することをはっきりと拒否する。〈どうしてそのうえ「彼方」なるものが、またどうして「神」や、何であれ「神」に似たものがまだ受け入れられるということなどがあるだろう? 「彼自身を殺害する時間と舞踏する」人間が、永遠の至福を待ち望むことのうち逃げ込んでしまうような者たちに対して持つ幸福な侮蔑を表すには、どんな言葉も十分に明瞭ではないのだ〉。
 この考えは、本文たる後半にはっきりと反映している。後半部は6つの節から成っているが、その中心をなしているのは次の二つの文である。ひとつは第2、3節と二度繰り返される〈私は死を前にしての歓喜である〉という一文、もう一つはこれだけは「ヘラクレイトス的省察」という小題を付された最終第6節冒頭の〈私は私自身戦争である〉という一文である。後者が「アセファル」の創刊宣言的な文章中の、〈われわれが企てるのは戦争である〉にこだまを返していることは前に言ったが、このこだまを背後に起きながら「実践」のなかの二つの文は、明らかに対をなしている。二つを合わせれば、「私」は同時に、死の前の歓喜、また戦争であり、逆に見れば、死の前の歓喜と戦争は、「私」を媒介とし、「私」の内部において同一なのだ。これが戦争を目前にして獲得されたバタイユの存在の様態だったといえよう。

(「アセファル」に関する項終り)



Booby Trap No. 13



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バタイユ・ノート2
バタイユはニーチェをどう読んだか 連載第7回

吉田裕



5 過剰から神秘へ・ニーチェを照らし出すものとしての社会科学研究会
 雑誌「アセファル」のなかでニーチェが非常に大きな役割を果たしたことを、数回にわたって読んできたが、今回は社会科学研究会のなかで、またそこで活動するバタイユのなかで、ニーチェがどのような意味を持ったかをみることにしたい。とはいえ、この時期のバタイユの活動をとらえるのに、「アセファル」に触れ、次いで社会科学研究会というやり方でとらえようとすることについては、いくつかの点で注意が必要である。というのは、バタイユ自身が「自伝ノート」のなかで言っているのだが、社会科学研究会の活動は、結社としての「アセファル」のもう一つの外部活動機関として想定されていたからである。だから結社「アセファル」、雑誌「アセファル」それに社会科学研究会の三つの活動は、互いに強く結ばれており、かなりの部分で重なりあっている。前回に見たように、社会科学研究会の設立広告は、「アセファル」の3・4合併号に掲載されていた。時間的な面から言えば、この設立宣言が出されるのは37年7月であり、その実践としての講演会活動が行われたのは、37年11月から39年7月までであって、「アセファル」の最終号である第5号の刊行は39年6月であるから、社会科学研究会の活動は、「アセファル」にほぼ重なっていることになる。結社「アセファル」も、ロールの死を経た後も、39年まで持続していたようだ。だからこの時期の彼の活動を、簡単に「アセファル」(結社と雑誌の二つの意味で)から社会科学研究会へという言い方をするわけにはいかないのだ。バタイユはこれら三つの活動を、一貫したものととらえていた。ただ実際には、それぞれ性格が違うこともあって、参加者は必ずしも同じではなかったし、また結社と雑誌の「アセファル」についてはバタイユがリーダーシップを持っていたものの、社会科学研究会に関しては中心人物はカイヨワだと見られていたようだ。38年7月にNRF誌にバタイユ、レリス、カイヨワの3人の論文が発表されたとき、問題にされたのはほとんどカイヨワの「冬の風」だけだったらしい。共同体の今日的な可能性を探ることをうたったこの論文には、右翼からの反応もあったとのことである。
 社会科学研究会の活動は講演が主であったから、資料らしいものは元々少なく、さらに散逸していたが、77年にオリエによって収集がなされ、かなりよくわかるようになった(邦訳『聖社会学』工作舎。現在ではさらに増補版が準備されているらしい)。しかしそれをニーチェという関心から読んでみると、意外にニーチェに対する言及が少ないことに気がつく。ニーチェを主題にした講演は行われていない。バタイユもそのような講演を行ってはいない。資料が残っている講演のなかでニーチェの影響がもっとも明らかなのは、39年1月のガスタラの「文学の誕生」であろう。「悲劇の誕生」を思わせる題は、たしかにそれを文学に応用したことを思わせるが、論旨は意外に平凡で、編者のオリエは、この講演についてクノーが「ニーチェ以来誰でも言うような常套句の域を出ていない」と評したことを明らかにしているが、たぶんその通りだろう。そのほかのところでは、ニーチェの名は散見される程度である。比較的かたちを保ったまま残っているバタイユの講演のなかで、いくらか目に付くのは、最初の講演会である37年11月に彼が行った「聖社会学および『社会』『有機体』『存在』相互の関係」のなかで、〈ニーチェは無機物質に知覚が存在し、したがって意識が存在すると考えていた〉と書いている部分である。彼は自分もものごとを同じように見る傾向があり、そのようなニーチェの文章を非常に興味深く読んだと述べているが、これは無機物質も含めて世界を意識の作用を媒介として総体的な交感状態におこうとするためだったのだろうか。もっともそのあとに、ニーチェもその当時この問題に深くはかかわらなかったと述べているから、この言及もさしたる重要性を持っているわけではないようだ。
 だからこの時期のバタイユのニーチェ像を見るためには、社会科学研究会ではなく、雑誌「アセファル」が適当だと言うことになるだろう。しかしながら、社会科学研究会に仮にニーチェに関する直接の言及が少ないとしても、それがバタイユのニーチェ理解について知るために益するところがないと言うことはできない。なぜなら、雑誌「アセファル」でニーチェの影はすでに大きいが、その3・4合併号から5号にかけて度合いを急速に高めていくニーチェの神秘主義的解釈の傾向は、刊行期間が長いこともあって、必ずしも「アセファル」だけからは読みとりにくいのだが、社会科学研究会の活動は、背後からこの部分を照明してくれるように見えるからである。

 社会科学研究会の記録を通読して、いちばん印象的なのは共同体に対する強い関心であろう。共同体に関する関心があったればこそ、社会学を表題とする活動を組織したのだから、それは当然だとは言えるし、またバタイユには社会学に対する関心がずっと以前からあって、それがここで実践的活動を行わしめるほどの力を持つようになったとも言えるが、それでもここではもっと根本的に、なぜバタイユが共同体や社会に対して持つ関心がこれほど強いものになったかを考える必要があるだろう。補足しておくなら、共同性への関心は、結社「アセファル」やこの社会科学研究会を別にしても、またもう一つある。それは37年4月の「集団心理学会」の設立のことである。会長にピエール・ジャネという高名な心理学者をいだき、バタイユは副会長に名を連ねている。これもまた今のところ、ほとんど名前だけが伝えられているものの資料のない、あるいは本当に名前だけで終わって実質がほとんどなかったかもしれない、ある点ではいかにもバタイユ的な活動のひとつではあるが、それは少なくとも、名称が示しているように、集団すなわち共同性に対する関心を表したものではあったはずだ。
 集団、共同体、あるいは社会と呼ばれるものに対するこれほどの関心はなぜなのか。それは共同性が、神秘と表裏一体の関係にあったからである。共同性と神秘経験が結びつくことは、現在の水準ではわかりやすくはないだろう。共同体とはとりあえず社会のことだとすると、現在の通念からすれば、社会とは複数の個体の集合であり、この結合は合理的であるべきであり、そのような場合神秘経験は社会に対立するからだ。けれども神秘と共同性は、本当はひとつのものの表と裏であることを、バタイユは社会学あるいは精神分析学を引用しながら主張する。社会は単に個体の集合ではない。個体が集まって社会を作るとき、そしてそれが単なる集合ではなく有機的に結合するとき、そこには個体の和以上のものがあらわれる。その時この集団は共同体と呼ばれることになる。
 ではこの和以上の部分はなにか? それは文字どおり過剰なものである。この過剰さは、過剰さであるからには、共同体内部では解消されえない。するとそれは犯罪、破壊、暴力等共同体を脅かすものとして現れ、共同体を動揺させるのだが、共同体は逆にこの動揺を、共同体の本質としての過剰なものを確認する機会として利用し、自己を共同体として確立するのである(たとえばフロイトによれば兄弟による父親殺しがあり、またバタイユは、イエスの処刑によってキリスト教団が成立するとみている)。ただしこの時、共同体確立の根拠となった犯罪、破壊、暴力そのほかは、共同体を揺さぶるものでもあるために、隠蔽される。するとこの隠蔽によって犯罪そのほかは、触れてはならぬものとして聖なるもの、神秘的なものという性格を帯びることになる。
 バタイユとその友人たちは、社会科学研究会の活動のなかで、社会や共同体の結束点である聖なるものの探求をおこない、それは同時に新たな共同性はどのように可能であるのかの探求でもあったが、それは反対側では、共同体の結節点となるべき神秘的な体験の可能性を探し求めることであった。
 バタイユに限って言えば、この関心はもちろんそのとき急に始まったものではない。共同体が生じさせる和以上のものは、「消費の概念」以降、彼がまさしく過剰という名で惹かれ続けてきたものであったからだ。そしてこの過剰分を放出するための非生産的消費は、贈与、性愛、戦争であったが、これらが聖なるもの、神秘的なものとほぼ同一であることは、容易に理解される。しかしながら、この部分には階梯を想定し他方が問題ははっきりするだろう。つまり過剰はさらにその性格を強化して、神秘となって現れることになる。この時期のバタイユは神秘的なものへの傾斜を急激に強めていった。そのことは、いくつかの面で観察できる。先に言っておけば、神話と神話的なものへの関心はこの時代に顕著に現れていた。オリエは、神話は時代の流行だったと言っている。彼の盟友であったカイヨワが38年に「神話と人間」、39年に「人間と聖なるもの」を出し、レヴィ=ブリュルに「原始神話学」35年、「原始人における神秘体験と象徴」38年があった。ほかにナチスムに近いところで、ローゼンベルク「二〇世紀の神話」がある。
 バタイユもこのような著作と時代を共有している。彼においてこの傾向は、まず神秘経験を持った人物への関心となって反映する。彼がフォリニョの聖アンジェラやアヴィラの聖テレジアをはじめとするキリスト教の聖女たちへの関心を深めていくのはこのころからである。シュリヤによれば、バタイユの最初の神秘主義的テキストは、「死を前にしての歓喜の実践」だということだが、これは前述のように、「アセファル」第5号の「ニーチェの狂気」の特集号にでたもので、39年のことである。同じ関心がニーチェを眺める視野のうちにも侵入し、その結果としてニーチェの像を変え、神秘主義的解釈が始められたように思われる。だが彼の神秘化の傾向は、他と比べてさらに過激だったらしい。レリスは社会科学研究会の発足当時から批判的だったが、カイヨワでさえも次第に批判に転じるようになり、それが結局は社会科学研究会を崩壊させることになる。
 しかし今はバタイユの軌跡を追うことにしよう。このように「過剰」が「神秘」へと読み変えられていったとき、他方それと相関関係にあった「共同体」も変化を起こさざるを得ない。突飛な言い方に聞こえるかもしれないが、共同体が変化していった先は「戦争」であると言えるように私には思われる。過剰はあまりにも過剰なものとなり、共同体の秩序のなかに回収され得なくなる。そこで引き起こされる戦争とは、有機的な組織としての共同体の共同性、つまり人間と人間を結びつけ対立させる力がもっともむき出しにされた状態ではないのか。戦争とは共同体の本質が露呈される瞬間なのだ。
 彼は〈戦争と供犠の儀礼と神秘的生活には等価性がある〉と言っている(「有用性の限界」)。これは文字どおり、神秘と戦争の同一性を言っている。さらにバタイユが男女の性愛をしばしば供犠のイメージで語っていることを思い出せば、この同一性のなかにさらにエロチスムの問題を重ね合わせることができるだろう。事実バタイユは、社会科学研究会の最後の講演で、おそらくは不特定多数を相手にする講演という性格のために押し隠していた性愛に関する考えを、あたかもそれが最後の講演になることを知悉しているかのようにあからさまにし、性愛が共同体の擾乱に繋がっていくことを明言する。〈彼らは抱擁のなかで出会う共通存在を越えて、激しい消費のうちに見境のない無化を要求するのです。その消費のなかでは、新たな対象、つまり一人の新たな女あるいは男の所有も、さらにいっそう破壊的な消費のための口実にすぎません。………こんなふうに彼らは徐々に、自分たちの供犠への熱狂を伝染させ広めるという欲望にとりつかれてゆきます〉。ニーチェの像をめぐってなされたその神秘化と戦争のなかへの位置づけは、以上のような全体的な流動化のなかのひとつの例であるが、またニーチェの像の変化という限定された例を検証することで、この全体的な流動化を観察することもできるのである。

(この項終わり)



Booby Trap No. 14



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バタイユ・ノート2
バタイユはニーチェをどう読んだか 連載第8回

吉田裕



6 戦時下に読まれたニーチェ

 第二次大戦は、三九年九月に始まり、翌年五月にパリはドイツ軍の占領下におかれる。以後、社会科学研究会等の公然の活動は不可能になり、バタイユの活動はもっぱら書くことに限定されることになる。この時期の彼の著作は四三年に『内的体験』、四四年に『有罪者』、四五年に『ニーチェについて』である。戦後になって彼は、これら三冊にいくつかの書物を加えて、『無神学大全』という複合的な書物を計画するが、ほかの書物を加えるという計画は実現できず、以上の三冊にいくつかの章を補って、この名でまとめることになる。だから現行の三冊も、一貫した視点のもとに書き下ろされたというものではなく、さまざまのテキストを集めたものである。また書物としての発行年とそこに含まれる諸論文の執筆時期が正確に対応しているわけではない。このように『無神学大全』は、定型からはずれ、かたちを取ることを拒絶しているような書物だが、内容、文体、量のいずれから見ても、バタイユの中心をなす著作であることは疑えない。
 ニーチェに関するテキストは、書名から予想されるように、『ニーチェについて』のなかに多いが、題名にニーチェの名を含む、あるいは内容にニーチェへの言及が多いという基準からいえば、ほかにあげなければならないのは、『内的体験』の第一章「内的体験への序論草案」と第四章「刑苦への追伸」の第六節「ニーチェ」である。『有罪者』は、ニーチェについては名前が数回引かれるだけであって、本格的な論究は含んでいない。
 さまざまの視点と叙述の層を含んだ『無神学大全』をあえて要約すれば、中心にあるのは神秘体験、彼の言葉でいう内的体験である。ファシスム批判と神秘経験というバタイユのニーチェ理解の二つの側面は、『無神学大全』のなかにも存続しているが、前者について言えば、その主な論点はアセファルの時代にすでに出ていて、『無神学大全』でなされるのは、おおよそのところその反復だが、それに対してニーチェに媒介されたバタイユ自身の神秘的経験の側面は、現実化した戦争に支えられていっそう鮮明になり、『無神学大全』の中心テーマとなる。
 内的体験が神秘体験だとすれば、神秘体験がいちばん強く現れるのは、それを題名とする『内的体験』ということになる。この書物は「内的体験」と「瞑想の方法」という二部に分かれているが、後者は、五四年の再版に際して加えられてものであるから、はずしておく。「内的体験」は五章構成だが、核をなしているのは第二章「刑苦」であって、それを中心にして「内的体験への序論草案」、「刑苦の前歴」、「刑苦への追伸」が置かれている。
「刑苦」は、バタイユ自身の言葉で叙述が進められ、意外だがニーチェの名前は現れない。この時期彼は、自分では内的と呼んだ神秘体験を、ヨガ、禅などの方法を摂取し、また改変しながら果敢に実践したようだが、「刑苦」の章では反省的な記述が多く、経験を直接的に記述した断章は思いのほか少ない。多いのはむしろ「刑苦への追伸」である。これらの断章は、私には常にニーチェの影をを思わせる。それらのうちのいくつかを引いてみる。最初は「刑苦」でのレンヌ街の突然の哄笑の経験である。
〈おびただしい笑いをちりばめた空間が、私の前にその暗黒の淵を開いた。フール通りを横切りつつ、私はこの「虚無」のなかで、突如として未知の存在となった。………私は私を閉じこめていた灰色の壁を否認し、ある種の法悦状態に突入していった。私は神のように笑っていた。傘が私の頭に落ち掛かってきて、私をつつんだ(私は故意にこの黒い屍衣をかぶったのだ)。私はかつてだれも笑ったことのない笑いを笑い、いっさいの事物の底の底が口を開け、裸形にされ、私はまるで死人のようだった〉
これを読むとき、私は『ツアラトゥストラ』のなかの、黒く重い蛇を噛みきって永劫回帰を理解した羊飼の変貌と笑いを語る一節が響いていると感じずに入られない。〈それはもはや牧人ではなかった。もはや人間ではなかった。――彼はひとりの変容せる者、光に包まれた者であった。そして笑った。――およそ地上で、ひとりの人間が、今彼が笑ったように、高らかに笑ったことはなかった〉(「幻影と謎」)。バタイユのこの哄笑の経験は、十五年前のこととされてはいるが、彼が自分の根本に置いている経験であると思われる。
 次は「序」のなかの幻視を語った一節である。
〈所在を忖度されたこともない国々に経巡って、私はかつて人間の眼が見たこともないものを見た。これ以上人を酔わせるものはない。笑いと理性、恐怖と光が、互いに浸透し合うものとなった………私の知らぬものはなにひとつなく、私の狂熱の接近しえぬものもなにひとつなかった。不思議な狂女のように、死は可能事の扉を絶えず開き、また閉じしていた〉
 この一節は、『メモランダム』の引用番号二五〇の遺稿中の次のような一節、バタイユがニーチェから引用するたぶん一番神秘的な一節を思い出させる。〈そしてなんと多くの新しい神々が、まだ可能なことか! 私自身のうちでは、宗教的な、すなわち神々を産み出す本能が、しばしば思いがけず作用し、ために私はその度毎に、さまざまなやり方で聖なるものが現れるのを経験した。………私は時間の外に位置するこれらの瞬間に、かくも多くの奇怪なものどもが通り過ぎるのを見た。これらのもろもろの瞬間は、月から落ちてでも来るように、われわれの生の中に落ちてくる。そのさなかでは人は、自分がすでにどれほど老いているのか、またどれほど若返ることができるのかを知らないのだ〉。
 彼は雷に打たれた樹木、また炎への化身、中国の死刑囚の写真の凝視による共犯の感情、暁光への同化を語っているが、そこには前出の「死を前にしての歓喜の実践」のエピグラフに引かれた〈私は同時に鳩であり、蛇であり、豚である〉が聞こえるような気がする。またそれは、コジマあての発狂直前の手紙の一節の遠い反映と見ることもできるのではあるまいか。〈しかし私はインドでは仏陀でしたし、ギリシアではディオニュソスでした。アレクサンダーとシーザーは私の化身です。………最後にはヴォルテールとナポレオンでもありました。ひょっとしたらリヒャルト・ワグナーであったかもしれません〉。無論正確な対応関係を証明することなどできはしない。だが恍惚を語るバタイユの言葉の背後には、どうしてもニーチェの声が聞こえてくるのだ。
 ニーチェへの直接の言及が行われるのは、前述のように、第二章「内的体験への序論草案」と第四章「刑苦への追伸」においてだが、前者で印象に残るのは、ニーチェを推論的思考を極限まで押し進めることで神秘的な経験を持った人と考えていることである。可能事を越える経験を持つためには、まず可能事をつくさねばならない、とバタイユは考える。そこで不可能なものは可能なものと不可分の様態で現れる。彼はニーチェの中心にあるのは永劫回帰の思想だとしたが、それに触れて次のようにいっている。〈永劫回帰についていえば、私はニーチェが、いうところの神秘的形態のもとにさまざまの推論的表象と混ざりあったかたちで体験を持ったと考えている〉。同様に、バタイユの言う神秘的経験とは、神の経験にとどまらず、神を越える経験である。神は概念としてとらえられる限り、推論の領域内にある。本来的に神的なものを求めるならば、この限界を越えねばならず、その時神は神でなくなるが、神的なものが経験されるのは、そこ以外ではあり得ない。〈神は人間の極限ではない。だが人間の極限は神聖なものだ〉(『有罪者』)と彼は言う。
 では神を越えることは、ニーチェにとってどのようにして可能だったのか。ここにきわめてバタイユ的な解釈が現れる。それは神の殺害によってなのだ。真っ昼間に提灯をともして広場へかけていき、「神はどこにいる!」と叫んだ『華やぐ知恵』の狂人の一節を、バタイユは賛嘆をこめて長々と引用している(「刑苦への追伸」)。ひとしきり問いかけたあと、この狂人は、あざけり笑う衆人に対して解き明かす。「おれが言ってやろうか、おれたちが神を殺したのだ――おまえたちとこのおれでな! おれたちはみんな神殺しなのだ」。ニーチェによれば、人間はまず人身の供犠、しかもおそらくはもっとも愛するものを捧げた。ついで自分たちのもっとも暴虐な本能、すなわち自然を捧げた。これはキリスト教の倫理の発端である。〈そして今、どのようなものが供犠に付すべく残されているのか。最終的に、すべて慰撫してきたものを、聖化してきたものを、すべての希望を、ひそかな調和へのいっさいの信仰を供犠に付さねばならなかったのではないか。神自身を供犠に付すべきだったのではないか。………神を虚無のために供犠に付すこと――この最終的残酷さの逆説的秘儀は、私たち登場しつつある世代のためにとっておかれたのだ〉。この一節は『善悪の彼岸』からだが、もちろんバタイユが引用しているものである。
 ここで言明された過程の上に、バタイユが社会学的な探求によって知った動物の供犠、人間の供犠、またキリスト教の起源にある神の子の殺害を数え入れていることは疑いを入れない。人間は、神のために、神をあらわにするために、自分にとって次第に大きくなる大切なものを捧げるようになってきたが、この過程をさらに延長すると、もはや大切なものはすべて捧げられ、残るものとては神それ自身しかなくなる。だから彼は神を供犠に捧げようとする。しかしながら、このように神を供犠に捧げようとするとき、それは何をあらわにするためなのか? それはもはや神をあらわにするためではあり得ない。神はすでに、捧げられるものになりかわっているからだ。だから神が供犠に捧げられるとき、あらわにされるのは、神の不在である。けれども、明らかにされるこの神の不在は、神の存在よりもずっと神的なものだ。なぜならそれをあらわにするために捧げられたのは、神という人間の愛の最大の対象だったからである。これが〈逆説的秘儀〉の意味である。
 〈神の殺害はひとつの供犠である〉(「刑苦への追伸」)とバタイユは言う。バタイユは神の死の宣言というニーチェの最大の決断を、神の供犠による聖なるものの探求という彼自身の探求と同一化する。これがバタイユがニーチェに見いだした最大の合致点であると私には思われる。

『ニーチェについて』は、題名とは裏腹に、半ば以上が四四年二月から八月、つまり戦争末期の日記である。そのほか、第一章「ニーチェ氏」は、ほぼ引用で成り立っている。だから狭い意味でニーチェ論として取り上げることができるのは、「序文」と補遺のなかの「ニーチェとドイツ国家社会主義」と「ニーチェの内的体験」の三つの論文であろう。
「ニーチェの内的体験」では、文字どおりバタイユが自分の言う内的体験とニーチェの体験を重ね合わせようとしたものだが、すでに引用した部分を除けば、大部分は『内的体験』でつくされたものの繰り返しである。「ニーチェと国家社会主義」も、反ユダヤ主義また愛国的軍国主義への批判等は、アセファルで提出されたものと変わっていない。
 ただ「ニーチェと国家社会主義」には、興味を引く点がひとつある。それはファシスムに対して、客観的と言うべきような評価、ある種の意味を認めるようなところが見られることである。〈旧来の道徳を拒否するというところは、マルクス主義、ニーチェ主義、国家社会主義に共通している〉とバタイユは言う。またニーチェについて、次のようなことも言っている。〈ニーチェは、プルードンやマルクスと同じく、戦争に有益な要素のあることを肯定した〉。これはニーチェとファシスムの間にある種の接点を認めているのだろうか? 元になった「ニーチェはファシストか」には、次のような一節がある。
〈もしファシスムが正当にニーチェを利用することが出来たなら、それは私たちが想像するような空虚とはならなかったのだろうか? ニーチェはファシストか? また彼はドイツ人であるのか?
 この問は問うてみる価値がある。いずれにせよ、ファシスムは人間の起こした出来事である。しかし、私たちはふつう、それがその責任とその廃虚のうちに人間の本質的な一部分を引き込んだ、とは考えない。私たちはむしろそこに、ある階級の利益、孤立した民族の利益、陰謀家一味の利益等、さまざまの利益の組み合わせを見るのである。だがもし、それがある哲学の表明であったならば、あらゆる種類の人間を生命に向かって目覚めさせる劇的な哲学の表明であったならば、ことは別なものとなるだろう〉。
 消去されたものを取り出すのは慎重でなければならないが、これは一度は公表されたものである。ここでバタイユは、ファシスムが〈人間の本質的な一部分を引き込ん〉で、〈人間を生命に向かって目覚めさせる劇的な哲学〉でありうる可能性を持っていた――実現されなかったとしても――と感じているのだろうか? このような言明は、三〇年代には見られなかったものだ。これはドイツの敗北がほぼ明らかになったことではじめて書かれたにちがいないが、そこにはファシスムが彼の時代の人間が持った願望に、何らかのかたちで反応するものであったと彼が感じていたことを示しているのだろうか?
 無論バタイユは、ファシスムとそのニーチェ理解に反対という基本的な姿勢を崩してはいない。〈ニーチェの思考の領域は、政治を決定する必要性と共通性に対する配慮を越えていた。それは悲劇や笑いや苦痛、また苦痛にもかかわらずわき起こる歓喜、精神の豊かさと自由に関する領域であった〉と言い、また〈彼は給与とか、政治的自由とかの第一次的な問題からは背を背けていた。危険に満ちた生という彼の原則は………大衆的な闘争とは無縁であった〉とも言う。だがこれらの理由づけは必ずしも説得的ではない。ニーチェは非政治的だったという主張はあるが、ニーチェもまた政治的な文脈のなかに入らざるをえないことへの十分な解明はないからである。
「序文」は、彼の考えを一般的に述べており、執筆時期からして、彼のニーチェ理解のひとつの総括だと考えられる。そこにはこれまで同様にニーチェを汎ゲルマン主義、反ユダヤ主義的に解することへの反撥がある。また神秘的解釈も以前の通りである。ニーチェの持った情熱を、〈神や善のために殉死した人々の情熱〉だと彼は言う。ニーチェが自分の教説のために門弟と組織を求めたこと、つまり共同体への願望を持っていたことも述べられている。
 目新しいのは、バタイユが、ニーチェの本質的な問題を「全体的人間」というかたちでとらえていることである。それは〈膨大な数をなす低劣な人間は単に序奏あるいは前稽古にすぎず、ただそれらを合わせて奏することで、総体的人間がここかしこに現れるようにすることができる。この総体的人間は、人類がどこまで到達したかを示す里程標のようなものだ〉(『力への意志』)というニーチェの言葉によっている。これは見るからにナチスムの人種理論に利用されそうな一節だが、バタイユはこの全体性を、今度は彼自身の言葉で、いくつかの視点から定義している。ひとつにはそれは民族とか時代とか、さまざまの個別の価値に従属して断片となってしまった人間に対する批判である。〈生が全体的でありうるのは、生命が自分を無視した明確な目的に従属していない限りにおいてである〉。一方それは欲望との関係では次のようである。〈総体性は、ただ燃焼したいという欲望だけを理由として――総体性がまったく全面的であるということだけを理由として――自分を燃焼させたいという不幸な欲望、空しい欲望なのだ〉。この一節からは、全体性のなかに非生産的消費の主張が重ねられていることがわかる。ついでそれは行動に対する批判である。〈私は何らかの仕方で行動の段階を越え出て、初めて総体的に存在することができる〉。〈世界・変革の・任務に従事する人間は、人間の断片的な姿でしかなく、この変革が完了したあと、今度は彼自身が全体的な人間に変化することになるだろう〉。ここにはたぶん、戦争が終わって力を持ち始めたたサルトル的なアンガジュマンの思想への反撥がある。またそれは哲学的な基本の違いでもある。〈
結局全体的人間とは、その内で超越性が消滅する人、もはや何物も分離していないことにほかならない〉。この時期彼は、前出のヤスパースにならって、超越性transcendanceに対する批判を内在性immanenceという言い方で主張している。バタイユは、ニーチェ的人間は全体的であるほかないと考えるが、この全的人間の観念は、人間の全活動を探ろうという戦後の普遍経済学の試みにつながるに違いない。
『ニーチェについて』において、バタイユは以前に述べたことを整理して反復し、また他人の言説との差異を明確にしようとする。だが、そこには戦争開始前後のようなつま先立つような切迫感は感じられない。これは、戦争の趨勢が見えてきた時、ファシスムの問題もかつてほどの緊急性を持たなくなっていたということかもしれない。

(この項終わり)



Booby Trap No. 15



バタイユはニーチェをどう読んだか 1-バタイユはニーチェをどう読んだか 2-バタイユはニーチェをどう読んだか 3-バタイユはニーチェをどう読んだか 4-バタイユはニーチェをどう読んだか 5-バタイユはニーチェをどう読んだか 6-バタイユはニーチェをどう読んだか 7-バタイユはニーチェをどう読んだか 8-バタイユはニーチェをどう読んだか 9(最終回)-バタイユ・マテリアリスト 1-バタイユ・マテリアリスト 2-バタイユ・マテリアリスト 3-バタイユ・マテリアリスト 4-バタイユ・マテリアリスト 5(最終回)-政治の中のバタイユ 1-政治の中のバタイユ 2-政治の中のバタイユ 3-政治の中のバタイユ 4-エクスターズの探求者 1

バタイユ・ノート2
バタイユはニーチェをどう読んだか 連載第9回

吉田裕



7 戦後の場合
 ヨーロッパでの戦争は、四五年五月八日に、ベルリンで降伏文書が調印されることで終わる。フランスではパリが四四年八月二五日に解放されるが、六月の連合軍のノルマンディ上陸の頃から、戦争の終わりはちかいと予感されていたようだ。この時期以後、バタイユは、消費をも含んだ普遍経済学の体系を構想し、それを示すために『呪われた部分』という題名の三巻からなる複合的な書物を考える。それは第一巻『消費』、第二巻『エロチスムの歴史』、第三巻『至高性』というものだったが、実際に刊行されたのは、第一巻のみでこれがふつう『呪われた部分』と呼ばれる。第二巻は後に書き直されて『エロチスム』として刊行されるが、『至高性』は遺稿として残された。その中に三つのニーチェ論が含まれる。またほかにそれらの元になった雑誌論文がある。戦後のニーチェ論の中心は、これらの論文だが、中で目につくのは、ニーチェとコミュニスムの関係を取り扱ったものである。この問題が戦後のバタイユのニーチェに対する関心の中心にあった。それに対比すると、ほかの問題は個々の思想家との比較の問題の域をさほど出ないように思われる。
 四六年の「ジッド・ニーチェ・クローデル」は、表記の三人の作家に関する独立した短い三つの書評からなっている。クローデルに関する項にはニーチェに関する言及はない。ジッドに関する項では、ニーチェの「更なる仮面を」という願いはジッドにおいては百倍もかなえられたという一節があるだけである。ニーチェに関する部分は、キノーという人のニーチェの翻訳および注解の本に対する書評である。キノー氏は、ニーチェを〈キリスト教なき十字架の聖ヨハネ〉、つまり神の探求者とみなしたらしい。この見方は一見バタイユに近いように見えるが、バタイユはそれを、〈神的なものの感覚は、悲劇的なやり方で神の不在の感覚に結びつく〉と批判する。神の探求は、神の不在にいたりつくからだが、この点は、いわゆる神秘家とバタイユを区別する最も重要な点である。
 四九年の「ニーチェ・ブレイク」も、独立した二つの書評が合わさったものである。ブレイクは、ロールの棺に詩集『天国と地獄の結婚』が入れられたり、また『内的体験』に詩が引用されるなど、以前からバタイユの愛好する詩人ではあった。バタイユは、ブレイクがシュルレアリスムに近かったこと、またキリスト教的モラルに敵対したグノーシス的傾向を持つ幻視者であったことを評価する。ブレイクに関する言及は五一年の「ニーチェ」にもあって、この詩人は〈ニーチェの知られざる先行者〉で、「善悪の彼岸」の世界を最初に考察したと述べられている。
 五九年の「ツァラツストラと賭の魅惑」には、興味を引く問いかけがある。それは第一次大戦以来、ドイツの多くの青年がポケットに『ツァラツストラ』を持って戦死していったが、それをどう解すべきかという問である。バタイユは次のように答える。〈そのことは、たいていの場合、著者が危惧したように、この書物が誤解されたということを考えさせる〉。この誤解をバタイユは、戦争の質の違いに見ている。戦争は、古代においては人間の高貴さを示す無償の行為でありえたが、一九一四年においては、目的と結果を重視する合理的な操作にすぎなくなり、ニーチェの言う戦争とはまったく違ったものとなっていたと彼は言う。戦争に関する解釈は、検討の余地があるだろうが、これはまたニーチェを戦争賛美者として利用したファシスム的な理解への批判として読むことができる。
「ニーチェとイエス」は、ジッドとヤスパースのニーチェ理解に関する本に対する書評を元にしている。ジッドについては、ルネ・ラングという批評家のジッドに関する評論、またヤスパースについては『ニーチェとキリスト教』が対象である。ジッドに対するバタイユの評価は厳しい。バタイユによれば、ジッドは、イエス自身の言動とパウロによって確立された宗教としてのキリスト教を区別したものの、ニーチェのことを、教会は批判したが、イエスには羨望と共感を持ったとみなしてしまう点で誤解をおかす。
 バタイユは、パウロの解釈を逃れたところに見いだされるイエスに対するニーチェには、なおも批判が存続しており、そこにこそ本来のニーチェが現れると考える。この判断を支えるのがヤスパースの分析である。ヤスパースによれば、ニーチェにおいては、イエスに対して常にディオニュソスが対置されていた。バタイユはヤスパースを、次のように引用する。〈十字架上のイエスの死は、ニーチェの目に生命の衰退と映り、生命に対する糾弾となっているのに対し、ばらばらに引き裂かれるディオニュソスは、彼にとって、悲劇的な快活さでもって昂揚し、絶えず更新される生命を意味する〉。だがこれは、イエスをただ嫌悪して退けることではない。ヤスパースは次のように続ける。〈だが驚くべき曖昧さを保ちつつ、ニーチェは――確かにまれにではあるが――イエスの態度を束の間自分のものとすることができた。そして狂気のなかで書かれた短信………にいたるまで、ディオニュソスの名のみならず、「十字架にかけられし者」とも署名した〉。
 ニーチェがイエスに持ったのは、ディオニュソスを媒介として一体となった嫌悪と共鳴である。ヤスパースのこの分析を受けて、バタイユは、イエスに対するニーチェの感情を次のように述べる。〈………深いところでニーチェはイエスに似ている。とりわけ、二人はともに、彼らの心を離れなかった至高性の感情と、至高ななにものも「モノ」からは生じないという等しい確信とによって動かされていた。ニーチェには自分たちの類似のほどがわかっていた〉。至高性の感情は、イエスによってもっとも強く経験されたとバタイユは考える。しかしこのイエスは、ディオニュソス的ニーチェ的なイエスなのだ。これはキリスト教に対する、もっとも肉薄したところからの批判であり、バタイユの反キリスト教の意識をよくうかがわせるところである。
「ニーチェと禁制の侵犯」は、ニーチェをモデルにしたとおぼしいトーマス・マンの「ファウスト博士」を発端とする。モデルという点では、バタイユの評価は高くない。この本は〈哲学者ニーチェの相貌を照らし出すどころか、その特徴を消してしまう〉。ただバタイユに示唆的だったのは、ニーチェが人間の限界を超えようとしたファウストという伝説上の人物に擬せられたという点であろう。ファウスト的な悪魔との契約は、レーファーキューンの宿命で、ニーチェはそこから遠いところにいるとバタイユは考えるが、人間の限界、つまり禁制を超えようとして、なかば伝説となるほかなかった人物たちとニーチェを比較するように彼は促される。対象は、ダ・ポンテとモーツァルトによるドン・ジュアンと、サルトルが描くところのボードレールである。
 バタイユは、合理主義による無神論は評価しない。それは神に対する無知であり、禁制を犯すとしても、それと知らずに犯すのであって、本当の意味では禁制を犯すことにはならないからである。ドン・ジュアンが自分が殺した騎士長を招待するというのは、死者に対する恐怖を感じないでそうしたのだから、禁制の侵犯にはならない。ただ彼が最後に、後悔を迫られながら「否」を言い通すとき、それは自分が地獄に呑み込まれることを確信した恐怖に満ちた「否」であって、神の死を確信したことから来るニーチェの恐怖に通じるものとなる。しかしバタイユは、ニーチェの恐怖が道徳的要請のかたちを取って内側から来るのに対し、ドン・ジュアンの場合は、彼をうちひしぐ力はあくまで外側から来ると考える。したがって、バタイユにとっては、ニーチェの例のほうがさらに本質的なのだ。
 ボードレールについては、バタイユはサルトルの革命家と反逆者、無神論者と黒ミサの司祭の差異から出発する。サルトルによれば、革命家は世界の秩序をかえることを望み、無神論者は神のことなど気にかけないのに対して、反逆者は破壊することも乗り越えることもなく、結果的に秩序を尊重するだけであり、黒ミサの司祭は、神を尊重する故に嘲弄するだけである。ボードレールはこの後者の例とされるが、バタイユはサルトルのいう革命家も、既存の秩序を覆すとしても、なお新たな秩序を作り出さねばならず、秩序を逃れられないという点では、反逆者と変わりないと批判する。彼は禁止と侵犯の関係が、単純な二者択一ではありえないもっとアンビヴァレントなものだと考える。規範とそれに対する侵犯は、規範の無視によるのでもなければ、規範に対する無力に終わるのでもない。規範は侵犯のために保持されねばならず、保持されはするが、確かに破壊はされるのである。〈ニーチェは神を気にかける無神論者である〉、あるいは〈ニーチェは、はじめから禁止と侵犯のどちらか一方に身を任せきることはできないという逆説的な不可能に気づいていた〉とバタイユは言う。この両義性、それがつきることのない動的な力の源泉ではあるのだ。

8 コミュニスムの問題
 コミュニスムは、ヨーロッパにとって、ファシスムがとりあえず現実の問題ではなくなったあと、もっとも緊急な問題となった。しかし、コミュニスムという用語は、バタイユにおいては多様な意味を含むから、注意を要する。彼が二〇年代に初めて左翼運動に接近したとき、それはすでにコミンテルンの系列にある公認のコミュニスムではなく、トロツキーとスヴァーリンの系譜を引く反スターリン主義の運動の側であった。この経験は戦後にも尾を引く。戦後の左翼運動、また実存主義を通じての知識人のアンガジュマンの運動がもっぱらソ連の影響下におかれた時、この経験はそれに追従することをバタイユに許さなかった。だが同時に、このロシア的に変質したコミュニスムを批判することを、他の人々に先んじて可能にもしたのである。
 しかしながら、この批判にも時代的な限界があることは、承知しておかなければならない。九〇年代も半ばにいる私たちは、すでにソ連と東欧圏の崩壊を経験し、またそれ以前にスターリニスムはもちろん、トロツキスムを批判することも、マルクスをいわゆるマルクス主義から分離して読むことも知っているからだ。だがバタイユのコミュニスム論は、これらとは異質なほかに例を見ないものである。それは三〇年代のいくつかの論文と実践に散見されるが、まとまったかたちを見せるのは、戦後の『呪われた部分』の第五部と、『至高性』の第二、三部においてである。前者はコミュニスムを、主に経済的な観点から、後者は人間の原理としての至高性の観点から追求しようとしたものである。これらの考察は、理論的であるよりも、コミュニスムと称するところの社会の現状を対象とした実践的な分析である。バタイユがコミュニスムと言うとき、それはほとんどの場合、ソ連式の社会主義である。〈コミュニスム――むしろスターリニスムと言ったほうがよい〉とバタイユは言う。
 またバタイユのコミュニスムは、ブルジョワ社会に対立する社会を指しているのではない。『至高性』のなかで示される彼の歴史的なパースペクティヴは、特異なものだ。彼の視点はただ至高性の上にある。彼の原理では、フランス革命とロシア革命の間にほとんど差異はない。前者がブルジョワ革命で後者が社会主義革命という定義は、意味をなさない。至高性を原理として歴史的な区分を行うとき、バタイユが本質的とみなす変化はひとつであって、封建制から近代への移行の根底に見いだされる変化だけである。封建制とは、王政、君主制、帝政すべてを含むが、それは〈富を非生産的な様態で用いることにもっとも優先権が与えられている〉社会であった。それに対して革命が起こったとき、たとえばフランス革命だが、それは〈資力や諸手段を蓄積する〉社会をもたらしたのである。しかしこの変化は、ただフランス革命、イギリス革命のみによってもたらされたのではない。それは、封建的支配と結びついた教権に反抗した都市市民の運動であった宗教改革がすでに持っていた変化であり、広い意味での「産業革命」だったのだ。
 ところでこの変化は、二〇世紀の革命、つまりロシア革命においても変わらないとバタイユは考える(中国革命は五〇年代にあっては進行中で、彼は判断を保留しているが、基本的にはロシア革命と同質だとみている)。彼はまず、ロシア革命がブルジョワ革命の達成のあとで初めて可能になる社会主義革命として実行されたのでなく、封建制を直接打倒する役割を担わざるをえなかったことを指摘する。それはすでに当初からレーニン自身らによって認識されていたことだが、この変質は理論の部分的な変更だったのではない。以後期待された本来の社会主義革命がドイツにもフランスにも起こらなかったこと、それにロシア革命が実際上は主に農業の集団化や計画経済として実行されたことと考え合わせると、コミュニスム革命とは、本質的には封建制打倒の革命、富の蓄積をめざす革命だったのであって、そこに成立したのは、西欧的なブルジョワ社会と性格を同一とする社会だったのである。〈ブルジョワ社会とスターリン的社会は、ほぼ同じかたちで封建社会に対立する〉。しかも、中央集権的な権力構造によって実行される計画経済という面から見れば、ブルジョワ社会よりもはるかに徹底した効用と蓄積の社会である。この点においてコミュニスム社会は、ブルジョワ社会のさらに前方をいく〈現代社会にとって不可避の運命〉なのだ。
 そして至高性が富の消尽に根拠を持っているとすれば、富をあたう限り蓄積と再生産に振り向けるコミュニスム社会は、〈至高性が否定される世界〉(第二部第三章題名)である。バタイユは、〈本質的にあらゆる人間に属する〉はずの至高性が、ただそれを放棄するというネガティヴなかたちで実践されるという〈平等主義的消尽〉によって、また〈君主にも似た権利をロシアの国民に対して持っていた〉スターリン個人によって実践される可能性があると言っているが、放棄は放棄であり、スターリンが持っていたのは本当は至高性ではなく、強大ではあるがただの権力にすぎず、いずれの場合も蓄積されたもろもろの力の自由な消費という意味での至高性は、コミュニスム社会では完全に抑圧される。
 これは単にソ連だけの問題ではなく、世界全体の今日と明日の問題である。このコミュニスム的社会に、ニーチェの思考だけが対立する。〈ニーチェの立場は、コミュニスムの外に対立するただひとつの立場である〉(「ニーチェとイエス」)。また彼は自分のことも、ソ連的なコミュニスムとは無縁であると言っている(「『至高性』第三部第二章)。「ニーチェとコミュニスム」で、バタイユは次のように書いている。〈伝統的な至高性=君主権については、彼もコミュニストたちと同じ態度をとった。だが彼は、人間が――ひとりひとりの人間が――ある集団的企図の手段であって目的ではないような世界を、受け入れることはできなかった。彼が国家社会主義の先駆者たちを相手取るときの嘲笑的なアイロニーやコミュニスムの元になった当時の社会民主主義に対して示したそっけない、しかし軽蔑なしの拒否は、そこから生じる。他に仕えること(有用であること)への拒否こそ、ニーチェの思想の原理である〉。他に従属することへの拒否、それ自身の価値を求めること、これがファシスムに抗しようとするバタイユが見いだしたニーチェの原則だったが、バタイユのコミュニスム批判の根底にあるのもまた、同じ原則である。バタイユにおいて、ファシスムに対立したのは唯一ニーチェだったように、コミュニスムに対立するのも唯一ニーチェである。これを見るとき私たちは、ニーチェこそが、バタイユにとって生涯を通じてもっとも親密な思想家であったと確認することができる。(了)


Booby Trap No. 16



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バタイユ・ノート 3
バタイユ・マテリアリスト 連載第1回

吉田裕



1 ノート3の目的とするところについて

 バタイユ・ノートの3をはじめるにあたって、いくつかの覚え書を記しておきたい。ノートの1(『聖女たち』収録の「淫蕩と言語と」となったもの)は「聖ナル神」を扱ったが、それは私にとってはじめてのバタイユ論で、築山登美夫の誘いによるものであり、テーマの選択は偶然のようなものだった。これに対して、ニーチェ論を扱った2は意図的な選択ではあった。私は三、四〇年代のバタイユに、ことにその言語的な活動に強く惹かれていたが、ともかく一度はある一定の視点からバタイユを通して眺めてみる必要を感じていたからである。ところで私は、まだバタイユの言語という私にとっての関心の中心に直接近づくことができない。かつて私は「淫蕩と言語と」で、彼の言語の印象を、至るところに開口部を持ち、観念の極限と現実の社会の双方と直接に渡り合っていると書いたが、ノートの2を書き終えた今、その印象はますます強くなっている。バタイユの言語は、今私の想像の中では、あたう限り拡大されて破砕する寸前ある。観念と触れ合う側面に関しては、それは『エドワルダ』や『死者』に触発された私の関心の中心であるから、最後の目標にしておく。だがこの目標に達するためには、現実と触れ合う側面の方を辿っておかなくてはならない。それにはバタイユの社会的関心および実践的経験を検討することが必要になるだろう。これがノートの3の目的である。だがバタイユの社会的関心、実践的経験の検討と言っても、それは実証的研究でもなければ、傍証的個別的なテーマの一つというわけでもない。巨大に拡大された想像力の世界が、現実の世界に侵入しまた侵入されてせめぎ合う接点の様態への関心からくるところのものである。

2 物質の探求者

 バタイユは、彼の言う内的体験と神秘経験とを、言葉の上では混ぜ合わせることがあったが、厳密に区別していた。彼の言い分によれば、内的経験には、神秘経験の中にある神が不在なのだ。人間の極限は神ではなく、神の不在であり、内的体験は神という限定を越え、その不在を確かめることに導くものだった。これはもちろんその通りである。しかし、私の見るところでは、彼の内的体験には、神秘経験との間にもう一つの側面で差異が明らかにされるべきである。それは内的体験には、常に物質性があらわになってくるという点である。彼の言う神の不在には、彼の唯物論がこだまを返している。このことは指摘されることは少ないが、それを強調しておくことは重要であると私には思われる。内的体験がもたらす、虚空に消え去るような一瞬の経験については、多くの人が取り上げ、分析しているが、後者の物質的なものとの、それまでとは全く異質となった様態での遭遇という点については、ほとんど注目されてこなかったように思われる。だが、この物質との遭遇は神の不在の経験と不可分の一体をなしているのだ。『内的体験』のなかで、彼はヨガの実践から示唆を受けて内的体験を照らし出そうとしているが、その時、内的現存へ注意を集中することによって、感覚を通常与えられる対象から引き離すと、逆に外部の事物あるいは世界が暴力的に侵入してくることがあるのを、次のように語っている。

〈感覚に達してくるものから切断されることによって、感受する能力はきわめて内的なものとなる。そのために外部から回帰してくるもの、一本の針の落下、軋む音は、巨大で遥かな反響を持つことになる・・・ ヒンズー教徒たちは、この奇怪な出来事を書き留めている。これは瞳孔が拡大されると、暗闇の中でも視力が鋭くなるという出来事と同じだと私は思う。この場合、暗闇とは光(あるいは音)がないことではなく、それが外部へと吸収されてしまっていることである。ただの闇夜においては、私たちの注意力は、どこまでも存続する言葉という道筋を通って、客体の世界に注がれている。本当の沈黙は、言葉が不在になったところで起こる。その時針が落ちる。すると私はハンマーの一撃を受けたように飛び上がる・・・ 内部から作り上げられたこの沈黙のなかで、広げられるのは、一個の器官ではなく、感覚性の全体、心情なのだ〉*1

 この経験を現象学的還元とも、またサルトルのマロニエとも較べることができるだろうが、重要なのは、バタイユにおいて、内的体験の領野の中に、外部があからさまなかたちで侵入してきていることである*2。だからバタイユが内部と言うとき、それはこの言い方が普通思わせるような、他から切り離され閉じられた空間のことではない。だがそれはすでにとどまらず、この内部については、右のような外部の直接の侵入があることから見て、外部と直通した内部だとまで言わなくてはならないだろう。バタイユの内部が限界のない広さを持っているとすれば、それはこのような外部との通底によるのだ。
 バタイユの内部あるいは内的体験が持っているこの外部性とでも言う性格は、しかしながらそれほど見やすくはない。外部には確かに外部としてとどまる性格があるからだ。だから、内的体験がそれ自体だけで取り上げられるとき、この外部に対する言及はしばしば、と言うよりも多くの場合欠落しがちになる。だが原理的に言って、神の不在というかたちで実践されるバタイユの経験がこの外部性と表裏をなしていることを見失わないならば、彼の内的体験が、この外部と一体をなしていることを見出すことができる。ではそれはどのような場合か? この外部の経験とは、もっとも強いかたちでは戦争であろう。それは旧約の予言者たちが神を声を聞くという神秘的経験を持つのが、イスラエルが滅亡の危機にさらされた時であったこととほぼ同じだが、今はこの類推よりも、外部との呼応そのものをとらえたい。彼の内的体験の追求が絶頂をなすのは、言うまでもなく『内的体験』の時期だが、その中でも中心をなす「刑苦」の章の中に、この追求が戦争あるいは外部からやってくるものと不可分であることを明らかにする節がいくつか現れる。

〈戦争の限りない恐怖の中で、人間は集団となって恐怖をそそってやまぬ極点に接近する〉
〈戦争の恐怖は、内的体験の恐怖よりも大きい〉
〈主体は恍惚状態を知っており、それを予感する。ただしそれは、自分自身のうちからやってくる意図的な方向付けとしてではなく、外部からやってくるある効果の感覚としてである〉
〈私は自分が大群衆の反映であり、彼らの不安の総和であることを知っている〉*3

 こうした部分を読むとき、私たちは、バタイユにおいて、かつて解き放たれた感覚の中に針の落ちる音が巨大な反響をともなって侵入したのと同じように、彼のもっとも内密な体験である内的体験のうちに、遥か遠くから戦争が侵入しているのを知ることができる。
 だが針の落下音と戦争をこのように重ね合わせることには、疑問が呈されうる。確かに一個の対象物にすぎない針と考えられる最大の社会的事件である戦争の間には、短絡を許さないものがあるからだ。だがおそらくこれら二つは深くでつながっている。そうでなければ、つまりバタイユの言う内的体験を、針の落下音を巨大な反響音とともに聞くというところに位置づけることで終わるならば、それはただ強迫神経症であるにすぎないだろう。類似の症例は、精神医学心理学の資料の中に山ほど見つかるに違いない。だがバタイユの例が単なる強迫神経症でないとしたら、それは針の落下音を、もちろんいくつもの異なったレベルを経てではあるが、もっと巨大なものと重ねて聞くことのできる聴覚の野の広がりを持っていたからである。この巨大なものを、とりあえず戦争と考えることにする。二つは物質性と外部性を本質としているということにおいて、共通する性格を持つ。これらはどう媒介され、どう連続するか? バタイユにおいては、そのあいだに位置させうるような関心、また出来事はいくつか考えることができる。

 この物質性が最初にあらわれてくるのは、「花言葉」、「足の親指」、「低次唯物論とグノーシス派」等雑誌ドキュマンに発表されたいくつかの論文であろう。これらの論文でバタイユは、高みに対して低いものを、美しいものに対して醜いものを対置して、抽象的観念的となろうとする人間の傾向を正面から批判する主張がありうることを明らかにする。この主張は、直接的には一九二〇年頃の信仰喪失後の反動であるには違いないが、それにとどまらない射程を持つ。そこに剥き出しに提出された醜悪な事物は、は最初高いもの美しいものに対するアンチテーゼとして提出されるが、ついには補完物であることを越えてほとんどそれ自体の存在を主張するに至るからである。それが「低次唯物論とグノーシス派」で打ち出された物質matiereの意味である。彼は次のように書いている。

〈私の言うのは、存在論を含まぬ唯物論、物質を即自的な事物としない唯物論である。なぜならとりわけ問題になるのは、何であれより高尚なもの、私という存在とそれを武装させる理性とに借り物の権威を与えるようなものに、自己と自己の理性を服従させないことにあるからだ。本当のところ、存在と理性が服従するのは、もっとも低いところにあるもの、どんな場合でもなにがしかの権威の猿真似をする手助けになりえないものにたいしてのみである。したがって私は、自我と観念の外に存在しているがゆえに物質と呼ばれるべきものに全面的に服従する。そしてこの意味で私は、私の理性が私の言明したことを限定することを承認しない。なぜならもし私がこんなふうに論を進めるならば、私の理性によって限定された物質は、即座に一つの高次の原理という価値を帯びるはずだからである(奴隷的理性は、その権威の元に語るために、この原理をみずからの上に喜んで担ぐことだろうが)。低次の物質は、人間の観念的渇望の外部にあって無縁のものであり、そのような渇望の結果としての存在論の大がかりな機械にとなることを拒否する〉*4

 彼の言う物質は、人間の絶対の外部にあるものだが、即時的な物質ではないと言われているように、それ自体で自足してしまうものではなく、常に存在論を巻き込み、それを瓦解させる作用を持っている。存在論によってとらえられた物質が観念論的な変質に見舞われているのは当然のことながら、いわゆる弁証法的唯物論もヘーゲル哲学を出発点に持つことによって、同じく観念論的な変質を蒙らねばならなかったが、それを引き寄せては解体する作用を持ち、その上で物質は観念の外部にとどまる。唯物論は、〈あらゆる観念主義を排除した生のままの諸現象の直接の解釈〉(「唯物論」*5)とならねばならない。これはあらゆる既成の意味作用を越えて切迫してくるあの針の音のことにほかならない。
 この剥き出しの唯物論、それにともなう反観念論、反理想主義は(以下日本語では文脈によって観念論、理想主義と訳し分けなければならないが、元になるフランス語は同じidealismeイデアリスムである)、以後さまざまの局面で変奏されて現れる。それをいくつか辿ってみる。ドキュマンと同じ時期に彼はすでに、『眼球譚』をはじめとするいくつかのエロチックな物語を書いているが、彼の小説においては、周知のように、女主人公たちははじめから、汚辱のうちに置かれることになる。彼女らは排尿し、尿をかぶり、卵の液汁にまみれ、嘔吐し、泥沼に身を浸す。それは男女の性愛を、決してアガペへと昇華させないためなのだ。女たちの肉体はどこまでも肉体にとどめられる。またブルトンに「理想主義の糞ったれども!」と言い返し*6、鷲にたとえ、それに対して自分を老練なもぐらだとするのも、反逆的に見えるシュルレアリスムの中になお西欧的なイデアリスムへの屈服があるのを見たからである。
 言語に対して彼がどのような態度をとらねばならなかったかのうちにも、同じ反理想主義が作用しているのを見ることができる。バタイユが純粋な虚無となろうとする経験をあれほど称揚し、対象と結びついて主体を屈従させる作用を不可避的に持つ言語の存在を批判しながらも、彼自身は、わずかの口伝か退屈な技術的教示、あるいは伝説しか残さなかった苦行者や聖者たちとは違って、思想的な反省をどこまでも書き続けなければならなかったのは、彼の内的経験が、この物質性の存在によって、宗教上の神秘経験との間に根本的な差異を持っていたからである。彼の経験には、この物質性に引き留められ、従って言語の中に回帰する部分がある。『内的体験』で彼は、〈私はヒンズー教徒が、不可能性のうちに深くまで到達することを疑わない。しかし最高度の段階で彼らにはそれを表現する能力が欠けている。そしてそれが私には重要事なのだ〉(「刑苦」)と言う。バタイユにおいて言語が物質性を志向するものとしてあることは、彼の文体をも性格づけている。彼の文体は、『エドワルダ』や『死者』、そして『内的体験』で一つの頂点に達するが、それは修飾をあたう限り切り詰め、対象と直結する文体である。彼の言葉は対象をイデア化する言葉ではない。それ自体は言語である以上想像の領域にあるけれども、一方では常に対象と直接に切り結ぶことで、物質的な性格を獲得するのだ。
 唯物論的な関心のもう一つの現れは、社会学への関心であろう。社会への関心は、直接には、彼が棄教後も関心を持ち続けた聖なるものが共同的な経験を通して作り出されることから来ているが、この共同体への関心の根本には、外部また他者の存在を見ることができる。社会とは、人間が複数存在すること、ひとりの人間が他者との関係のうちで存在することを基盤としているが、ある者にとっての他者とは、その外部なのだ。たとえばひとりの男にとってひとりの女が決して昇華され得ない他者、常に汚されることで物質性を帯びた他者にとどまるのと同じように、社会の中で出会う他者もまた、折り合うことのできない他者、観念化によって回収されるのを拒否する絶対的な他者である。この意味で社会もまた外部と物質性の延長上にある。バタイユは古文書学校の後輩であるアルフレート・メトローの導きによって、モースの講義に出始める。モースの『贈与論』が出るのが二四年である。この書物がバタイユに及ぼした影響は言うまでもない。人間には理性に還元されない部分、合理的ではあり得ない破壊や浪費の活動がありうるというモースの提示は、理性と観念の支配を受けない物質の存在を確信していたからこそ、彼に示唆的だったに違いない。彼は二八年に残酷を極めたアズテカ文明を発見し、「消え去ったアメリカ」を書くが、この残酷さへの関心は、性愛における汚辱と同じく、イデアリスムに対する彼の断固たる反抗の徴なのだ*7
 だが社会的なものは、まだ別様に展開されうる。見出されるのは政治的なものである。社会の中にある共同性は、いっそう強力なものとなるとき、政治として作用するからである。今バタイユおいて社会的な関心の基本にあるのは、聖なるものへの関心であることを見たが、この宗教的な性格が政治的なものとして現れうることを、バタイユは、「アセファル」の創刊号で、〈政治の顔を持ち、政治だと信じ込んでいたものは、いつの日か宗教的な運動であることが露にされるだろう〉と言うキルケゴールの一節を引用することで主張することになる。宗教と政治のあいだに社会を媒介することで、この一節はもっと良く理解できるようになるだろう。宗教、社会、政治は、バタイユにおいて出来事のさまざまなレベルに応じて現れるが、同じ原理を持っている。それらのいずれもが共同体の問題である以上、そこには他者の問題があり、さらに外部のもっとも基本的な徴としての物質性の問題がある。だからバタイユが物質に関して持った経験、また性愛を通して他者と持った経験は、多くの媒介を経なければならないとしても社会や政治の経験に反映するし、政治的社会的な経験は、彼の宗教的な経験、物質に関する経験を左右するのである。
 しかしもっとも外部的な経験としては、やはり政治的な経験を考えねばならないだろう。そこで共同性は、現在考えられる限りでは最高度に拡大されるからである。その上さらに言うと、もっとも政治的な出来事が戦争であるのだ。政治あるいは戦争は、もっとも度しがたい外部として、どんな観念的な操作も容赦なく振り落とし拒絶する外部として現れ、バタイユに切迫する。バタイユにとって政治とはそのようなものであった。彼は二〇年代から四〇年代にかけての時代、ごく普通に言って政治的な転変のきわめて激しかった時代を、さまざまな活動に関与し、また失敗を繰り返しながらくぐり抜けていく。だがそれら辿るとき必要なのは、それらを単なる政治的発言ないしは行動として読むことではなく、彼の言う内的な経験にまで達することを可能にするようなパースペクチヴの元に読みとることである。

*1『内的体験』出口裕弘訳、現代思潮社。p49、OC,t6,p30
*2 外部の侵入、物質性の手触りということから最近面白かったのは、中沢新一の『始まりのレーニン』岩波書店、一九九三年である。この本で中沢は、レーニンがよく笑う人間であったが、その笑いは、魚、犬や猫、子供の体、トロツキーによれば思考の外にあるものに触れることで引き起こされるのであり、それがレーニンの唯物論だったと言っている。そしてレーニンのこの笑いはバタイユの非知の笑いに限りなく近いと言う。非知の笑いは、自ずから現れるもの、認識によっては到達できないようなかたちで位置を占めているものに触れることで引き起こされる。すなわち知り得ないものが意識の中に侵入するとき人間は笑うという意味で、非知の笑いはレーニンの笑いに近い。とすれば一見虚空にわき起こるように見えるバタイユの笑いは、レーニンと同じく物質的なものでありうるということになる。中沢は次のように言っている。〈西欧の周辺、キリスト教の限界点、ヘーゲルの臨界において、バタイユは限りなく唯物論の思想に接近していく〉p21。
*3『内的体験』p109,109,143,149。OC,t6,p58,58,75,76.
*4『ドキュマン』バタイユ著作集、二見書房、片山茂樹訳、p106、OC,t1,p225
*5『ドキュマン』p49、OC,t1,p180.
*6 個人的活動と集団的活動のいずれかをとることを選択するよう求めたシュルレアリスムのアンケートに対する回答。二九年はじめ。
*7 バタイユとフランス社会学との関係については、富永茂樹氏の要を得た研究がある。「ジョルジュ・バタイユと社会学の沸騰」『ヨーロッパ一九三〇年代』、岩波書店、一九八〇年。フランスでは、"Ecrit ailleur",1987が、バタイユの社会学的関心に対する共同研究をまとめている。


Booby Trap No. 17



バタイユはニーチェをどう読んだか 1-バタイユはニーチェをどう読んだか 2-バタイユはニーチェをどう読んだか 3-バタイユはニーチェをどう読んだか 4-バタイユはニーチェをどう読んだか 5-バタイユはニーチェをどう読んだか 6-バタイユはニーチェをどう読んだか 7-バタイユはニーチェをどう読んだか 8-バタイユはニーチェをどう読んだか 9(最終回)-バタイユ・マテリアリスト 1-バタイユ・マテリアリスト 2-バタイユ・マテリアリスト 3-バタイユ・マテリアリスト 4-バタイユ・マテリアリスト 5(最終回)-政治の中のバタイユ 1-政治の中のバタイユ 2-政治の中のバタイユ 3-政治の中のバタイユ 4-エクスターズの探求者 1

バタイユ・ノート3
バタイユ・マテリアリスト 連載第2回

吉田裕



3 「ドキュマン」以前

 物質性への関心は、バタイユにおいて最も注目すべきものの一つだろう。物質性はバタイユにおいて、どんなところでも作用している。ほかの要素はかき消されてしまうように見えるところでも、それはかならず作用している。たとえば精神分析学というテーマをとり出してみる。するとバタイユがそれに引かれた時期と批判的になっていった時期のあることが見えてくるが、だからといって、バタイユはこのような理由から精神分析学に関心を持ち、後になるとこのような理由から関心を失った、と述べることには、ほとんど意味はない。なぜなら関心のこの消長は現象にすぎないからだ。それは根底的には、物質的なものへの関心に動かされているが、それを見ないかぎり、精神分析学またほかのどんな主題も、個別的であるにとどまる。またこの関心抜きでは、ほかの主題につながっていくということも起こらない。たとえば、もう一つ政治的関心という主題を取り出すとき、これら二つのものへの関心は、何年頃には、精神分析学に関心を持ち、また別のの時期には政治的な関心を示したという年代記的羅列にとどまる。それでなければ、集団形成に関する心理学は政治的関心と同質の関心であるという指摘にとどまる。だが、これらバタイユが次から次へともった関心は、簡潔だがもっと深い関心に貫かれている。この関心は、私の見るところでは、物質的なものへの関心なのだ。それをとらえることで、彼の目の眩むような多様性は、もっとはっきりとしてくるだろう。
 それぞれの個別の主題の中のいくつかには、個別性の枠が破られていく場面の現れることがある。政治的関心の場合は、そのひとつの例である。たとえば「ニーチェ時評」(三七年)で、〈共同の情熱が人間の諸力を結び合わせるのに十分な大きさを持たなくなったときには、強制力に頼ること、またさまざまの調整、取引、ごまかし等を発達させることが必要になる。これが政治という名を受けることになったのだ〉と彼が言うとき、彼は普通政治という名のもとに受け取られているものの奥に、本来的な何かの運動を見ている。この運動こそが本当の意味で政治的なものに違いないのだが、それは根本的には、共同体を熱狂のうちに動かす作用をもっとも強く持つ死のなせるわざであることが証明される。だが死とは、人間の物質性があらわになる瞬間でもあり、その意味では、共同性そして政治とは、物質にかかわり、物質性のもたらす運動であることになる。バタイユの政治という概念をそこまで踏み込んでとららえておけば、戦争が始まってバタイユは政治に背を向けたと言われる出来事の意味を、過剰あるいは過小にとらえる過ちを免れることができる。政治的と見える体験と考察の中に、常に変わることなく作用し続けたのは、物質的なものへの関心と、そこから来る否応なしの力だったからだ。それは彼の次の探求と実験の中でも継続した力だったからだ。
 精神分析学や政治というのは例証にすぎない。だから物質性の作用はバタイユのあらゆる関心と主題に作用していて、それをできるだけ多くの領域でとらえたいのだが、そのためにまずそれが最初の時期にどのように現れたかを検証する。なぜなら最初期には、この関心はもっとも率直なかたちで現れているにちがいないからだ。対象とするのは主に「ドキュマン」以前の部分である。この時期のバタイユの活動については、便宜的な分け方に過ぎないが、小説と論文とまだ実践的ではないが政治的な関心の三つの相でとらえることが、有効ではないかと私には思われる。

 一九一八年二十一才の時の「ランスのノートルダム」を別にすると、二三年に彼はシェストフの「トルストイとニーチェにおける善の概念」の翻訳に協力し、二五年には「シュルレアリスム革命」のために「ファトラジー」を翻訳している。だが彼自身による著作としては、二六年の『WC』が最初である。これは破棄されたが、一部分は残り、「ダーティ」と題されて後に『青空』に組み込まれる。それを見るとこれがエロチックな小説であったことがわかる。これをきっかけにして彼は同様の小説あるいはエッセイふうのものをいくつか書く。二七年には「松果腺の眼」、「太陽肛門」、そしてボレルによる精神分析の療法の一つとして『眼球譚』に着手し、これは長編となるが、翌二八年書き終えられ、出版される(同じ年に『ナジャ』が出ている)。そしてこの時期、つまり二六年から、彼は美術と考古学の雑誌「アレチューズ」に寄稿しはじめる。これは学術雑誌であって、彼はそこに彼の古文書学、あるいは配属された国立図書館の貨幣室の専門家として、モンゴル、ベネチア、インドの貨幣についての専門的な論文を発表している。「アレチューズ」への協力は二九年まで続く。そして二八年には、「プレコロンビア芸術展」――つまりコロンブス以前の南米文化に関する博物展――に接して、「消え去ったアメリカ」を書く。この論文は、血と残酷さへの彼の関心を明らかにしてきわめて重要であり、以後論文の先駆けとなるものである。
 バタイユにおいてエロチスムは、常に汚辱する行為として現れるということに、昇華に反抗する物質性の存在を認めることができるが、そうすると、後に彼の関心の中枢を占めることになる物質性への関心は、まずエロチックなものとして、小説を書くことの中であらわになったということができる。おぞましさという点では、先行する「松果腺の目」や「太陽肛門」のほうがまさっているかもしれないが、最初の成果が『眼球譚』であることは、量から見ても、また地下出版であれかたちになったことから見ても確かである。
 他方、論文というかたちでこの関心があらわになるのは、少し遅れるようだ。だが右にあげた学術的という枠のうちにあるを論文も、詳細に読んでいくと、ここかしこに後に固有の関心の萌芽が論文という枠を破って出てくるのを見い出すことができる*1。彼は「アレテューズ」に計七つの論文を寄稿しているが、主に書評と紹介であって、長いものは二つである。それらは「ムガール帝国の貨幣」および「ササン朝クシャンの貨幣」と題されていて、後者は純粋な学術的論文であって客観的な記述に終始しているが、前者には、後のバタイユから見てわかることではあるが、学術性の枠を破るような記述がある。四代のムガール帝国の皇帝の貨幣政策について述べているのだが、バタイユは、その中でもっとも華麗な貨幣を造った第四代皇帝のジェハンジルの人物性に、貨幣についての研究という枠を超えるような関心を示している。この皇帝は大酒のみで、残酷で、殺害者で、「激しい愛情」を持った女を、その夫を殺して奪い、后にする。そして彼の鋳造させた貨幣には、イスラムの伝統がある地域にしては珍しく、さまざまの動物が刻印される。このような人物への関心はいかにもバタイユ的で、次の「消え去ったアメリカ」を準備し、またはるか後のジル・ド・レーへの関心を予告しているようだ。
 「消え去ったアメリカ」は学術雑誌に載せられているから、学術論文として執筆されたのだろうが、言葉づかいも客観的と言いがたいものが多くなり、彼の関心はいっそう前面に出てくる。彼はより豊かで進んでいるとされるインカやマヤよりも、〈気違いじみた暴力と夢遊症的な歩み〉を持つアズテカ文明に惹かれる。彼はそこにヨーロッパの観点から言えば悪魔に近い様相を持ったものが信仰の対象とされていること、またその祭礼が、残酷極まる供犠――数千人が生きたまま心臓をえぐり出され、祭司たちはそれを食する――によって恐怖に満たされていることに惹かれる。これはヨーロッパ人に度を失わせ、理解をそれ以上に進ませなかったが、バタイユはさらに、その血にまみれた恐怖が幸福につながっていることを見い出す。彼はそこに〈恐怖の持つ驚くほど幸福な性格〉を見る。だから〈アズテカ人にとって、死はなにものでもない〉と彼は言う。恐怖は極度のものになることで幸福に転化し、そしてこの転化を媒介するのは死だ、というのが、バタイユが教えられたことである。さらに〈この悪夢のような破局はある種のしかたで彼らを笑わせた〉とも彼は書いている。ここには後年のバタイユの主要なテーマが、十分明らかなかたちで顔を出していることを認めることが出来よう。

4 政治的なものへの接近

 小説に現れたものは、作者のもっとも内発的な関心だと言えるだろう。プレコロンビア期のアメリカに対する関心も、内発性からくるところが大きいとたぶん言えるだろう。だがこの同じ時期に、つまりバタイユが青年期を、ヨーロッパが一九二〇年代を迎えるというこの時期に、ただ内発的ばかりではない、つまり外側から否応なしに侵入してくる関心と言うべきものが重なってくる。それはとりあえず政治的と言いうる問題である。
 バタイユは一八九七年生まれだから、二十歳前後に第一次大戦と、ロシア革命と、その後に続くファシズムの勃興過程を見ている。これが知的な青年に精神的な影響を及ぼさなかったはずはない*2。第一次大戦後のフランスは左右への分極が激しく、右翼運動も多くの若い世代を引きつけていたが、彼の政治との接触は、左翼運動への傾斜として始まる。この傾斜はロシア革命後の世代への特徴だったろう。〈私は同世代の多くの人々と同じようにマルクス主義に傾斜する運命にあった〉*3とバタイユは言っている。ところでバタイユにおいて左翼運動への仲介役を果たしたのは、シュルレアリスムであるようだ。二四年、バタイユはレーリスの紹介によって、『シュルレアリスム宣言』を出したばかりのブルトンたちと接触し、前述のように「シュルレアリスム革命」に中世の詩を翻訳することになる。ブルトンとの交遊は、生涯の終わり近くなって和解らしきかたちを取るものの、二、三〇年代においては、ほとんど両立しがたいものだった。ブルトンにとってバタイユは、〈汚れて、おいさらばえ、すえた匂いのする世界で、悦に入っている〉(『第二宣言』)偏執狂だったが、バタイユから見たブルトンは度しがたい観念論者だったからである。バタイユの反理想主義、唯物論は、ブルトンとの対立があればこそ、あれほど先鋭で過激なものとなったと言える。
 だがシュルレアリスムとの接触でもたらされたのは、文学上の刺激だけではない。それはバタイユにとって政治的なものへのイニシアシオンともなった。ブルトンたちは、夢の記述また自動記述などの実験を一九年頃から開始している。ブルトンとスーポーの『磁場』は二〇年のものだが、その試みが前衛的、つまり伝統的な価値観に対する強い批判を持っていることによって、政治的な前衛の関心を引くことになる。関心を示したのは、クラルテのグループである。クラルテとは、一九一九年にアナトール・フランスによって創設された文化人のグループでアンリ・バルビュスを責任者とし、ハインリッヒ・マン、ゴリキー、アインシュタインらを主要メンバーとしたが、若い会員の間では社会主義の影響、ことに第三インター(一九年にコミンテルンとなる)の影響が強かった。二〇年一二月には、トゥールで社会党が分裂し、翌年の一二月には共産党が成立する。こうした動きを背景として、クラルテの一人で、小説を書いていたアンリ・ベルニエ*4が橋渡し役になって、シュルレアリストのグループとクラルテのグループを接触させる。二一年頃からこの交流は始まるらしい。二四年にシュルレアリストたちは、アナトール・フランスの葬儀に際して、フランス労働党までが右派に一致して哀悼の意を表したのに反撥し、それを攻撃するパンフレット『死骸』を出し、続いて「クラルテ」自体もその創設者を批判する。それによって、既成政党の枠を越えた左翼運動が生じることになる。シュルレアリスム運動の機関誌として、二四年から「シュルレアリスム革命」が出ているが、二五年には、政治的パンフレット「まず革命を、常に革命を」*5が出され、文学芸術上の革命を社会革命と重ね合わせようというへ志向をシュルレアリストたちは持ちはじめる。
 この交遊の中にスヴァーリン*6の名前が入ってくる。彼はキエフ生まれのユダヤ人で、子供時代にフランスに移民し、労働運動の活動家となり、二〇年にフランス社会党から共産党が分離するときの創立メンバーの一人である。党の機関誌の編集長を務め、コミンテルンへの代表として、二一年以来モスクワで活動するが、二四年のレーニン死後のスターリンとトロツキーの間の権力闘争で後者を擁護したことで追放され、フランスに戻る。しかし彼は、ソ連共産党と協調路線を取るフランス共産党からも除名される。以後彼はいくつかの独立的なグループを作り、フランスにおける非共産党系の左翼活動家の一中心となる。二五年に彼は「共産主義者会報」を出し、二七年にはマルクス・レーニン主義共産主義者サークル」 というグループを作るが、これは三〇年に「民主共産主義者サークル」と名前を変え、三一年から「社会批評」を出しはじめる。彼自身は三五年に『スターリン』を出す。これはフランスでの最初のまとまったソ連論である。この活動の中にシュルレアリストたちが交差してくる。ブルトンの最初の妻シモーヌ・コリネは、シュルレアリスムの初期にブルトンにもっとも顕著な政治的感化を及ぼしたのは、このスヴァーリンとベルニエだと証言している*7
 二七年にブルトン、アラゴン、エリュアール、ペレらは、共産党に入党する。トロツキーが追放された二四年にクラルテのグループは、共産党批判を行っているし、帰国後のスヴァーリンらを中心とするコミンテルン批判、スターリン批判もすでに開始されていたが、またブルトン自身もトロツキーの『レーニン』に感銘を受け、紹介記事を書くほどであったが、彼らは共産党に加盟する。なにがしかの幻想がまだあったからだろうか。スヴァーリンは相談を受けたが、反対はしなかったらしい。しかし芸術が政治に従属させられ、シュルレアリスムが利用されても理解されてはいないことを感じて、彼らと党の間には齟齬が生じる。ペレはすぐさま離党する。ブルトンも距離をとるが、ただ離党するのは三五年になってからである。一方アラゴンはそのまま党にとどまり、反対に三〇年にはシュルレアリスムの運動から脱退する。

 バタイユとブルトンの関係の最初の結節点となった事件が起こるのは、二九年はじめのことである。この年の二月一二日ブルトンとアラゴンは、個人的活動か集団的活動かの間で態度を明確にするように求めるアンケートを、シュルレアリストのグループとその周辺にいた人物八十人ほどに送付する*8。シュルレアリスム運動からは、二六年にアルトー、スーポー、二八年にはデスノスらが除名され、また自らすすんで運動から離れ、すでに分裂が起きている。だからブルトンとアラゴンのこのアンケートには、このようにたがのゆるんだシュルレアリスム運動の方向性をあらためて明確にしようという意図があったことは間違いない。この質問は同時に、共同行動を行うときには、誰となら行動をともにすることが出来るかを答えることを第二の質問とし、これは多くの紛糾を巻き起こした。だが重要なのはやはり、最初に出された共同行動か個人行動かという問いのほうであろう。それは単に芸術上の運動としてのシュルレアリスムのみにかかわるのではなく、政治的な意味あいを含んでいることは明らかだった。集団行動がというのが何を指すのかは明示されていなかったが、それだけにそれは政治的なものである可能性を持っていた。前述のように、ブルトンたちはこの時期、集団で共産党に入党し、また脱退していた。それにこの時期には、トロツキーの問題があった。彼は二五年に権力機構から排除されたが、この年ソ連領からも追放されたからである。マルマンドは、このアンケートの実行の背後には、トロツキーの影があったと言っている*9。右のアンケートに肯定的に答えた者たちには、三月一一日に集会に出席するよう招待状が出されたが、この集会にはトロツキーの問題が議題の一つとして取り上げられることになっていた。
 このアンケートに対してバタイユは、きわめて簡潔に〈イデアリストの糞ったれどもにはうんざりだ〉と答えている。この頃バタイユは、政治的な行動を行っていないし、思想的な探求もそれほど深かったとは言えないが、ブルトンたちへのこの回答の中には、その政治的な匂いをかぎつけた上での拒否があるように思われる。党を担ぐのであれ、トロツキーを担ぐのであれ、彼らのうちにあるのは、あいも変わらぬ観念論にすぎない。そうである限り、自分の考えるような革命は原理的にあり得ようがない。仮に直観に負うところが大きかったとしても、この時、文学上でも、思想上でも、バタイユの立場は揺るぎようなく明確なものになっていたように見える。

*1 バタイユの「ドキュマン」以前の論文は、全集第1巻におさめられ、十項目ある。うち最初の一つは、古文書学校の卒業論文――一三世紀の騎士団に関する研究――の梗概、二番目がファトラジーの翻訳、最後が「消え去ったアメリカ」であって、「アレチューズ」に載ったのは七つである。引用する二つの論文は未訳である。
*2 バタイユの政治上の活動については、マルマンド『政治的バタイユGeorges Bataille Politique』一九八五年とシュリヤの『バタイユ伝』一九八七年(河出書房新社)に多くを負っている。
*3 『バタイユ伝』上87、OC,t8,p563
*4 ベルニエは、ブルトンやバタイユよりわずか年上で、第一次大戦に従軍したあと、政治ジャーナリスムの世界で活動し、その関係でドリュ・ラロシェルの友人となる。『ジル』でグレゴワール・ロランとして戯画化されているのが彼である。さらに彼はドリュを通じてペニョー家を知り、その娘であるコレットを政治活動の世界に連れ込む。
*5 「シュルレアリスム革命」は二九年まで続く。その最終号に第二宣言が掲載される。その後分裂を経て三〇年から「革命に奉仕するシュルレアリスム」となる。これは三三年六号で終わる。以後シュルレアリストたちは新たに創刊された美術雑誌「ミノトール」に参加する。
*6 スヴァーリンに関しては、次の伝記を参照した。"Boris Souvarine", Jean-Louis Panne, Ed. Robert Laffont, 1993.
*7 マルマンドは、ほかにマルセル・フリエとナヴィルの名を挙げているp23。
*8 このアンケートの文面は、モーリス・ナドー『シュルレアリスムの歴史』思潮社に収録されているp191。
*9 前掲書p33。


Booby Trap No. 18



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バタイユ・ノート3
バタイユ・マテリアリスト 連載第3回

吉田裕



5 「ドキュマン」

 シュルレアリスムとの関わり、およびブルトンとの論争が起こるのと前後して、バタイユは雑誌ドキュマン*1の編集に携わることになる。この雑誌は、前回に見たようにバタイユが古銭学に関する論文をいくつか発表した「アレテューズ」が廃刊になった後を継ぐものとして、古美術商であったヴィルダンシュタインが資金を提供して発刊される。美術批評家であったカール・アインシュタインが編集長、バタイユが事務局長を務める。ヴィルダンシュタインは、当時すでに「ガゼット・デ・ボザール」という正統的な美術雑誌を所有しており、それに対してこの雑誌は、考古学、美術、文化人類学という新しい分野に視野を拡げようとしたものであった。それは学術的な雑誌として計画されてはいたが、実際にはバタイユの方針によって次第に論争的な性格を強め、出資者の意に添わないことになり、年一〇回の発行を予定して二九年四月に創刊したものの、一五冊を出して早くも翌年には廃刊に追い込まれることになる。
 これはバタイユの提案によるものらしいが、ドキュマン=ドキュメントという素気ない雑誌の名前は、美学的な秩序に分類される以前の、またこのような秩序にはどうにも分類できない事物に対する関心を示す。それは三〇歳を越えたばかりで、まだ実績らしい実績もない青年にとっては抜擢に近い仕事で、自分の思うような活動を発表することのできる最初の機会だった。またこの雑誌は、右に書いたように文学にとどまらず、さまざまの分野が交流する場だった。レリスの関係から、トロカデロの民族学博物館にいたグリオール、リヴィエールら新しい学問の開拓者たちが寄稿する。それはバタイユの(またアインシュタインの)ねらいだったが、所期以上の結果をもたらした。さらにこの雑誌には分離したシュルレアリストたち、クノー、バロン、ヴィトラック、デスノス、プレヴェールらが、バタイユをつてとしてこの雑誌に流れ込んだ。そのためこの雑誌は、それが廃刊の原因にもなるのだが、前衛芸術運動の離合集散に一役を買うことになった。
 このような雑誌をどうとらえるか。私の関心は、このノートのはじめに明らかにしたように物質性の上にあるが、この視点は有効だろうか? この雑誌あるいはそこに掲載されたバタイユの記事を包括的に扱った研究はいくつかあって、当然のことながら別の視点を提示している*2。長年の友人であったレリスの「不可能な存在バタイユから不可能な雑誌ドキュマンへ」は、創刊時の状況と代表的な論文の概要を伝えている。レリスはバタイユの諸論文を多く反イデアリスムという観点からとらえているが、それを唯物論にまで読み変えてはいない。ガシェの「思考の早産児」は、「消費の概念」以降の試みをバタイユの最も重要な探究とする立場をとり、その前段としてのドキュマンの論文を、交換と喪失の概念の徹底化を図ってさまざまな事象の隠喩的構造を揺さぶろうとした試みとして読もうとするものである。この隠喩の下に現れるのはまた物質性なのではあるまいか? オリエの「不可能なものの使用価値」は、使用価値と交換価値というマルクス主義的な構図を借り、ドキュマンでのバタイユのねらいをものを交換価値から解放することだとみなすが、さらに使用価値をも越えてものそれ自体の存在を見出そうとするところまで推し進める。彼によればドキュマンとは、〈攻撃的なほどにレアリストである雑誌〉であり、〈不可能事すなわち現実的なもの〉である。この現実的なものは、物質性にほかならない。最近出たディディ・ユベルマンの『かたちのない類似――バタイユによる視覚の楽しき知恵』は、ドキュマンの考察に一冊の本を充当した大部のもので、対象を論文だけでなく、雑誌の編集方針にまで拡げ、写真や図版を照合し、フォルムがどのように変容していくかという観点から綿密な分析を行う。フォルムというのは、ドキュマンにとっては非常に有効な視点だとしても、ほかの著作へとつないでいく場合には、かならずしも接続しやすい視点ではないが、彼がフォルムの反対側に見出すフォルムをなさないものとは、イデアに従属しない物質性が引き起こすものではないのか? この読み換えもまた十分可能であろう。
 ドキュマンはさまざまな分野の論文を主柱にし、書評、展覧会評、それに英文での要約を含んでいるが、そのほか「批評的辞典」と題された一種のコラムがあって、いくつかの事項に対する批評的な短い文章が書かれている。バタイユが執筆したのは、主に論文と批評的辞典の項目である(ほかにいくつかの無記名の短文があるようだが)。ガリマール版の全集には、合わせて三六の項目がドキュマンの論文としてあげられており、ほとんどは片山正樹氏によって二見書房の著作集に訳出されている。
 これらを一瞥してみると、バタイユは第二年度の四、五、六号を除く各号に重みのある論文を一つずつ書き、ほかに批評辞典の項目、書評などを書いていることがわかる。通読してみての印象では、これらの論文は、やはりイデアリスムに対する反対と物質性への関心という観点から一番包括的にとらえられるように思われる。物質性はさまざまの姿をとって現れるが、この多様なあらわれ方をバタイユに許したのがドキュマンであった。バタイユの関心の幅が広いことは、後になってもその通りだが、それでもドキュマンの時代の多様さは群を抜いている。私たちはまず、それら読み合わせることで彼の関心をあぶりださなければならない。彼の関心を私は物質性への関心だと予想するが、そのあらわれ方を重ねていくことで、この物質性は予想よりももっと前方まで進み得るかもしれない。

 ドキュマンに最初に書かれたのは「アカデミックな馬」である。アカデミックな馬とは、ギリシアおよびローマの貨幣の意匠となった馬の文様が、均整のとれた優美なものであったことを指す。馬はそもそもからギリシア・ローマにおいては、カバや猿と違ってイデア的に完全な動物とみなされており、そのためにフォルムとしても完成された姿をとった。それは建築におけるパルテノンあるいは哲学におけるプラトン哲学と同位にある。しかしながら、この完成された馬のフォルムは、ローマに侵入したガリア人によって解体されるのである。ガリア人たちはローマに倣って貨幣を鋳造し、その面に馬の像を刻するのだが、その姿はローマ的な優美さから次第に遠ざかっていく。バタイユは次のように書いている。〈クラシックな馬の姿は、次第に解体し、最後には狂い騒ぐようなフォルムに到達して、規則を侵犯する。そして暗示作用のなすがままに生きる民族の怪物じみた心性を正確に表すことになるのだ〉。
 これはイデアリスムに対する反抗と攻撃、古典的なフォルムに対する異形のフォルムの浮上である。この異形のフォルムは物質性のなせるわざだと考えられなければならない。なぜなら物質性とはイデアに回収されないものであり、その限りでイデアに対しては常に異形なものとして現れるからだ。物質性を異様なフォルムとしてとらえようとすることは、ドキュマンでのバタイユの活動の最も中枢をなしている。このフォルムの解体は、ガリアの馬が示すようにまず、剥き出しにされる動物性とともにあらわれる。この点からいくつかの記事が重なり合ってくる。
 「人間の姿」でバタイユが見出すのは、〈人間と自然の間の全般的不均衡〉であって、自分の存在が宇宙に対して均衡を欠き、非蓋然的なものであることを感じている人間である。その人間が不安に駆られて自分の姿を追求すると、一九世紀はじめのコルセットや腰を協調するクッションによって変形された人間の姿が現れる。社会的な規模で現れたこの〈変形〉は、二〇世紀初頭の平板なブルジョワの写真の中にも、故しらぬ怪物性として感じとることができる。「かたちをなさぬもの」でバタイユは宇宙を取り上げ、簡潔に〈宇宙はなにものにも似ておらず、かたちをなさぬものにすぎない〉、〈蜘蛛か痰のようのなもの〉と言っている。「自然の逸脱」は、シャム双生児をはじめとする人間の奇形への関心を取り上げたものだが、奇形とは、類別を可能にするフォルム化、すなわちイデア化の作用に対して自然がどこかで反抗するものだというところから来る、とバタイユは考える。自然とは物質だが、逸脱は物質がイデアとは異質なものとして存在しているからだ。そして人間が奇怪なものへと惹かれるのは、物質の持つ異和の作用に暗黙のうちに惹かれているからにほかならない。
 かたちのこの拒否は、また動物性として現れる。「ラクダ」は、その外観が〈動物的自然の最も深く不条理である〉ところの動物である。「変身」では、人間の中には動物性が隠されているとされ(そこまでは多くの人が言うことであるが)、それが変身の欲望を起こさせることが主張されている。「低次唯物論とグノーシス」は、唯物論への言及として別に取り上げなければならないが、グノーシス派が残した石に刻まれた動物との合体を示す奇怪な像にバタイユは強く惹かれる。「口」では、動物の体が口から始まること、人間はいざというときには、叫びのようにこの器官において動物性を取り戻すと述べられる。動物性の持つ残酷さは、「カーリ」の主題でもある。
 イデア的なフォルムに対する反撥は、フォルムの構築をほかのどの活動分野よりも重視するという建築という行為への反撥でもある。二九年第二号の「建築」では、建築は秩序をめざす活動の最たるものとして批判され、それにたいして〈動物的怪物性〉が提起される。これを読むとき私たちは、どうしても彼が生涯隠し通したあの一九一八年の「ランスのノートルダム」を思い出さずにいられない。そこでは天空にのびる大聖堂が誉め称えられていたのだが、一〇年後その志向は一八〇度転換される。同じ号の「サン・スヴェの黙示録」は、古文書学者としての仕事のように見せつつも、関心はまったくバタイユのものである。この論文は一一世紀に成立したヨハネ黙示録の絵つき注釈本の、とりわけそこに付された絵についての分析だが、バタイユはその構成が、構成的というよりは、それに対する反撥から来ていることに注目している。〈建築的なものは何もない〉、また〈建築的フォルムから自由で独立している〉と彼は述べている。

 建築とは上方に向かう意志だが、建築が拒否されるとすれば、浮かび上がるのは、下方、大地、あるいは地下に対する嗜好である。二九年第三号の「花言葉」はこの傾向を表している。たんぽぽが真情の吐露を、水仙がエゴイスムを、にがよもぎが苦衷を表すというのは、花の機能を表しているのではないから一種の象徴作用であり、その点では花言葉は花に対するイデアだということになる。花とは花弁あるいは花冠ではなく、雄しべと雌しべの存在であり、それは花弁を除去された花の写真が示すごとく、少しも美的なものではない。普通考えられている花も、本来の花からすれば、より美的なものへの置き換えがあって、それはイデア化なのだ。彼は雄しべ雌しべが花冠となりかわり、さらに花言葉となりかわるからくりがあることを見出す。〈愛の記号が雌しべや雄しべからそれらを取りまく花弁へと位置を変えるのは、人間の精神が、こと人間に関する限りでは、この位置替えをする癖があるからだ〉。バタイユはこのイデア化を徹底的に批判しようとする。そのために花言葉は花冠へ、花冠は雄しべと雌しべへと置きなおされるのだが、この置き直しは雄しべ雌しべのところでは止まらないのである。それは花を、それを支える茎や葉に置き換え、ついには地中にかたちを持たぬままにひろがる根を見出すのである。花の根底にあるのは、腐敗し粘つく闇の世界、先の例と結びつけるならば、かたちをなさぬものの物質的な世界なのだ。
 花冠から根にいたるこの構造的な転位の過程は、通常は花のイデアによって隠されているが、それでもそれが赤裸にされることがある。それは死すなわち枯れることによってである。バタイユは次のように書いている。〈下肥の悪臭から養分を汲み取っていたその花は、天使のように無垢で感激的な飛翔によってそういうものから逃れきったように見えていたにもかかわらず、突如その本源の汚辱のもとに駆け戻るごとくである〉。美と汚辱は一体なのだ。
 同じ主張が、たぶんドキュマンの中で言及されることの最も多い「足の親指」にも見出される。足は、直立することを選んだ人間を支えるものである以上、最も人間的な器官であるはずだが、それはいっそうの上方、天空を求めた人間の性向によって、醜く悪臭を放つものとして忌避されることになる。だがこの論文の進んだ点は、この忌避されたものが、花の枯死によって連続性が示される以上に、本質上の魅惑を持つものでもあることを指摘した点である。足は女性の足というかたちをとって、逆らいがたい魅惑を持つようになるからだ。
 イデア的なものが、下方の醜悪なものに基底を持っているということは、ただイデア的なものの意に反して露呈されるばかりでなく、イデア的なものそれ自体の中にその衝動が隠されていると見なすべきなのかもしれない。批評辞典の一項目で短いものであるにもかかわらず、同じ時期の『眼球譚』との関係で言及されることの多い「眼」では、イデアの象徴としての眼が、ブニュエル・ダリの『アンダルシアの犬』に描き出したように、破壊を誘って止まぬものであることが示される。
 また根から花言葉にいたるこの移転の作用deplacementは、ドキュマンの最後の論文のなかで置換transitionという言葉によって再度取り上げられる。それは「現代精神と置換の方法」であって、そこでは現代芸術が方向を失って、本来の芸術が持っていた奇怪なもの――すなわち物質的なもの――から力を汲み上げる能力をなくし、修辞と置換の方法に熟達するばかりになってしまったことが批判されている。

 動物性、下方的存在、おぞましいもの、残酷さなどは、見てきたように物質性のあらわれだが、ドキュマンには物質・質料を正面から触れた論文が書かれている。それは二九年第三号の「唯物論」および三〇年第一号の「低次唯物論とグノーシス」である。後者の主題となっているのは、一一世紀に徹底的な弾圧を受けて滅んだグノーシスと呼ばれる宗教上の運動である。この運動から残されたのは、動物と人間が複雑に組み合わされた奇怪な石の彫像だけ3であって、それが動物性への傾斜としてバタイユの関心を引いたが、彼はまたはっきりと〈これらの像のうちには、この低次の物質のイメージを見ることができる〉と書いている。だからグノーシスの奇怪な像への関心の根底にあるのは、やはりイデアの世界への昇華を拒絶し物質のままにとどまろうとする物質なのだ。〈低次の物質は、人間のイデア的渇望の外にあって異質なものであり、そのような渇望の結果としての存在論の大がかりな機構となりおおせることを拒否する〉と彼は書いている。イデアの世界に回収される物質は高みに置き換えられる物質だが、それを拒否する物質を低次の物質、それを根底においた物質論を彼は低次の物質論と呼んだのである。

 この徹底的な物質論を前にしたとき、ほかの物質論はどのように映るか? これまでの唯物論においては、物質は体系化されるが、その階層的関係付けは、観念論の性格を与えることになる。これが機械的あるいは物理的な唯物論の実体である。バタイユがもう一つ取り上げるのは、現代の唯物論である弁証法的唯物論である。バタイユは弁証法的唯物論が、グノーシスから受け継いだ概念から発達したヘーゲルの絶対的観念論を出発点としながら、体系化と抽象化を免れてきたことを評価し、それがグノーシスとさほど異なっていないと言う。この点で彼はマルクス(この名は引かれていないが)主義への親近性を告白していると言える。しかしながら、この親近性もまったく肯定的なものではない。なぜならその出発点となったヘーゲルについては、脚注においてだが、その完璧な体系性のために物質的な要素は去勢された状態に貶められていると批判されており、それを転倒しつつであれ出発点とすることは、物質的要素のこの去勢状態を引きずって行くからだ。「人間の姿」では、ヘーゲルの弁証法には、絶対的に異質であるものをごまかしによって回収してしまう作用のあることが批判されている。
 「低次唯物論とグノーシス」には、弁証法的唯物論と呼ばれるものへの批判が声高に叫ばれているのではない。だが以後のバタイユの物質に関わる探究をたどっていくと、それがどう見ても右のように名付けられる理論と合致しそうもないありようが描き出されてくる。たとえば「低次唯物論とグノーシス」の中でも、物質への傾斜を〈悪への不安な譲歩〉と見なす如きは、けっして弁証法的唯物論の中からは出てこない見方であろう。私にはバタイユは、物質を労働に移行する直前でとらえようとしたのだと思える。それは後に、労働を越えるところに非生産的消費をとらえようとすることになったのと同根だが、そこに現れる物質は異様なものである。それをよく表しているのは、「足の親指」最後の次のような一節であろう。〈現実に立ち戻るということは、いかなる新たな承認を含むわけではなく、人が下劣なことがらに、価値転換もせず、眼をかっと見開きながら、叫びださんばかりに魅惑されることを意味する。ちょうど足の親指に眼を寄せて大きく見開くように〉。この物質は、イデアへはもちろんのこと労働へも回収されないまま、人間を魅惑しかつ恐怖させるものである。

 この度しがたい物質性がどのように動き、どのような作用をもたらすかという問いかけに応答しようとするように読みうる論文もドキュマンにある。それは「素朴絵画」と「供犠的な身体の毀損とヴァン・ゴッホ」である。この二つが一緒にするのは、絵画あるいは画家を主題としているからではなく、物質的なものに対する同じ関心に貫かれているように見えるからである。
 「素朴絵画」は、絵画の発生をめぐるリュケ氏という人物の書物に対する批判だが、リュケ氏は、絵画の発生を類似に見ている。子供あるいは原始人類は、たとえば壺に手を突っ込んで顔料を壁になすりつけるが、そうして出てくる痕跡がなにかの形に似ることがある。それを修正しながら類似を見つけだしていくことが絵画を成立させるというのが、バタイユが見るところのリュケ氏の考えである。ところで、バタイユは同じ状況を想定しながら、そこに破壊と変質を見るのだ。顔料を壁に擦り付けるとき、それは対象である壁を、ひいては描くための材料そのものを破壊し、あるいは変質させることである。その結果類似が現れるかどうかは、第二段階の問題にすぎない。〈造形芸術の根底にあるのは、手の下にあるものを破壊することである〉あるいは〈芸術は・・・連続的な破壊から生まれる〉と彼は述べる。
 ところでこの破壊あるいは変質とはなにか。私にはそれは、物質自体に衝突することを指しているのだと思える。類似においては、物質はかたちをなぞられるだけで、本当はそれは触れられてもいない。ところが破壊と変質が想定されるとき、そこでは物質は触知され、運動へと投入される。彼は芸術の根底に破壊と変質を考えたとき、そこに物質の運動を見ていたことは確かである。
 「供犠的な身体の毀損とヴァン・ゴッホ」はドキュマンの最終号に発表されたものだが、自分の耳を切って娼婦に届けたゴッホの例を皮切りに、故知らぬ力、あるいは外側から来る声に強いられるようにして耳、眼、指などの身体の一部を自分で切り取って捧げた人々の例を検討している。ピカソ頌として書かれた「腐った太陽」も同じだが、ゴッホの例をたどるならば、彼は以前から太陽あるいはその代置としてのひまわりやろうそくに憑かれており、彼の事件は太陽へ犠牲をささげる行為であった。この点でゴッホらの例は、多くの文化に見られる供犠と共通するが、異なるのはゴッホらの例では、供犠は自己毀損として行われたという点である。文化としての供犠においては、捧げられるもの=犠牲獣と捧げる者=祭司は別の存在であり、現世の有用性の網目を抜け出て聖なるものとなるのは前者であって、祭司及び供犠の参加者は、この犠牲獣に同化することで擬似的に聖なる世界を経験するにすぎない。それに対してゴッホらの例では捧げられるものと捧げる者は同一であり、後者擬似的にではなく、実践的に聖なる世界を経験するのである*4
 供犠の性格がこのように突き詰められるとき、その性格はいっそう明らかになってくる。バタイユは次のように言う。〈こうした比較をあれこれ辿ってくると、贖罪や各種の目的に供犠の機構を利用することは二義的なものに思われてくる。そして人格の根源的な変容――それは近親の死、成人式、新しい収穫の賞味など集団生活のなかでおこるほかのどんな変容とも結びつきうるのだが――という基本的な事実のみを引き出したくなる〉。述べられているのは、供犠と名付けられる儀式は必ずしも宗教的とみなされる必要はないということ、そして供犠の根底には人格の変容があるということだ。後者については論文で繰り返し述べられている。変容とは傷つけることであって、それによって傷つけられたものは自己の同一性をなくし、自己の外に出る。ところでそれをいう変容という言葉は、先の「素朴絵画」での変質と同じalterationという言葉なのだ。わずか一号だけの違いで使われたこの言葉は同じ意味を持っていると考えることは無理ではあるまい。人格の変質が、身体の毀損というかたちをとるのならば、人格といわれているもののうちにあるのもおそらくは物質である。だから供犠とは本当は、人間の存在の物質性を明らかにし、それを傷つけるというかたちのもとに運動状態へと投げ入れることなのである。

 ついでこの物質性は、社会的なものへの視野を拡げる可能性を持つ。すでに「唯物論」でバタイユは次のように述べている。〈唯物論は、人為的に切り離された物理学の諸現象のような抽象的概念の上にではなく、心理学的また社会的諸事実の上に直接立脚しない限り、老いぼれの観念論とみなされるだろう〉。物質の社会化は、ドキュマンでは、それ以後のバタイユの仕事と比較すればだが、十分に深く追求されたと言えない。バタイユは「ごたごた三人組」では、娯楽はイデアリスムの対極にあると言っている。また「エマニュエル・ベルル」では、〈社会の基底にある層〉の重要さを語っている。「八〇日間世界一周」、「ブラック・バード」、「ハリウッド」、「xのしるし」などは、レビュウ、漫画、犯罪写真集など紹介というかたちをとった大衆という最も基底的な社会層への関心である。この層は、言うまでもなく、低く、猥雑で、イデアからもっとも遠く、社会の中の物質性に相当する。物質そのものの探究は、社会の中での物質性の探究へと展開されねばならない。ドキュマンの記事はその最初の関心のあらわれであって、可能な限り多様な姿をとったが、以後それは理論的な探究という方向をとりはじめる。

*1 ドキュマンついては復刻版を参照した。Edition Jean Michel Place, 1991.
*2 以下に参照する論文の出典は次の通り。レリスの「不可能な存在バタイユから不可能な雑誌ドキュマンへ」六三年、ガシェ「思考の早産児」七一年、以上二つは『バタイユの世界』七八年、青土社に訳されている。オリエの解説 La valeur d'usage de l'impossibleは前記復刻版の冒頭。ディディ・ユベルマンについては、Georges Didi-Huberman,"La ressemblance informe, ou le gai savoir visuel de Gerges Bataille", Ed.Macula, 1995.そのほかバタイユ全体にわたる唯物論の問題については、西谷修氏の「物質的恍惚のために」ユリイカ八六年二月号が参考になった。
*3 第二次大戦後になってさまざまな文書が発見され、グノーシスの関する理解は二〇年代とは大きくかわってきた。西洋思想大辞典、平凡社、「グノーシス主義」の項。
*4 自己が自己を供犠に捧げることを、バタイユはこの論文で「神の供犠」だと言っている。いうまでもなく、これは後になってバタイユが、イエスの処刑に見た出来事であり、ニーチェによる神の殺害のことでもある。


Booby Trap No. 19



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バタイユノート3
バタイユ・マテリアリスト 連載第4回

吉田裕



6 二つのB・ブルトンとバタイユ
 二、三〇年代のバタイユにとって、最も重要な因子のひとつがシュルレアリスムであったことは確かである。『文学と悪』(一九五六年)の序文の冒頭で彼は、〈私が属する世代は、騒然とした世代である。それはシュルレアリスムの中に文学上の出生を負っている〉t9,p171と書いている。バタイユは、シュルレアリストの集団の一員ではなかったから、彼のことをシュルレアリストだったとは言えないだろうが、彼は自分のことを〈シュルレアリスムの内部の敵〉だったと言う。けっして外にいたとは考えていないのだ。またマソン、クノー、レリス、カイヨワ、モヌロ等彼の親しい友人は多くこの運動にかかわった人々であった。
 シュルレアリスムの最大の推進者だったのは、言うまでもなくアンドレ・ブルトンである。このブルトンとバタイユの関係には、結節点となる出来事が二つある。一つは先先回のノートでも触れた二九年の『シュルレアリスム第二宣言』と「死骸」というパンフレットの応酬であり、もう一つは三五、六年のコントル・アタックの結成と分裂という事件である。前者をめぐっては、「死骸」のひとつの記事である「去勢されたライオン」とそれに続くはずだった「サドの使用価値」と「老練なもぐら」*1がある。一方コントル・アタックの分裂をめぐっては、ブルトンやシュルレアリスムを特に名指した論文は書かれていない。この事件でバタイユとブルトンはたしかに激しく衝突するのだが、そこでのブルトンたちは芸術家あるいはインテリゲンチャ一般として現れており、したがってこの争いにおいては、シュルレアリスムが直接問題になったとは言えない。それに反して『第二宣言』と「死骸」では、シュルレアリスムそのものが問われており、バタイユとシュルレアリスムの関係がはらむ問題ははるかに鮮明に現れている。バタイユは生涯を通してシュルレアリスムを論じた文章を多く書いている。全集からブルトンとシュルレアリスムに関するものに、マソン、シャール、ダリ、ツアラ等に関する評論を合わせれば三〇を越える。数だけで言えば、戦前よりも戦後のほうが多いが、後者には、論争的というよりは反省的回想的なものが多く、その主題は二、三〇年代にかかわるものであるから、バタイユにとってのシュルレアリスムはやはり戦争以前の時期の問題である。
 戦後で重要なのは、四六年の「シュルレアリスムおよび実存主義とのその差異」、四八年の「シュルレアリスムの宗教」、また未発表のままで終わったが、五一年頃の回想記「シュルレアリスムその日その日」などであろう(いずれも未訳)。戦後のシュルレアリスム論を通読してみて印象に残るのは、シュルレアリスムに対する好意的肯定的な評価である。それは三〇年前後の激烈な批判と比べると意外な印象を与えるほどだ*2。そしてこれに応えるように、ブルトンは一九四七年『秘法十七』(刊行は四四年)をバタイユに送って、その献辞に〈人生のうちで知るに値した数少ない人々の一人であるバタイユに〉と書く。これはふつう二人の中が修復されたしるしと見なされる。だがブルトンにとってバタイユの存在は、どれくらいの重要さを持っていたのだろうか。彼がバタイユとの関係修復に同意したことは間違いないだろうが、右の献辞は刊本に書き込まれた個人宛てのものにすぎず、四六年の「シュルレアリスムと実存主義」でバタイユが『秘法十七』を誉めたあとのことである。もっとも思想的な関係は人間的な関係に還元されるものではないし、ブルトンとの個人的な人間関係がバタイユにとってのシュルレアリスムと関係のすべてであるわけではないが。
 しかし、バタイユとシュルレアリスムの関係を検討するに当たっては、人間関係を知っておく必要はあるだろう。前衛的実験的な運動体の常として、シュルレアリスムは度重なる離合集散を経験している。それを辿るのは煩雑な仕事だが、それでもその作業を行っておくことは、後のいっそうの煩雑さを避けさせることになる。また私たちはバタイユがナドーの『シュルレアリスムの歴史』を批判して、シュルレアリスムは集団の歴史ではないと言っていること*3を知らないわけではないが、特に外国の読者にとっては、基礎的な事実を押さえておくことはその先に進むために必要な条件のひとつであろう。
 バタイユとシュルレアリスムとの関係は、二四年に四才年下のレリスと知り合うところから始まる。彼はさらにレリスによって、画家アンドレ・マソンに紹介され、この二人はバタイユにとって終生の友人となる。同時に彼は当時ブロメ街にあったマソンのアトリエに出入りして、そこに集まる画家や詩人たち、マクス・ジャコブ、ホアン・ミロ、パンジャマン・ペレらと交遊を持つことになる。ところで二四年とは『第一宣言』が出た年である。これ以前にブルトンたちはスーポーの自動記述の実験、デスノスの眠りの実験によって多くの画家や詩人を引き寄せていた。マソンはすでに参加者であったが、『宣言』を経てさらに多くの詩人たちが参加しようとしている時期であった。
 バタイユは惹かれながらも参加はせず、距離をとり続ける。回想記である「シュルレアリスムその日その日」によって辿ってみると次のようである。二四年に彼は、この『第一宣言』をレリスから示され「読めたものではない」という感想を持つ。それ以外に証言は残されていないが、後から考えればバタイユは、〈地上を後にせんとあこがれる精神〉が称揚されているのに異和を感じたのだろうか。「溶ける魚」も自動記述の理論も彼の食指をさして動かさなかったようだ。だがレリスを通してブルトンから、彼の専門であった中世の文書から滑稽詩(ファトラジー)を訳してくれるようにとの依頼を受け、それは翌二六年の「シュルレアリスム革命」の第六号に掲載され、バタイユがこの雑誌に対する唯一の寄稿となる*4。この寄稿は無署名で行われるが、彼ははこれを機会にはじめてブルトンと会う。この時シュルレアリスム運動の総帥としてのブルトンの権威は絶頂にあり、バタイユは圧倒される思いを経験する。〈その時、シュルレアリストたちの様子は心打つものだった。彼らは人を常に強く印象づけた〉。しかしバタイユは同時にその権威主義的態度に強い反撥を感じ、またブルトンが自分に好意を持っていないことをも知ることになる。彼はブルトンが自分のことを「偏執狂」だと言ったということをレリスから教えられる。こうして彼はシュルレアリスムに加わることはない。この時期彼は、親しい友人たち――特にレリス――がシュルレアリスムに惹かれていくのを見て、孤立を感じていたようだ。彼は次のように回想している。〈私はただ私が愛している、そして私にとって重要な人たちをこの影響から引き離したいと願った。いずれにせよ私は、ブルトンがふりまいている不安が最も非屈従的な人々を苦しめ、彼らをアンドレ・ブルトンを動かすことのないものに対しては無感覚にしてしまうような世界で生きることは苦痛だと思ったのである〉。
 だがシュルレアリスムの側も一枚岩だったわけではない。二六年のモロッコ戦争を契機として彼らは「クラルテ」に接近し、政治化左傾化が始まる。その結果二七年にはブルトン、アラゴン、エリュアール、ペレ、ユニックが共産党に加盟する。だがアラゴンを除いてうまくゆかず、同年のうちに実際活動から離脱する。ブルトンは最終的には、三三年末に除名される。その反面「催眠実験」などは重視されなくなり、シュルレアリスムは初期とは違った性格を持つことになる。これによってアルトー、スーポー、デスノス、プレヴェールらとの間に齟齬が生じ、ある者は除名され、ある者は離反する。
 おそらく緩みはじめたたがを締めるために、また政治的な行動に踏み切るための準備として(二九年にトロツキーがソ連から追放され、ブルトンは彼を援助しようとする)、二九年二月一二日にブルトンは「共同行動に関するアンケート」を(本ノートの第2回参照)をシュルレアリストとその周辺の人々に送付し、三月一一日カフェ「シャトー・バー」に集まるよう要請する。これに対してバタイユが〈イデアリストの糞ったれどもにはうんざりだ〉という返答を寄せるのも前に見たとおりである。この以前にバタイユは、二七年に「松果腺の眼」「太陽肛門」、二八年に「消え去ったアメリカ」『眼球譚』を書いているが、理論的な言葉でイデアリスムへの批判を明言したのは、これが最初の機会である。
 このアンケートは、多くのシュルレアリストたちに去就を明らかするよう求めるものであった。そして「トロツキーの最近の運命を検討」するための集会は、大荒れの後流産する。そして離反者たちが、次の活動の場を求めて近づいたのが、二九年の四月に発刊されようとしていたドキュマンであった。バロン、デスノス、レリス、プレヴェール、クノー、リブモン・デセーニュ、ヴィトラック、デュシャンらは、バタイユをつてとしてこの雑誌になだれ込む。これを見てブルトンの側には、シュルレアリスム運動を妨害する意図が働いているような疑心が生じる。バタイユの側にも対抗するグループを作ろうとする意図がなかったとは言えないようだが、結果としてブルトンは激しい敵意を、この年の一二月、「シュルレアリスム革命」一二号の『第二宣言』というかたちで爆発させることになる。そこではバタイユが最も激しい攻撃にさらされる。
 これに反撃するために計画されたのが第二の「死骸」であって、翌三〇年の一月一五日に出される。これはかつてアナトール・フランスを批判するために出されたパンフレットの題名をブルトンにぶつけたものだが、音頭をとったのはバタイユではなくデスノスであり、資金はドキュマンの編集者であったアンリ・リヴィエールが出す。執筆者はデスノス、リブモン=デセーニュ、プレヴェール、クノー、ヴィトラック、レリス、ランブール、ボワファール、モリーズ、バロン、カルペンティエルにバタイユの一二名で、それぞれに口汚いまでに激しい批判の言葉をブルトンに対して書き連ねた。この衝突は双方に甚大な被害をもたらす。「第二宣言」が掲載された「シュルレアリスム革命」誌は、それが最終号になるし、ドキュマンも、右のような有象無象の闖入者に苛立ったヴィルデンシュタインが資金を停止することで、三〇年末の第二年次八号で廃刊になってしまうからである。

7 「去勢されたライオン」
 バタイユはブルトンとのこの抗争に全精力をそそぎ込んだように見える。バタイユの反論は、公開された「去勢されたライオン」のほかに未公刊のものがいくつかあって、それはガリマール版全集の第二巻に「ブルトンとの論争資料」としてまとめられている。それらは「ブルトンへの手紙」「サドの使用価値」「老練なもぐら」と草稿類である。ほかに、この時期彼はいくつかの雑誌にブルトン、エリュアール、ツァラ、クルヴェルらの著作に対する書評を書いている(当然厳しいものである)。それからドキュマンの諸論文は、中にブルトンの名前は現れないものの、この論争の背景として読まれるべきだろう。なぜなら、ブルトンからのアンケートに応えたのが二九年二月のことで、その時彼はブルトンとの全面的な対決を決意したはずだが、そうであれば同じ年の四月に発刊されたドキュマンの最初の号の「アカデミックな馬」にはすでに、ブルトン批判がこめられていたと考えられるからである。一方ブルトンは『第二宣言』で、バタイユを批判するためにドキュマンの諸論文、「サン・スヴェールの黙示録」「唯物論」「人間の顔」「足の親指」、とりわけ最後にサドを引用した「花言葉」取り上げるが、これは単に偶然目に留まったためではなく、それらのうちにはっきりとバタイユの批判を読みとっていたからに違いない。このブルトンの批判に対する直接の反撃は「去勢されたライオン」で行われ、そのあと「サドの使用価値」「老練なもぐら」が準備され、ほとんど完成原稿の域にいたるが、未発表のままに残される。以後のドキュマンの諸論文では、アカデミックな雑誌をめざしていた出資者の機嫌を損ねまいという配慮がおそらく働いていたためだろう、相変わらずブルトンを名指すことは行われないが、前回に見たようないや増す物質性への関心には、それまで以上の対抗意識がこめられていたことは間違いない。
『第二宣言』でブルトンがもくろんだのは、自分とシュルレアリスムの立場を明確にし、新たな出発の基点を定めることであった。新しさは、社会的政治的な問題の発見とそれと対立するように見えるがシュルレアリスムの秘教化という二つの志向をともに押し立てることであった。彼は〈私たちの宿命は、現に私たちがそうしているように、全面的かつ無制限に唯物史観の原則に同意することだ〉あるいは〈シュルレアリスムは・・・社会的にはマルクス主義の公式を断固として採用するものである〉と言っている。同時に彼は〈私の願いはシュルレアリスムの深遠、誠実な秘教化occultationである〉とも言う。この途上で、先駆者と認められていた詩人作家を退け(例外はロートレアモンくらいである)、同様にデスノス、マソン、ヴィトラックらかつての同志たちも退けられる。バタイユはシュルレアリスムのグループには一度も参加したことがなかったにもかかわらず、これら離反派の中心とみなされて激しい批判を浴びることになる。
 ブルトンは、バタイユがことさらに汚れて堕落したものばかりを取り上げるのを批判する(この頃には『眼球譚』を読んでいたことだろう)。ブルトンはドキュマンの「唯物論」中の〈生のままの諸現象の、一切の観念論を排除した直接的解釈である唯物論は、もうろくした観念論とみなされないためには、経済的・社会的現象の上にじかに基礎をおかねばならないだろう〉という一節に引き、〈古めかしい反弁証法的唯物論の反撃が、今度はフロイトを通って安易に己の道を切り開こうとしているだけだ〉と述べる。また〈「観念」に対する彼の病的な恐怖は、彼がそれを伝達しにかかる瞬間から、観念的傾向を取らざるをえない〉とも言っている。ブルトンからすれば、バタイユのいう物質は、弁証法的また史的唯物論に媒介されないために、再び観念化されてしまうのだ。
『第二宣言』を読んでバタイユが、〈シュルレアリスムの理念がめざすのは、ただ単に私たちの精神の力を全面的に取り戻すことである〉というような箇所に苛立ったことは想像に難くない。「去勢されたライオン」は、ことの性格上ほとんど悪口の応酬に近く、論理的な批判が展開されているとは言いにくいが、批判の眼目を読みとることはできる。彼の批判は、ここでは彼個人への批判に対する反批判に限定されず『第二宣言』の全体、すなわち今上げた二つの事項に応じるものである。神秘化と左傾化は、バタイユを読者にはすぐ分かることだが、バタイユにも現れる傾向である。だがそれはブルトンの場合と少し違っている。この違いにバタイユは苛立つ。ブルトンの言う秘教化についてバタイユは、次のように反論している。〈ほとんど不可避な精神的な去勢に関して、どんな人間もが持つ忌まわしい意識は、通常の条件においては、宗教的な活動に翻訳される。なぜなら右に言われた人間は、グロテスクな危険を前にして逃走するため、またそれにもかかわらず存在しているという感覚を味わいたいために、自分の活動を神秘的な領域においてしまう〉すなわちブルトンの秘教化は、精神的な高みへ登ってしまうことからくる不安を隠蔽するためなのだ。〈誰も神秘的な自由など望みはしない〉とバタイユは言う。他方政治化については、ブルトンが二七年に共産党に加盟したことを念頭に、近代社会の解体に際して〈革命的言辞の貧しい駄弁〉に陥ったと攻撃する。しかしこれらの批判は十分論理的に展開されたとは言えない。その仕事を継続するためにもっと詳細な論文が着手される。

8 「サドの使用価値」
『第二宣言』でブルトンは、バタイユを批判するためにドキュマンの論文を取り上げているが、それらの中でバタイユが第一に反応したのは、サドにかかわるものである。応酬がサドをめぐって展開されることになったことには、バタイユの側に常日頃から、シュルレアリストたちが、サドを愛玩物化し、破壊的性を曖昧にし、骨抜きにしてしまっていることへの批判があった(〈サド讃仰者たちの振る舞いは、初期人類たちが自分たちの王に対したときの振る舞いとそっくりである。原始期の臣下たちは、王を深く憎悪しつつ賛美し、一方で完全な無力な人間にしておきながら、なお賛辞でこれをおおったのである〉と彼は言っている)。具体的には、バタイユは、サドが美しい薔薇をわざわざ取り寄せては、汚水溜の上でその花弁を毟り散らしたという挿話を引いて、サドのうちには美しい花弁の下には雄芯という醜悪なものがあることを明らかにしようとする意図が働いていたことを示そうとするのに対して、ブルトンはそれが図書館員の夢想にすぎないと揶揄したあとで次のように言う。〈けだし、サドの場合は、その精神的・社会的解放への意欲は、バタイユ氏のそれとは反対に、はっきりと人間精神をしてその鎖をかなぐり捨てさせる方向をめざしており、その行為を通じてひたすら詩的偶像を非難しようとした、つまり好むと好まざるとにかかわらず、一輪の花を、誰でもそれを贈りうるという範囲で最も低俗な感情と同様に高貴な感情のきらびやかな伝達手段に仕立て上げるあの常套的な「美徳」を非難しようとしたと考えざるをえないのである〉。
 バタイユが反論するのは、仮に薔薇の挿話が伝説にすぎないとしても(バタイユはモーリス・エーヌに手紙を書いてそのことを確認している)、ブルトンの読み方のうちに、図らずもブルトンのイデアリスムが明瞭に見えてきたからである。サドの伝説に「美徳」への批判を読みとることはその限りでは正しいかろう。だがそれもやはり、バタイユからすれば十分な激しさ、正当な激しさを持ってはいない。なぜならたんに美徳に対する批判にとどまらず、その対極にあるもの、すなわち汚辱と残酷に満ちたものを明瞭にするところまで読まれない限りは、この挿話――事実であれまた伝説であれ――の十分にサド的な読み方にはならないからである。サドの物語の本当の価値は破壊と残酷をそのまま提示したところにある。しかしそう言うだけなら、それはまだ読み方の違いにすぎない。だがこの論文でバタイユは、この違いが思想上の違いにあることを証明しようとする。それが一九項目に及ぶ後半部の作業である。
 バタイユは第一節で、世界が多くの場合宗教と世俗の二つの部分に分かれてきたことを指摘し、前者をそれが溜め込んできたエネルギーの非生産的な排出にかかわるために「排泄excretion」、後者を生産を旨とするために「獲得appropriation」だと定義する。宗教はその非生産性によって俗世間から区別されるが、このように排除されるものをバタイユは、「異和体un corps etranger」と呼んでいる。そして彼は、獲得は対象を同化することであるために同質性を、排泄は切り離すことであるために異質性を与えると考え(第三節)、これらの対比は、バタイユにおいて最も一般的には、ホモ(同質)的とヘテロ(異質)的という表現でとらえられることになる。この対比が単なる二項対立ではなく、相互に循環するものであることが繰り返して協調されていることに注意しなければならないが、それは後にバタイユの一般経済学の根幹になるものであって、今回が最初のあらわれであろう。そして後者にかかわる探究を、バタイユは「異質学heteroligie」の名前で構想する。一時期彼はこれに学問的な体系を与えようとし、さまざまのデッサンを行うが(それらは全集第U巻に「異質学に関する資料」として集められている)、その最初のあらわれが「サドの使用価値」である。だが異質学の方面へは、今は立ち入らない。
 同質的で異質者を排除する社会、実際上はブルジョワ社会として現れるこの社会に対する不満と批判は、シュルレアリスムと共通するところであろう。しかしながらバタイユの特異なところは、この異質なものをより深く分析し、異質さの本質をさらに見出そうとするところである。第六節で彼は次のように言う。〈しかし次のことを広く認めなければならない。すなわち宗教は聖なる領域の内部において、深い分裂を引き起こし、それを高く優れた世界(天上的で神のものなる)と低く劣った世界(悪魔的な世界、また腐敗の世界)へと二分する〉。この更なる分裂は、同様に「消費の概念」以後の読者には親しいものだが、はじめて現れるのはこの時のことである。そしてこれらのうち前者の崇高な世界は、異質性を本質とするはずであるのに、権力と合体し、同質化してしまう。それはこれまでのあらゆる宗教、あらゆる王権の辿った道である。それに対して〈ただ低い領域のみが、獲得の努力のことごとくに抵抗する〉。こうして彼は、ただ低いものだけが異質性を貫くのだと主張するにいたる。こうした主張が、ドキュマンの「アカデミックな馬」「足の親指」「かたちをなさぬもの」「低次唯物論とグノーシス」などと通底していることは明らかである。
 低い領域に属するものとは、死、破壊、腐敗、恐怖、残酷さである。人間はこれらに惹かれる部分を必ず持っている。それは隠され、押さえつけられているが、どこかで必ず頭をもたげる。バタイユは第一三節で次のように言う。〈人間の世界のただ中で恐ろしく、また聖なるものだと主張するすべてに参与するということは、限定された無意識なかたちのもので起こる。しかしこの限定と無意識は、かりそめの価値しか持たないことは明らかである。そして人間を死や、死体や、また身体の恐ろしい苦痛に結びつけるエロチックな絆に対するますますシニカルな意識の方へと、この人間たちを引っ張っていくのである〉。そしてこの過程をもっとも見事に実践して見せたのが、バタイユによればサドなのだ。執拗に繰り返される陵辱、殺人、背徳のさまざまは、異質なものへの関心を決して高貴なものへと回収させることなく追求したしるしである。そして死体や恐怖とは、バタイユの言うところの物質性なのだが、この意味ではサドとは物質の最大の探求者なのだ。
ところで、サドにおける死や死体が物質性を表しているとすると、ここにもう一つの運動が絡んでくる。言うまでもなく革命の問題である。それはサドが大革命に深くかかわった作家であることから当然推測されることだが、もっと原理的に言えば、物質の運動そのものに触れることであったからだ。物質の運動に触れることは、高貴な異質性によっては、仮にそれが異質性のひとつであるとしてもなされえないことである。ここにサドの世界と革命の世界のある共有性が生まれる。バタイユは「サドの使用価値」を、ほとんど同時にプロレタリア革命の文脈と重ねて叙述している。だから彼は「老練なもぐら」へとわたっていく草稿のひとつの冒頭に、マルクスから〈自然におけると同様、歴史においても腐敗は生命の実験室である〉という一節を引用し(これはのちに「老練なもぐら」のエピグラフとしておかれることになる)、最後にサドを連想させる次のような一節を書き記す。〈最も強く感覚可能で人間的な展開は、それ以来サディスト的な意識、すなわち解体の過程を積極的に評価することに結ばれている。この過程の中では、人間の精神が悲劇的なやり方のみならず、低次で恐ろしいまでに卑俗なやり方で巻き込まれている〉。ここでサドの思考と革命の思考は共鳴し、互いに促し合って物質性を見出すのである。
 バタイユは、彼がこれまで関心を集めてきた物質性(不浄なものとして現れる)が、単に文学的なイメージではなく、社会的な作用をも持つものであることに、サドを媒介にして触れようとする。物質性の作用の及ぶ領域を社会にまで拡大しえたのは、これがほぼ最初である。それは頭の中では考えられていたであろうけれども、ドキュマンの論文ではなしえなかったことである。この点で「サドの使用価値」はたしかにきわめて高い使用価値を持ち、また同時にブルトン批判ともなり得たのだ。

*1「去勢されたライオン」は未訳。「サドの使用価値」と「老練なもぐら」は、『バタイユの世界』(青土社一九七八年)。ただ前者は、訳されているのは前半部のみである。
*2『第二宣言』に対する反論は、単なる否定ではなく、肯定の上での批判である。「老練なもぐら」でバタイユは、〈とはいえ『第二宣言』を読んでも別に大した感銘を受けないというような手合いには、同情を禁じえない〉と書いている。
*3『シュルレアリスムおよび実存主義とのその差異』。ただしこの『シュルレアリスムの歴史』(稲田三吉他訳、思潮社)は、ここでは多く参考とした。ほかに参照したのは、Beartの評伝であるAndre Breton, Calman Levy, 1990、Philippe AudoinのLes surrealistes, Ecrivains de toujours、またプレイヤード版のブルトン全集の年譜である。
*4 無意識というある意味できわめて観念的な世界を探究しようとするブルトンらの自動記述の言語に対して、この時バタイユが手を染めたのがラテン語が世俗化し解体していく過程で生まれたファトラジーだったということは、両者の志向が対立するものであったことをすでに明瞭に示していたといえる。酒井健氏の指摘による。


Booby Trap No. 20



バタイユはニーチェをどう読んだか 1-バタイユはニーチェをどう読んだか 2-バタイユはニーチェをどう読んだか 3-バタイユはニーチェをどう読んだか 4-バタイユはニーチェをどう読んだか 5-バタイユはニーチェをどう読んだか 6-バタイユはニーチェをどう読んだか 7-バタイユはニーチェをどう読んだか 8-バタイユはニーチェをどう読んだか 9(最終回)-バタイユ・マテリアリスト 1-バタイユ・マテリアリスト 2-バタイユ・マテリアリスト 3-バタイユ・マテリアリスト 4-バタイユ・マテリアリスト 5(最終回)-政治の中のバタイユ 1-政治の中のバタイユ 2-政治の中のバタイユ 3-政治の中のバタイユ 4-エクスターズの探求者 1

バタイユ・ノート3
バタイユ・マテリアリスト 連載第5回(最終回)

吉田裕



9 「老練なもぐら」
「老練なもぐら」は、執筆時期を特定できないものの、草稿として残されたものを辿っていくと、「サド」のあとに書かれたことは確かなようだ。「サドの使用価値」では、等質的同一的世界から分離された異質なものがさらに、高貴な異質さと忌まわしい異質さに分離すること、だがこの前者は等質的な世界と同化してしまいがちであるのに対して、後者はどこまでも異質なものにとどまることがサドを主題にして述べられた。「もぐら」は、たしかにこの点を引き継ぎ、比較して言えば、等質性と異質性の分離と後者の中のさらなる区別を前提とした上で、低い異質性から発する高い異質性に対する激しい、けれども論理的な批判が中心となっている。反対に、社会革命との関わりの問題は、それほど厳密には述べられない。多く言及される作家はニーチェだが、ニーチェそのものが問題にされるのではなく、それはこの場合ひとつの例である。簡単に言えば、これはイデアリスム批判を主題とする論文である。反対に「サド」にあった社会革命との関連づけは、「もぐら」ではそれほど明瞭には現れない。この点は、同時に書かれつつあった一連の異質学の草稿に委ねられたのだろう。
 高貴な異質性と低い異質性の対比は、「もぐら」では鷲ともぐらの対比としてあらわされる。鷲とはもちろん高く飛ぶもの、もぐらとは地の底、腐敗の中をはいずり回るものである。前者はブルトン、後者はバタイユである。後者は次のように批判を展開する。
 同質化された社会の内部から批判者が出ることはないわけではない。その同質性から来る束縛に息苦しさを感じるからだ。だがそれは、しばしば次のような経路を取ることになる。彼らはこの社会から脱出しようとするのだが、現実的な世界を動かすことが難しいために、その脱出は抽象的、観念的な世界に向かうことになってしまう。それは、十分な批判と破壊を行いえないときなのだが、結果として、この社会を批判するためにという理由のもとに、より高みにある別の権威を求めることになってしまう。求められた権威とは、神という名を持ってはいないとしても、精神、超現実、絶対など、イデア的なものである。それは高貴な異質性にほかならない。これがシュルレアリスム(超現実主義)とニーチェの超人に含まれる超の意味である。
 この高みへの志向、観念性が同質性と癒着して権力を構成してしまう危険は、「サド」で明らかにされたが、「もぐら」ではもう少し別の可能性が示され、より詳細な分析がなされている。すなわちこの高みへの思考が同質性とすぐさま癒着しない場合でも、倒錯と退廃に陥らざるをえない。なぜなら、自分の出自たる場所から観念の世界へと越え出たものは、批判の視座を勝ち得るものの、距離を持つことによって不安を持つことになる。観念性は、それが強くなればなるほど、深い不安、一種のインフェリオリティ・コンプレックスをもたらす。このコンプレックスは罪責感と自己処罰の感情として現れる、とバタイユは言う。罪責感とは自分の出自の場所を離脱したことに起因するものであり、それが高じるとそのような誤りを犯した自分を処罰しようとする衝動が無意識のうちに現れるのである。それはまたすでに「去勢されたライオン」の去勢でもあった。古典的な例を引くならば、天上の火を盗んで禿鷲に肝臓を裂かれ続けるプロメテウスであり、あまりに高く太陽に近づいたために失墜するイカロスである。
 同じことが〈純粋に文学的な存在〉であるブルトンにも起こっているとバタイユは指摘する。ブルトンは第二宣言の末尾で〈一切の事物の獣性に対抗するイデアという復讐の武器〉と言っている。彼はイデアを自分の根拠だと確信している。この立場はバタイユの対極にある。バタイユによれば、ブルトンはポエジーの領域内から出ることができず、出ようともせず、不可避的にコンプレックスと退廃をはらむ。『第二宣言』冒頭には、〈もっとも単純なシュルレアリスト的行為は、ピストルを手に持って街路に降り立ち、できるだけあてずっぽうに群衆に向かって発砲することだ〉という物議を醸した一節があるが、バタイユはそこに、罪責感と自己処罰の欲求があることを見出す。これはイデアの世界にあまりにも深く入り込んで支えを失った心情が、罰されたいという無言の欲求を隠しつつ、どのように爆発するかを示しているのだ*1
 次いで重要なのは、この精神の劇が社会の中に位置づけられていることである。それは「サド」で、作家としての物質性の探究が革命運動と重なり合おうとする様として触れられたが、「もぐら」においては、もっと今日的な姿をとることになる。
 神であれ、王であれ、単一的な権力に支配されているゆえに同質的な社会からも、批判的な精神は生まれうる。しかしながら一九世紀においては、この観念的な革命性は権力と癒着し、革命を挫折させ、軍事的なファシスムに接近する。ナポレオンがその例であった。そしてニーチェは*2、一九世紀終わりにおいてもその危険があることを、古典的な優越者のモラルを称揚することで示すが、シュルレアリスムは今日もまだ同じ危険のあることを示す。しかしながら、今日事情はある意味では根本的に変わった。中世において騎士階級は、現実には無慈悲な略奪者にすぎなかったが、聖杯伝説を媒介にして騎士道の理想という神話を作りだしえた。だがブルジョワ社会の支配者たちは、このような聖化の可能性を持っていない。銀行家はどう見ても英雄となりえない。そのようなとき、聖なる異質さを担うべき人間は、同化すべき至高の存在を見出すことができず、ただ観念的な存在にとどまるほかなく、その時退廃と去勢の危険は不可避のものとなる。
 だから「サド」から「もぐら」へという二つの論文で示されたのは、高いものと低いものの単なる二者択一ではない。バタイユからすれば、ブルジョワ社会を批判してこの倒錯を避けるためには、もぐらのごとく〈ブルジョワ文化の悪臭を放つどぶを掘り返す〉ほかないのである。

10 シュルレアリスムと共有するもの
 もっとも目に付きやすい区切り方をすると、バタイユの最初期の活動は、シュルレアリスムとブルトンに対する構想としてとらえることができると考えて、その過程をまず彼の著作に密着するかたちでたどってきた。この作業をとりあえず終えたところで、次に必要な作業は、それをもう少し掘り下げ、バタイユの原理的な姿にもう一歩近づくことである。そのためには、シュルレアリスムとの関係を総括して、次の時期への視野を拡げておく必要がある。
 シュルレアリスムとの関係は、異質性をめぐる違いも、サドの読み方をめぐる差異も、深いものでありながら、少し視点を高くするならば、大きな共通性を持っているとも言える。なぜならサドを問い、異質性を探究するなどということは、どう考えてみてもごく少数の者のみが行いうる行為だったに違いないからである。バタイユが自分をシュルレアリスムと無関係と考えることができなかったのはそのためである。
 三〇年前後のこのやりとりは、ブルトンの側からすれば、単にバタイユとの論争であるにとどまらず、シュルレアリスム内部に顕在化してきた矛盾とそれに伴う変化の問題であった。この時期以後のブルトンの志向は二つの局面をとって顕在化する。それは〈神秘主義への傾斜とコミュニスムの戦闘主義への服従〉(ナドー『シュルレアリスムの歴史』*3)である。ただこの傾向は二〇年代半ばからすでに現れている。『第二宣言』でブルトンは、〈私の願いはシュルレアリスムの深遠、かつ誠実な秘教化である〉と書き*4、占星術、錬金術への関心を明らかにしている。女性を通って現れる神秘もその一つである。『第二宣言』では〈女性の問題こそは、この世における不可思議かつ混沌としたものの代表である〉と書いているが、すでに二八年の『ナジャ』は女性から来る神秘がもたらした物語である。そののあとには、三〇年に「処女懐胎」、三一年に「自由な結合」、三二年に「通底器」、三七年『狂気の愛』、四四年『秘法一七』が書かれる。
 コミュニスムへの傾斜も二五年頃から始まり、ブルトンは二七年には共産党に加盟する。一方彼はトロツキーに惹かれている。そして『第二宣言』をめぐる騒動で「シュルレアリスム革命」誌が廃刊になった後、彼は「革命に奉仕するシュルレアリスム*5」誌を創刊する(三三年までに六号を発行)。この誌名からだけでも、ブルトンがシュルレアリスムを政治に重ね合わせようとしたことを見て取ることができる。だが彼はひたすら忠実な党員であったわけではなく、曲折がある。三一年の「赤色戦線」に始まるアラゴン事件を経て、彼はソ連系正統派共産党的なコミュニスム運動から離れる。次いで彼は「コントル・アタック」の冒険を経て、トロツキーへのいっそうの親近を明らかにし、三八年にはメキシコまで会いに出かけるのである。
 興味深いことだが、この二つの局面の顕在化はバタイユの側でも同じである。三〇年に彼は「低次唯物論とグノーシス」を書いて、物質性が宗教性と対立するどころかその不可欠の条件となる場合のあることを示して、新たなかたちの宗教的関心を覗かせる。三一年には『太陽肛門』を書き、同じ頃高等研究院でコイレによるニコラウス・クザーヌスの「無知の知」「反対物の一致」のセミナール、続いて三四年からは、その跡を継いだコジェーヴによるヘーゲルの『精神現象学』のセミナールに出始める。彼がそこで知ることになるのは、プロシア国家の御用哲学者ではなく、狂気の一歩手前まで行ったヘーゲルであるり、後の神秘的な傾向の発端でもある。女性への関心について言えば、『眼球譚』は二八年だが、それはまさに『ナジャ』の年でもある。またアラゴンの『イレーヌ』も同じこの年である。
 他方政治的な側面はもっと類似性を示している。彼が左翼的な思想への関心は「もぐら」で明らかである。「ドキュマン」の廃刊前後の三一年、彼はボリス・スヴァーリンと知り合い、「民主共産主義サークル」に加盟する。これはトロツキーの影響の強い非共産党系の組織である。そしてその機関誌「社会批評」に同じ年の一〇月の第三号から寄稿しはじめ、この時期の彼の最重要の著作、社会的政治的な射程を持った「消費の概念」「国家の問題」「ファシスムの心理構造」(三三、四年)を発表する。そして三五年には、「コントル・アタック」で再びブルトンと会いまみえることになる。
 むろんこの中にも差異を無視することはできない。物質に関する考えかたは見てきたようにずいぶん異なる。ブルトンは史的唯物論、唯物弁証法、マルクス主義と言われるものに同意している。〈シュルレアリスムは、すでに見たように社会的にはマルクス主義の公式を断固として採用するものである〉*6。これに対してバタイユは、とうてい採用するなどという姿勢をとることはなかったろうが、それは別にしても、「もぐら」の冒頭に、〈自然においても、歴史においても、腐敗は生命を生む実験室である〉というマルクスからの引用を置く。このマルクスは、史的唯物論として取り出されるマルクスとは、ずいぶんと違っているだろう。またトロツキーについても、彼はスヴァーリンやまたこの頃知り合うシモーヌ・ヴェイユの影響か、批判的な姿勢を最初からとっている。
 だがここに並行性を見ることは不自然ではない。しかしこれを単にブルトンとバタイユの間だけのことと限定するのは間違いである。シュルレアリスムは、三〇年代に入って以前のような固有の力を失っていたように見える。神秘的なものへの関心は、彼ら二人だけのものではなかった。オリエは〈神話は時代の流行だった〉と言っている。また政治的な動向への関心はロシア革命以後の世代に共通であり、さらにそれに応じるようにして勃興したファシスムは、あらゆる芸術家思想家に、政治的な立場、また政治に対する立場を明らかにすることを否応なしに強いたからである。その時ブルトンあるいはバタイユの立場は、特別なものではなかったが、おそらくは彼らは相手に対する近さと差異を測りつつ、時代の中へ拡散していった。それはひとつ時代をもっと深く共有することであった。

11 補遺
 バタイユ・ノートの3「物質の探求者」をとりあえずここで終える。この標題で書き始めたとき、三九年つまり戦争が始まるまで行くつもりでいたが、いったん休止符をおくことにする。しかしそれはこの主題が無効だったということではなく、展開しながらそれが別の言葉のほうがふさわしい姿を取り始めたように思うからである。
「物質の探求者」を始めたとき、バタイユの生涯を通じての探求の一番底部には、不可解な手触りを持った何かがあるように思え、それを何とかして明るみに出してみたかったからである。この手触りはそれと名指すことは難しいが、それでも確かなものであって、さかのぼっていくと、初期にはかなり明確なかたちで現れていて、「物質」というのがこの手触りの元にあるものだということがわかってきた(あるいは私にはそう思えた)。ものを書き始めた頃のバタイユには、物質論への傾斜がはっきりとしている。しかしそれはある時期から、私にはそうだったように、見えにくくなっていく。それを何とかして連続させて読み通したいというのが、念願だった。バタイユの中でもっとも人目を引き、確かに興味深いものである内的体験やエロチスムも、基底にあるこの物質性との関係を明確にしない限りは、十分明瞭なものにならないと思えた。
 それで「物質の探求者」を始めたのだが、それをここで終えるのは、今言ったようにバタイユの物質性が、変化しながら――見えにくくなるのはこのためなのだ――別の様相を持ち始め、物質性という、通常ではスタティックな印象を与える標題の元では追跡しにくくなったからである。バタイユにおいて物質が物質性そのものを保ちつつ、その強度を一番高めるのは、三〇年前後のことである。そしてまさにこの獲得された強度を条件として、それは変化を起こす。すなわちバタイユの物質は運動し始めるのである。それをどうとらえるか。まずとりあえずとしては、社会的な関心と視野の広がりとなって現れたと言ってみるのが、妥当だと思われる。
 社会的な関心と視野とはもっと具体的には何か、と反問されれば、それは彼が社会学や民族学といった新たな視野を開発しつつあった学問領域の読書と、政治的な実践に近づいたことをあげられる。しかしそれを単に彼の知的好奇心の幅の広さとか、思想も実践もともに行った人間性といった観点で見るべきではない。そこに現れるのは、言ってみれば一つの「空間」あるいは「場」である。社会学とは、社会に対する知であるが、もっと根本的には社会に対する関心であり、もっと下れば社会的意識そのものではないのか。バタイユが行おうとしたのは、社会学という学問のかたちにまで形成されてしまったものを、もう一度社会に対する意識という最初のかたちにまで還元しようとすること、それを通じて人間を社会的存在という様式にま戻してみようとすることだったと思える。そのことがさまざまのきしみをもたす。
 典型的には、社会学研究会は、バタイユの中でこの還元の試みであった。それはある程度まで提唱者たちの共通の目的だった。三七年三月の「設立声明」では、この研究会で対象とされる社会学は、聖ナルモノに関する社会学だが、それは「聖社会学sociologie sacree」ともなると言われている。逐語的な翻訳ではうまく表せないが、ここで言われている変化は、社会学が、聖ナルモノを研究する、つまり客体化する立場にたっての学問であるにとどまらず、この学問自身が聖ナルモノとなる、すなわち社会的な意識そのものとなること、しかも聖なると言われるほどに動的なものとなることを指している。
 この過程はどのように実践されたのか。社会学研究会とはたぶんその結論的な試みであって、それを十分にとらえるには、「ドキュマン」以降のバタイユの試行錯誤を丹念に辿る必要があるだろう。だが社会学研究会においても、バタイユのやり方は、主要な同人であったカイヨワあるいはレリスのやり方と、かならずしも一致しているわけではなかった。バタイユと彼ら二人の間で問題になったのは、まずバタイユがデュルケムやモースの著作を恣意的に読み過ぎるという批判だった。これはたぶんにレリスとカイヨワが訓練を受けた専門の研究者であったのに対して、バタイユはこれらの学問に対してはアマチュアであったからだ。たとえばデュルケムの『宗教生活の原初形態』、モースの『供犠』(これはユベールとの共著)『贈与論』を、バタイユの神秘主義、あるいはポトラッチに関する所論と較べて見れば、これは一読して力点の置き方が違うことがわかる(バタイユはニーチェについても、読み方が恣意的だという批判を受けている)。だがこの差異は、専門家とアマチュアの読み方の差異ばかりではない。それはバタイユが、社会学を社会的な意識そのものへ還元することがあまりに激しかったためだと私には思われる。カイヨワにしても、レリスにしても、そういう志向を持たなくはない人々であった――特に前者――が、それでもバタイユのやり方は、異和をきたすほどのものだったのだろう。
 政治的なものについても同じことが言える。バタイユにとっては政治とは政策ではない。彼がもっとも政治化したとされる時期に彼が書き残したものを辿ってみても、政策的なものは見あたらない。またニーチェの政治について、〈彼は給与とか政治的自由の問題とかいった一時的な問題からは身を背けていた〉と言っている(「ニーチェはファシストか」)のも、同じ傾向を示そうとしたものだ。これは確かにリアル・ポリティックの領域では限界を持つ立場だろう。しかしそれはこれまで未知であったものを示す立場でもある。政治とは権力の問題として現れる。だがこの権力というのは、そのまま現存の政治組織のことではない。それは何か力の作用の仕方、社会的とはまた違った現れようである。この点についてはまだうまく言えない。それをとらえ、言い表そうというのがこれからの試みなのだが、ほかのところで示唆を受けた文章があったので、引いてみる。フーコーは『性の歴史』の中で次のように言っている。〈権力という語によって私が表そうとするのは、特定の国家内部において市民の帰属:服従を保証する制度と機関の総体としての「権力」ではない。私のいう権力とは、また、暴力に対立して規則の形をとる隷属の仕方でもない。さらにそれは、一つの構成分子あるいは集団によって他に及ぼされ、その作用が次々と分岐して社会体全体を貫くものとなるような、そういう全般的な支配の体制でもない。権力の関係における分析は、出発点にある与件として、国家の主権とか法の形態とか支配の総体的統一性を前提としてはならないのだ。これらはむしろ権力の終端的形態にすぎない。権力という語によってまず理解すべきだと思われるのは、無数の力関係であり、それらが行使される領域に内在的で、かつそれらの組織の構成要素であるようなものだ〉(邦訳第一巻p119)。
 国家の主権とか法の形態とかは、権力の終端的形態にすぎない。それは社会学は社会的な意識の終端的形態にすぎないのと同様である。バタイユにおいて政治は、無数の力関係にまで還元される。そうするともはや社会的なものとの間に境界はないのだ。そして私は自分がバタイユに見いだしてきたことを思い出すのだが、彼は同じことを、神に関して、また文学に関してもやってきたのではないのか。彼は〈神とは流動的な概念だ〉と言っている(「ニーチェの笑い」)。つまり、キリスト教的な神、人格神化された神を、恐怖と笑いに満ちた原初の神的な存在――神の不在――にまで戻してしまおうとする。また彼の言語もあらゆる形式を踏み倒して横溢し始める(これに関しては『聖女たち』所収の論文「淫蕩と言語と」を参照していただきたい。そこで私は「流動する言語」という章題を用いたが、それは図らずものことだった)。
 バタイユの世界は、三〇年代に入って一挙に流動化した、という印象を私はうける。この流動的な世界の中で、物質性は一方のメルクマールをなしている。もう一つメルクマールをなしているのは、神秘的つまり彼が言うところの内的経験である。この二つを極としてバタイユの思想的な――というよりも彼の存在の全体に関わるところのと言うべきだろうが――空間は限界を越えて拡げられる。そしてこの二つは本当は同じ一つのことだろう。そのための還元と解体の作業には、彼が出発点で見定めた物質性、どんな観念化にも有効性にも取り込まれないその永続的な異質性が作用している。この作用を見失うことなく彼の三〇年代を辿る(物質性の作用を見失わないことは辿るための絶対的な条件である)、まず物質性に一番近い社会的政治的な意識の変遷をたどるというのが、次のノートの主題である。

*1バタイユの出発点にある、観念性に対するこのように激しい批判を読むとき、私がどうしても思い出すのは、吉本隆明の場合である。吉本もその思想的出発にあたって、観念性批判を展開せねばならなかった。それが最もよく見られるのは「マチウ書試論」の場合であろう。彼は原始キリスト教の激しいユダヤ教批判の中に、現実から疎外されたものの攻撃的パトスを見たが、この深い疎外は、反面で現実から外へ出たということから来る不安を「原罪」の意識にまで集約させたと見ている。罪責感、自己処罰の欲望、去勢願望、原罪はすべて同じ心的構造から来ている。それを去勢願望と見るところにはフロイト読書が、原罪を批判するところには、おそらく『道徳の系譜』のニーチェが作用している(吉本の場合はそう告白している)に違いない。
*2バタイユは「もぐら」の第三章全体をあててニーチェを論じている。ニーチェとはもちろんバタイユにとって最重要の哲学者のひとりである。バタイユは二五年頃からこの哲学者を読み始めるが、熱心に言及しはじめるのは、三五年の「アセファル」以降のことである。そこでは全面的なニーチェの世界への全面的な同意が見られるが、それと対比すると「もぐら」での明らかなニーチェ批判は注意を引く。ただしバタイユの見方は一貫していると言わなくてはならない。なぜならバタイユは、ニーチェを力への意志ではなく永劫回帰を中心に置いて読むようになるが、ニーチェの超人は力への意志の文脈に属する思想であるからだ。バタイユのニーチェ理解に関しては、本ノートのU「バタイユはニーチェをどう読んだか」(現在『ニーチェの誘惑』の標題で書肆山田から発売中)を参照していただきたい。
*3思潮社、二四四ページ。
*4アンドレ・ブルトン集成第五巻、一一三ページ。次は一一六ページ。
*5考えてみると、この雑誌の名前そのものが、バタイユの求めたところとはずいぶん異なっている。彼はこの時期以後ニーチェに傾倒するが、それは〈ニーチェの原則は利用されることが出来ない〉ものだという性格を持つものであるからだった(この点については、『ニーチェの誘惑』の第5節を見ていただきたい)。このようなありようは、ファシスム的な利用に反対するために強調されたが、そのときバタイユの頭の片隅には「革命に奉仕」しようとしたシュルレアリスムへの反発が作用していたかもしれない。少なくともバタイユはこのような名前はつけなかっただろう。
*6アンドレ・ブルトン集成第五巻、九三ページ。

(バタイユ・ノート 3 「バタイユ・マテリアリスト」終わり)



Booby Trap No. 21



バタイユはニーチェをどう読んだか 1-バタイユはニーチェをどう読んだか 2-バタイユはニーチェをどう読んだか 3-バタイユはニーチェをどう読んだか 4-バタイユはニーチェをどう読んだか 5-バタイユはニーチェをどう読んだか 6-バタイユはニーチェをどう読んだか 7-バタイユはニーチェをどう読んだか 8-バタイユはニーチェをどう読んだか 9(最終回)-バタイユ・マテリアリスト 1-バタイユ・マテリアリスト 2-バタイユ・マテリアリスト 3-バタイユ・マテリアリスト 4-バタイユ・マテリアリスト 5(最終回)-政治の中のバタイユ 1-政治の中のバタイユ 2-政治の中のバタイユ 3-政治の中のバタイユ 4-エクスターズの探求者 1

バタイユ・ノート4
政治の中のバタイユ 連載第1回

吉田裕



第1章 政治的関心
 一人の思想家の青年期を読んでいくと、あてどのない無軌道な試行錯誤のなかで、彼自身の関心が否応なしに浮き彫りにされてくるのが見える。次いでこの関心は、時代と社会に衝突し、その中に拡がろうとするが、それは同時に時代と社会が、この青年の中にほとんど暴力的に侵入してくる過程でもある。そこまではたぶん、誰にでも起こることだ。それでもこの相互的な浸透と破壊を正面から受けとめることを、誰もが成し得るわけではない。多くは身を逸らし、目をつぶり、いくつかの教訓を引き出すだけでこの時期をやり過ごす。しかし、ほんの一握りだが、それによく耐えることができる者がいる。彼はこの苦痛に満ちた時期を、ただそれを書きとめ、対象化し、自己を見つめることで支える。その時彼が書きとめたものが、それだけがどこからか光を放ち始める。思想となりうるのは、そうして書きとめられたものだけである。
 一九二〇年代は、バタイユにとっては、大筋では自分の生来の関心にかかずらわった時代である。シュルレアリスムあるいはブルトンとの対立は、彼の関心をあらわにするように作用している。彼に明らかになったのは、自分がどうしようもなく、汚れたもの、低いもの、要するに物質性に憑かれていることだった。彼の書き残したものを見ると、彼が物質に関心を持っていたというのではなく、物質のほうが彼につきまとったのだという印象を受ける。彼はもはや自分の意志で物質から逃れるということはできない。物質は否応なしに彼につきまとい、つき動かし、にっちもさっちも行かぬ場所に彼を追いやる。こうして彼は、時代と社会の真ん中に立つのである。
 ブルトンとの決裂があった三一年頃から、取りあえず戦争という事件で区切られる三九年頃までの期間、これはバタイユの関心が急激に拡大されていった時期である。この広がりは実に多様な姿を見せている。曰く政治への関心、社会学、哲学といった学問への没頭、エロチックなものの探求、画家たちとの交流、あるいは宗教からの魅惑、等々。これらを本当は区分することは出来ない。それらはバタイユというほかならぬ全体を示しているからだ。しかしこの全体を知るために、どこかに最初の接点を求めねばならないとしたら? さまざまの可能性のうち、今私はまず政治的な部分にこの接点を求める。なぜなら、政治的なものというのは、目に見える形を取ってこの時期の彼の存在をもっとも強く規定したものであるからだ。また全体の側から見ても、政治的なものとは、それが内包する活動する力のもっとも先鋭な現れ方であるに違いない。政治とは政策だというのは私たちの通念であって、バタイユにおける政治的なものは、このような考えかたを変えてしまう。政治とは共同体の全体を動かす力のもっともあらわな姿であり、この力全体の発火点となり、さまざまの力を通底させる作用を持つ。そしてこの動的な力は、秩序に回収されることがないという意味で、彼の物質性とどこかでつながっているはずだ。私の印象では、この時期の彼を読むにあたって、ほかに有効な視点は、彼の社会学的な関心と宗教的な関心であり、これらは相互に働きかけ合いながら一つになっているが、これをまず政治に関わる層から接近したい。

第2章 コミュニスム運動とスヴァーリン
 バタイユは一八九七年生まれだから、二十歳になるやならぬかで第一次大戦とロシア革命を知り、三〇前後で大恐慌とファシスムの台頭を見ている。これらの出来事が、彼のような青年に落とした影響は生半可なものではありえなかった。彼および彼の世代は、大戦によってヨーロッパ伝来の価値意識が動揺するのを目の当たりにする。そうした世代にとっては、労働者と農民が権力を持つというソビエト社会の出現は、大きな魅惑を持ったにちがいない。バタイユの世代の政治は、まずコミュニスムとの関わりから始まる。次にこの世代が直面する政治的課題はファシスムである。イタリアでファシスト党、ドイツでナチ党が政権を取るのは、二二年および三三年である。地理的により近いこともあって、三〇年代はファシスムが焦眉の問題となる。バタイユの政治的な考えかたは、コミュニスムとの関係でまず作られ、ファシスムに関する問いの中に展開されたと言える。
 「ドキュマン」を通読して、バタイユのキリスト教とイデアリスムに対する憎悪に近い批判を知れば、彼がヨーロッパの伝統的あるいはブルジョワ的価値意識に、強い不満と批判を持った青年であったことを疑うことが出来ないが、その青年が革命を目指す運動体としてのコミュニスムに惹かれていくのは、当然と言えば当然のことではある。彼は二五年頃にニーチェを知り、衝撃を受けるが、それでも〈自分はニーチェを忘れ、全力を挙げてマルクシストになろうとした〉と書いている。ことほどさように、マルクス主義の魅力は強いものだった(ニーチェの影響はその後もっと強力なものとなって戻ってくるが)。二九年にアメリカで始まった大恐慌は、数年後フランスにも波及し、社会の秩序は大きく動揺する。こうした事情を背景にバタイユは、マルクス、トロツキー、プレハーノフらを読みはじめている。
 彼はブルトンとの論争で友人と雑誌を失った三〇年代のはじめ、ボリス・スヴァーリンという人物と知り合い、彼の主宰するサークルと雑誌に参加する。この雑誌――「社会批評」――に書いたいくつかの論文は、彼の戦前期を代表する論文となる。スヴァーリンとは、この時期のフランスのコミュニストとして――党の外にいたのだが――著名な人物であった。ロシアふうの名前を通用させていたが、本名はリフシッツ、一八九五年ロシアのキエフにユダヤ系の家庭に生まれ、幼年時にフランスに移民している。彼は労働者として育ち、社会主義運動に参加し、社会党からの共産党の分離に際しては指導的な役割を果たした一人であり、党機関誌の編集長を務め、ついでコミンテルンに対するフランス共産党の最初の代表としてモスクワで活動する*1。バタイユのコミュニスムとの関係、コミュニスムについての考えかたは、スヴァーリンからかなりの影響を受け、スヴァーリンを経ることで視野を世界史的なところまで拡大したように見える*2。それを知るためには、スヴァーリンの背後にあったものを瞥見しておく必要がある。
 ロシアでの一九一七年の革命は二月にケレンスキーの臨時政府を樹立させたが、レーニンらを迎えることで十月にソビエト政権を誕生させる。それまで革命が起こるなら一番最後だろうと考えられていた後進国ロシアで、社会主義に向かう最初の革命が始まったのである。この成功によって戦後の社会主義運動の構図は大きく変化する。崩壊したインターナショナルは一九年にコミンテルンへと改組され、本拠はモスクワに置かれて、実質的にロシア共産党の支配を受けることになる。このコミンテルンとの関係をめぐって、各国の社会主義政党の内部で分裂が起きる。フランスでは、ロシア共産党の例に倣って、合法的改良主義や議会制民主主義の意義を認めず、実力行使の展開による革命闘争を主張する分派が多数を占めることになり、二〇年の党大会で分裂は決定的になり、二一年にはマルセイユで共産党が結成され、コミンテルンに加盟する。各国でも事情は似たようなものであったが、この分裂による社会党と共産党の対立は、右翼勢力の伸長に味方することになり、後にファシスムの台頭を許す一因となる。
 スヴァーリンは、誕生したフランス共産党の代表として、二一年からモスクワのコミンテルンで活動することになる。このモスクワ滞在は、彼にさまざまの体験をもたらす。まずこれはレーニン(革命以前の亡命時代から書簡のやりとりがあった)、トロツキー、プレハーノフ、スターリンといった、ロシア革命の指導者たちと実際に接触し、国際共産主義運動の内部で活動することである。彼がもっとも多くの接触を持ったのは、コミンテルンの実際上の指導者であったトロツキーである。それに対してスターリンは、ロシアの国内的な指導者であったためか、さほど接触はなかったようだ。この時期ロシアの社会主義革命は重大な岐路に立たされていた。ロシアは後進国であり、そこでの革命だけでは十分でないと多く考えられていた。だが、革命がもっとも期待されていたドイツでは、一九年にスパルタクス団の蜂起が失敗し、ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトは殺害され、二一年頃には革命の失敗が明らかになっていた。ロシアでは内戦をようやく乗り越えた二〇年にクロンシュタットでソビエト政権に対する反乱が起こり、ネップ(新経済政策)への転換が始まっている。状況は否応なしに、ボリシェヴィキの一党国家体制へ向かいつつあった。
 このように困難が深まっていた二三年にレーニンは病に倒れ、翌二四年に死去する。そしてロシア共産党内で、革命の戦略と指導者の地位をめぐって争いが起こる。この権力闘争に勝利するのは、周知のようにスターリンである。この結果ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリンらが次々に追放され、また後には粛清されることになる。その中でもっとも有能でスターリンのライヴァルと見なされていたのはトロツキーだが、彼は二六年に政治局員を解任され、二七年に連邦共産党(二五年にこのように改称している)から追放され、シベリア居住をへて、二九年には国外に追放される。彼はトルコ、フランス、ノルウェー、メキシコを転々とし、最終的には四〇年にメキシコでスターリンの指令によって殺害されることになる。
 この転変の中でスヴァーリンは、二四年五月の第一三回ボリシェヴィキ大会でトロツキー擁護の演説を行い、そのためにコミンテルンから除名され、七月にはフランスに帰国する。だがソ連共産党、コミンテルンと共同歩調をとるフランス共産党からも除名される。こうして以後、彼は非共産党系の左翼理論家として活動することになる。彼の活動はサークルを主催し、雑誌を発行するという形で行われる。二六年に「マルクス・レーニン的共産主義サークル」、三〇年にこれを改称して「民主共産主義者サークル」を組織し、機関誌として二五年から「共産主義通信」、三一年から「社会批評」を刊行する。彼の周囲には、共産党を除名されたり、離党した者、また共産主義運動に興味はあるが党に対しては批判的な人々が集まる。たとえばブルトンも、そうした人々のうちの一人である。最初の妻であったシモーヌ・コリネは、ブルトンの政治的関心を決定するのに一番大きな影響を与えた人として、クラルテの同人であったベルニエと並んで、スヴァーリンの名前を挙げている*3。バタイユは、ドキュマン廃刊のあと、三一年に「民主共産主義サークル」に加盟する。同じ時期にクノーやレリスも加盟している。また後に因縁浅からぬ関係を持つシモーヌ・ヴェイユは、サークルには加盟しないが、「社会批評」に何度か執筆している。

第3章 左翼運動のなかで
 スヴァーリンがもたらした最大の効用は、フランスにおける最初のロシア革命の批判者であったことだろう。彼の批判は必ずしも高度に理論的なものではなかったにせよ、外国での熱狂の裏で現実の社会主義革命がどのようなものであったかを告知する役割を果たした。彼は指導者たちの実際とロシアの現実を見ていた。彼はレーニンが革命を擁護するために反対派を弾圧することになるのを見たし、スターリンの人物をも知ることができた。彼は三五年に『スターリン』という大部の書物を出すが*4、これは偶像化された当時のスターリンとスターリニスムを批判する最初の書物だった。他方トロツキーとの関係について言えば、彼はトロツキーを高く評価し、時にトロツキストと呼ばれることがあったが、常に同調していたわけではなかった。彼はトロツキーが赤軍の組織者であり、クロンシュタットの反乱の鎮圧者であったことを知っていたし、亡命後のトロツキーに判断の誤りを指摘する手紙を送っている。トロツキーは三三年七月から三五年六月までフランスに滞在し、ファシスムの成立を許したコミンテルンを批判し、第四インターナショナルの設立を計画したが、そのときには手助けをしてもいる。この計画のために三三年十二月に彼らは、シモーヌ・ヴェイユの提供したアパルトマンで秘密の会合を持ったが、その際ヴェイユはトロツキーがクロンシュタットの反乱を鎮圧したことを批判し、トロツキーは言葉に詰まったと伝えられている*5。ヴェイユの背後にはサンディカリスムがあるとしても、これもスヴァーリン周辺の雰囲気を伝えているエピソードだろう。
 つまりバタイユは、紙一重のところで世界史的な動きに触れるところにいた――それがそのまま何かの優越を示すわけではないが――ことになる。しかも彼は批判的な距離を持つことができた。彼は共産党とスターリンにつながる系列に参加することはないし、トロツキーに対しても距離をとり続ける。それはたとえばブルトンやアラゴンと比較するとよくわかる。ブルトンは二五年頃にトロツキーの『レーニン』を読み、トロツキーに惹かれ続ける。彼は二九年に、亡命の途上トロツキーがフランスに立ち寄ろうとした時、擁護運動を組織し、三九年にはメキシコまでトロツキーを訪ね、「独立革命芸術連盟」を共同で組織しよう考えるまでに至る。一方アラゴンは「赤色戦線」事件をきっかけとしてシュルレアリスムから離脱し、共産党の中での活動をはじめ、戦後は党の文化関係の重要人物となる。こうした人々の中におくと、バタイユの差異は明らかである。彼は職業的な活動家ではなかったから、政治的意見を政治的な形で表明することはなかったが、彼の書き残した断片から見て、どの党派にも属さない、あるいはどの党派からも受け入れられない意見の持ち主であった。この異質さは、実はスヴァーリンに対しても同じである。バタイユは「社会批評」に「消費の概念」を書くが、そのとき、「この論文の主旨は、編集部の方向と異なるが、理論的探究の多様性を許容するために掲載を決定した」という但し書きをつけられる。これを見ると、バタイユの考えがこの独立的なグループの中でも異質なものだったことがわかる。
 バタイユのコミュニスムに関する初期の見解が現れているのもまた「社会批評」の論文である。主要なものは、三一年十一月の第三号の「ヘーゲル弁証法の基礎に関する批判」(クノーとの共著で、自然科学に関する知識はクノーが提供し、討論を重ねたが、実際の執筆はバタイユだったとクノーは言っている*6)、「消費の概念」(三三年一月、七号)、「国家の問題」(三三年九月、九号)、「ファシスムの心理構造」(三三年十一月および三四年三月、一〇、一一号)だろう。これらの論文は、それぞれ個別のテーマを持っているが、同時にどの論文にも、政治的な思考――とりわけコミュニスムに関する批判的考察――が入り込んでおり、そのために政治的思考に刺激を返してくるものでもある。ここではこれらの論文をこの政治的な関心という視点からとらえたい。
 「ヘーゲル弁証法の基礎に関する批判」は、題名の示すようにヘーゲルの弁証法を批判しようとしたものである。しかしながら、コジェーヴとの出会いはまだ後のことであって、この時期のバタイユ(以下二人の著者をバタイユで代表させる)のヘーゲル理解は後のようなものではない。だがクノーによれば、この時期彼らに映じたヘーゲルは「汎論理主義」者であって、彼の弁証法は、世界のすべてをイデアと理性の中に移し容れ、閉じこめてしまう哲学と見なされていた。バタイユはこれを批判しようとする。この批判を通じて少なくとも、この時期のバタイユが弁証法あるいはマルクス主義になにを求めていたかを読みとることはできるだろう。彼はこの論文を、今ではもうあまり読まれることのないドイツの哲学者ハルトマンの、〈ヘーゲルの『論理学』は、その大部分が現実に根ざしていない弁証法としてしか成立しないのではないかという嫌疑が、深刻な様相で生じる。それは『自然哲学』においてなおのことそうである〉という一節を出発点として開始する。この「現実」は新たな形に展開される。それは一つには「自然」であり、もう一つには「質料matiere」である。すなわちバタイユの関心の底にあるのは物質なのだ。どのような体系からも逸脱するものとしてのこの物質の性格は、明らかに「ドキュマン」以来あらわになってきたものであり、「基礎批判」はこの点では「ドキュマン」の延長上にある。
 ヘーゲル弁証法批判の試みは、ハルトマンによっては「現実」、エンゲルスによっては「自然」、そしてバタイユによっては「質料・物質」を通して行われる、というのがこの論文の提出する構図であろう。バタイユは前二つの試みを次のように位置づけている。〈ハルトマンは、弁証法的主題のなかで生きられた体験によって与えらると見なされるものを認識しようとしたのに対し、エンゲルスは、それらの諸法則を自然の中、すなわち、反対命題を伴って発展する理性の全概念を最初は閉め出しているようにみえる領域に見出そうとする〉。
 ハルトマンは現象学を用いることで、いわばヘーゲル弁証法の内部から「現実」を取り入れようとするのだが、弁証法的主題の中から現象学に合致するものを取り出そうとするだけだった。バタイユはハルトマンが自然には無関心だったと批判しており、それよりも、ヘーゲル弁証法から閉め出された領域から出発して、ヘーゲル弁証法を解放しようとするようなエンゲルスの試みにより関心をもつ。しかしながらエンゲルスの例もまた次のように錯誤の一つである。
 弁証法に対する批判は、実はヘーゲル自身――当時バタイユがみていたヘーゲル――にすでにみられるものだ。バタイユはヘーゲルが、自然は〈概念を実現し得ないゆえに哲学に限界をもうける〉ものだと言っていることを引用している。弁証法に対するこの批判の上に、エンゲルスの試みがある。エンゲルスは、無機的な自然、極限的には数学の中にも弁証法的な運動があることを証明して、自然と社会が弁証法によって一貫されていることを証明しようとする。だが彼は八年間を費やした後にこの試みに失敗し、また一九世紀の科学はこの試みの無意味さを暴き出す。〈電気が熱に変化すること・・と階級闘争と言うような全く別個の事象を比較することには、実際どのような意味もあり得ない〉197とバタイユは言う。自然をとらえることは、エンゲルスのように無媒介的に自然に接続することでは不可能なのだ。
 ではどうするか。バタイユは、この論文の主題は、〈弁証法的応用が・・有益になる限界はどのあたりかを極めることだ〉と言っている。しかしこれは、弁証法的な領域とそうでない領域の境界線をただ画定する、ということを意味しない。バタイユは〈弁証法的探求の対象は、もっぱら自然のもっとも複雑な生産物を表す〉288と言い、かつ〈自然における比較的単純な諸形態は、もっとも複雑な形態がもたらす資料を利用して研究されうる〉とも言う。すなわち弁証法の限界を意識し、それをより単純な自然、すなわちより自然的な自然の方向に拡大していくことで、いっそう自然を獲得すること――それは同時に弁証法もまた変容していくことであるのは予感されている――が目指される。これはマルクス主義にとっては、エンゲルス的ではない方向で物質をとらえようとすることであり、バタイユはその方向でのみ、〈マルクシスムを柔軟かつ苛烈なものとし、改革主義的な解決に断固として対立するものとする〉ことができると考えるのである。
 この革命運動における物質、あるいは物質的なものの意味と作用を、もっとも基礎的な水準でとらえようとしたのが、翌年の「消費の概念」である。バタイユの全過程の上での里程標の一つであるこの論文には、社会学をはじめとするさまざまの学問と思想が流れ込んでいるが、それでも政治的な思考から影響を受け、また政治的な思考に刺激を送ってくるような部分は確かにある。この論文でバタイユは、生産に還元されない消費があること、それが人間と動物を、さらに人間のなかでも高貴な人間と凡俗な人間を区別することを明らかにし、ついでそれが歴史上、社会活動上でどのように実践されてきたかを、彼の知識をすべて動員して分析している。それらは、奢侈、葬儀、戦争、祭典、遊戯、芸術、倒錯的性行為等々だが、そのなかに階級闘争もまた数え入れられている(第五章)。近代において台頭したブルジョワ階級とは、無意味な支出を嫌悪することで、富を蓄積し、それによって社会の支配権を握った階級である。だからブルジョワが支配するかぎり、その社会は、非生産的な消費を実践することが出来ない。そして今日のこの全体的な鬱積状態を吹き飛ばす役割は、プロレタリア階級の蜂起に求められるのである。

〈千八百年間はキリスト教の宗教的陶酔によって構成され、そして今日では労働運動によって構成される普遍的痙攣は、社会に迫って階級間の相互排斥を活用させる決定的衝動と一方において見なすべきであり、その目的はできるだけ悲壮で奔放な消費形態を実現すること、同時にまたきわめて人間的で、それに較べれば伝統的形態がさげすむべきものに思えるほど聖なる形態を導入することである〉

 ここでもまずバタイユ自身の固有の思考をたどらなければならない。彼が行おうとしているのは、秩序をなそうとするものに抵抗すること、その根拠を見出すことである。それは最終章の題名「物的事象の非従属性」がよく示していることではあるまいか。彼の根拠はここでもけっして従属しないものとしての物質なのだ。それが「ヘーゲル弁証法の基礎についての批判」を受け継いでいることは明らかだが、プロレタリア階級は、この物質性の一つの現れとして取り上げられ、浪費、排泄物、倒錯等と同列におかれることになる。バタイユにとっては、階級闘争、プロレタリアの蜂起は、非生産的消費の絶好の機会とみなされるのだ。このような主張が、当時のマルクス主義者――正統的であれ非正統的であれ――の疑惑を買ったことは、想像するに難くない。
 バタイユと彼らとの隔たりはこの時十分明らかだった。だがバタイユは自分の関心を追い続ける。三三年の「国家の問題」は、「社会批評」の四つの論文のうち、バタイユの政治的な立場がもっとも明瞭に言表されたものである。それは執筆の時期の問題でもある。社会民主党を無力化し、三三年一月にナチス政権が成立すると、その直後共産党は国会議事堂炎上事件によって壊滅させられる。「国家の問題」はこれらを背景においている。
 目に付くのは、〈ファシスムとボルシェヴィスムがもたらした結果のいくつかが一致していること〉を指摘し、ソ連、イタリア、ドイツを〈三つの奴隷社会〉と呼び、コミュニスムをファシスムと同一種と見なしていることである。それは国家の権力がかつてなく強大なものとしたことを指す。〈現今の歴史は、国家の強制力とヘゲモニーという方向へと向かっている〉。バタイユが「ドキュマン」あるいは「消費の概念」を通して、どこまでも異物として作用し、動的な性格をもたらす物質の存在に関心を寄せてきたとすれば、その対極にある最大の抑圧機構として見いだしたのが国家だったといえる。
 その中でとりわけ問題にされるのはコミュニスムである。なぜならコミュニスムは、本来は抑圧された者たち――その最大はプロレタリアである――解放する役割を持っていたにもかかわらず、退廃とを重ね、ファシスムに抵抗するどころか、ファシスムと同質の全体主義へと変質してしまったからである。それはスターリンの問題だが、西欧においてはそれ以上にレーニンを墨守してことをすまそうとしたコミュニストたち自身の問題である。
 ではこれに対して、彼はなにを提案するのか。彼は指導層を楽天主義と批判し、〈このような拘束の下にある世界のうちで目覚める革命の意識は、自らを歴史的に無意味であると考えるようになる〉と述べて、公式化された方向性すべての無効を宣言した後、彼の求めるところを次のようないくつかの言い方で表明する。〈それ(革命の意識)はヘーゲルの古い言い回しを用いるならば引き裂かれた意識、不幸な意識となる〉、〈すべては方向性を総体的に失わしめることにかかっている〉、〈ただ「絶望からくる暴力」のみが国家という根本的な問題に関心を集めさせうる〉。彼は理性から逸脱するもの、どんな統制からも逃れ、拒否するものを求めて、いっそう低いところ、暴力的なものの方へと惹かれていく。彼は彼の物質性が国家と直接的に対立しうるものであることを確認する。だがこのような提案は「ヘーゲル弁証法の基礎に関する批判」にもまして、公式のコミュニストたちはもちろん、反対派コミュニストたちにも認めがたいものだったろう。
 同じ三三年の「ファシスムの心理構造」は、ヒトラー政権が誕生したことを受けたファシスム分析であり、根本をなしているのは、ブルトンとの論争の時期に彼が構想した「異質なもの」に関する理論であって、異質なものが持つ共同体形成の強力な力とそれが陥りがちな錯誤を分析した論文だが、この本論部分の読解は、次のファシスムを検討する項に譲る。今はコミュニスムという視点から眺めることに関心を限定する。私たちの注意を引くのは序文である。この序文は、彼のマルクスの捉え方、またコミュニスムとファシスムという二つの主題を包括しようとする当時の彼の思考の枠組みを示していて、興味深いものである。

〈マルクシスムは、最終段階では社会の下部構造が上部構造を決定し条件づける、と断言した後、宗教的・政治的社会の形成に特有の状況について、総体的な解明の試みをいっさい行わなかった。同様にそれは、上部構造からの反作用の可能性を認めてはいるが、その場合もやはり、断言したままで科学的分析を施すに至っていない。本稿は、ファシスムに関連させて、社会的上部構造とその経済的下部構造との関係を、厳密に(完全にではないにせよ)提示することを試みるものである〉*7

 これはほとんど機械的な経済決定論に支配されていた当時のマルクス主義から言えば、きわめて特異な考えかたであった。だがそれだけにマルクス主義と言われていたものの欠陥を鋭くえぐったものであって、おそらく今日でも十二分に聴くべきものであると思われる。この背後にはバタイユのこれまでの思考が蓄積されている。下部構造が上部構造を決定するとは、一見物質の優位を言っているようでありながら、それは物質が上部構造すなわち観念の世界に包含されたことを言っているにすぎない。だが物質が非従属性という本来の作用を持つならば、それはまた観念の世界から解放されると同時に、観念の世界を解放し、後者が独自の様相を持つことを許すのである。観念の世界のこの独自性は、第一に宗教として現れる。だがある状況下においては、政治の動きもまたこのような独自性を持つことがあり得る。ファシスムの場合がそれなのだ。だからファシスムは、ただ経済的現象としてではなく、心理的現象として扱いうるのである。このような立場を認めることで、彼はファシスムを批判する視点を獲得するが、それは同時にこのあと、彼に宗教的な探求を可能にし、かつこの探求を特異なものとしたのである。
 「消費の概念」「国家の問題」「ファシスムの心理構造」は、息せくようにしてわずか一年ほどのうちに書かれるが、これらが書かれた三三年という年は、ヨーロッパの現代史の上できわめて重要な年であった。なぜなら、繰り返し述べてきたが、この年の一月三〇日ドイツでヒトラーが政権を取るに至ったからである。「民主共産主義者サークル」の中では、この成立をめぐって対立が生じる。スヴァーリンはこのグループを合法的な政党として組織することを考えていたが、ほかにには武装闘争を主張して地下組織化することを求める意見があったらしい。三四年始め、今度はパリのコンコルド広場での右翼の騒擾事件を背景として、サークルも雑誌も分裂する。この時バタイユはどちらにも属さない、というよりも、革命に非合理的な要素、病理的な本能を持ち込もうとしているという非難を受け(そう言われたということは以上のような検討から理解されるだろう)、どちらの側からも排除される。彼は自前の組織の結成へと向かうほかない。それがコントル・アタックである。だがその前に、バタイユの政治意識を作ったもう一つの要素であるファシスムを検討しなくてはならない。

*1 スヴァーリンについては、評伝が出ているので、それを参照した。"Boris Souvarine", par Jean-Louis Panne, ed.Robert Laffont, 1993.
*2 バタイユはそのようには語っていないが、それはたぶんコレット・ペニョーをめぐる争いのためである。スヴァーリンは後にバタイユに、ほとんど中傷のような批判を投げかけることになる(一九八三年に「社会批評」復刻された際に寄せた序文、Edition de la difference、バタイユに関する部分が「ファシスムに魅された男」の題で訳されている。岩野卓司訳「ユリイカ」一九八六年二月号)が、バタイユも彼を無視する態度をとることになる。
*3 ブルトンは二六年に共産党に入党する際、スヴァーリンに相談している。スヴァーリンは除名後だったが、反対はしていない。この時期の彼は、追放後のトロツキーがそうであったように、復党とその後の党の路線変更がまだ可能であると考えていたようだ。トロツキーがファシスムを阻止できなかったコミンテルンと共産党に見切りをつけ、第四インターナショナルを計画するのは三三年(結成は三八年)、フランスとスペインでの彼の同調者に社会党に入党することを指示するのは三四年以降である。
*4 トロツキーの『スターリン』が出版されるのは一九四〇年のことである。ただし未完。
*5 ペトルマンの評伝『詳伝―シモーヌ・ヴェイユ』(杉山毅訳勁草書房)による。
*6 クノー「ヘーゲルとの最初の衝突」
*7 この一節を読むと、誰もが吉本隆明の幻想論を思い出すのではないだろうか。吉本は、「下部構造が上部構造を決定する」という理論の下に社会主義リアリスムが力を振るったのを批判したが、その根底には、マルクスに関する次のような理解がある。マルクスは初期において哲学や宗教のあり方を含む哲学的な全体を考察の対象とし、それらの相対的な自律性を認め、それらが経済的な構造に一元的な支配を受けるものではないと考えていた。だが後期においては、自分の仕事を資本主義社会の経済的な分析に限定し、宗教や芸術に関する考察は手つかずに残した、と。そしてマルクスが残した仕事を継ぐものとして構想したのが、『言語にとって美とはなにか』『共同幻想論』を軸とする彼の幻想構成の理論である。

第1回終わり



Booby Trap No. 22



バタイユはニーチェをどう読んだか 1-バタイユはニーチェをどう読んだか 2-バタイユはニーチェをどう読んだか 3-バタイユはニーチェをどう読んだか 4-バタイユはニーチェをどう読んだか 5-バタイユはニーチェをどう読んだか 6-バタイユはニーチェをどう読んだか 7-バタイユはニーチェをどう読んだか 8-バタイユはニーチェをどう読んだか 9(最終回)-バタイユ・マテリアリスト 1-バタイユ・マテリアリスト 2-バタイユ・マテリアリスト 3-バタイユ・マテリアリスト 4-バタイユ・マテリアリスト 5(最終回)-政治の中のバタイユ 1-政治の中のバタイユ 2-政治の中のバタイユ 3-政治の中のバタイユ 4-エクスターズの探求者 1

バタイユ・ノート4
政治の中のバタイユ 連載第2回

吉田裕



第4章 ファシスム
 政治的なものに向かうバタイユの軌跡をたどろうとするならば、ファシスムの問題が最大のモメントをなしていることは、誰の目にも明らかだろう。コミュニスムがある意味では遠い国の出来事で、理論的な問題にとどまったところがあるのに対し、ファシスムは国境を接する隣国で起こり、またフランスの国内においても現実的な危険となった問題でもあったからである。バタイユの政治的意識は、ファシスムとの関わりの中でもっとも先鋭な姿を取って現れる。
 ファシスムは通常、第一次大戦後のイタリアにおいて発生し、三〇年代のドイツにおいて最盛期を迎えるというふうに理解されている。そしてバタイユの試みは、これに抵抗するものと見なされて読まれることになる。しかしながらこの姿勢は、すでに後世のある判断、すなわちファシスムはある特定の国の運動体であり、悪であるという判断を前提としている。だがこの二つの判断とも前提とするには足りない。なぜなら、ファシスムはフランスの問題でもあったし、また批判的な考えかたが最初から一般的であったわけではないからである。私はまず、当時のありのままの状況の中にバタイユを置く。彼が「シュルファシスム」と批判されたことは、今では周知の事柄に属するが、けれどもこのような視点をとることは、右の批判を肯定することではない。私は彼はファシストではあり得なかったと考えるが、しかしそれは彼がリベラリストであったということではない。彼はファシスムにもっとも近くまで接近することで批判をなしえたのであって、この様相はある種の人々には「シュルファシスム」と見えたのである。このような危険を冒した彼の大胆さは、彼を時代のなかに位置させる立場からしか理解され得ない。
 ファシスムの名のもとになった運動は、一九一九年三月にイタリアのミラノで、元社会主義者で、退役軍人であったムソリーニが「イタリア・ファッショ戦闘団」という団体の旗揚げをしたところに始まるとされている。ファッシというのは、イタリア語で「束ねる」の意味であり、このような互助的な組織は一九世紀末から存在したらしい。ムソリーニのものは、第一次大戦に従軍した帰還兵士の団体であって、戦闘を経験した者同士の友愛と結束を保持することを唱い、その上に社会的紐帯の再建を加えて、当時はイタリアのみならず、フランスでもドイツでも、さほど珍しくはない団体の一つだった。ムソリーニのこの団体は、彼の指導者としての有能性から急速に支持者を集める。また一九年から二〇年のイタリアでは、「赤い二年間」と呼ばれるほどに共産主義運動によるストライキが頻発したが、それに対する破壊活動に加わることで、ブルジョワ階級の支持をも得て、政治的な力を持ち始める。
 その結果彼は二二年に支持者を集めてミラノからローマまで示威的な行進を行う。これは実質は大規模なデモンストレーションにすぎなかったのだが、政府を狼狽させ、国王は戒厳令に署名することを拒否して、逆にムソリーニに組閣を命じる。ここに初めてファシスト政権が成立したのである。ファシスト集団の持つ軍事的暴力的な性格、指導者に対する盲目的な服従は、人々を不安にするが、他方で新しい価値観を与えるようでもあって、多くの人を引きつけもする。文学者の中でも未来派の提唱者であったマリネッティ、官能的な詩人であったダヌンチオなどが共鳴する。この政権は、経済がようやく戦争の痛手から立ち直りかけていたこともあって、かなりの成功を収め、二九年の大恐慌もとりあえず乗り切る。
 しかしながら、イタリアそのものが大国ではなかったために、ファシスト政権がフランスに強い不安をもたらしたとまではいえないようだ。バタイユに関して言えば、二四年以前の彼には政治的な関心を示した痕跡はない。はじめて政治的な発言が現れるのは、二〇年代後半だが、それはもっぱらコミュニスムに関するものである。ファシスムに関する言及が最初に現れるのは、私が知る限りでは「老練なもぐら」(三一年)である。ファシスムの不安と同時にある種の魅惑がフランスに侵入し、フランスにも存在したファシスム的要素を増幅させるのは、常に脅威であった隣国ドイツでファシスムが勃興し始めたときである。
 ドイツの場合も、第一次大戦後、イタリア同様の理由から、旧軍人の民兵的な集団が各地に生まれる。その中の一つが、一九年にミュンヘンで結成された「国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)」である。創立者は別人だったが、すぐあとに入党したヒトラーは、弁舌の才によって瞬く間に指導者に成り上がる。この時期ドイツではワイマール共和制のもとにあったものの、地方分権がまだ強く残っており、バイエルン地方では軍の関係者から、強力に浸透し始めた共産主義に対抗する活動を期待され、突撃隊を中心に資金上装備上の援助を受ける。当時ヒトラーはムソリーニを尊敬していたようで、二三年には、ローマ進軍に倣ってベルリン進軍を計画し、武装蜂起を試みるが、これは事前に漏れて失敗する。これがいわゆるミュンヘン一揆である。ヒトラーは逮捕され、有罪の宣告を受け、収監されるが、その間に『わが闘争』を著す。
 ヒトラー出獄後、二五年からナチ党は政策を変え、一揆主義を放棄し、合法的な議会主義路線をとるようになる。二八年の国会選挙では、党勢はふるわない。しかし二九年に大恐慌の波が、アメリカから発して全世界を覆う。この大恐慌は大戦の痛手からようやく立ち直りかけていたドイツ経済を直撃する。大きかったのは、当時の社会生活の中心であった中産階級、自営の商工業者を没落させたことだ。破産に追い込まれたこれら中産階級は、労働階級におちていくことを肯定できず、新しい秩序を訴えるナチス党に多く参集する。その結果三〇年九月の国会選挙では、ナチス党は議席数を二八年の一二から一〇七に伸ばし、第二党に躍進し、三二年七月と十一月の選挙ではついに第一党となり、三三年一月には政権を掌握して、ヒトラーは首相に就任する。共産党は社会民主党と労働組合にゼネストを呼びかけるが、合意は得られなかった。逆に選挙直前の二月末、謀略によるらしい「国会議事堂炎上事件」によって、両党は徹底的な弾圧を受ける。三月の新国会では、政府に強大な権限を付与する授権法が成立する。この間ヒトラーは三二年一月に経済界と接触し、それなりに持っていた資本主義批判を修正して資本家階級と妥協し、政権獲得の翌三四年六月には、突撃隊の指導者であったレーム、社会主義的側面を持っていたシュトラッサーを粛清する。そして同じ八月、大統領ヒンデンブルクの死去にともなって大統領職を廃し、総統という権力を集中させた職を作り、それに就任する。これによってドイツでナチ党の独裁体制が成立する。
 以後を簡単にたどると、三五年九月にドイツ人の民族性を守るという名目のニュルンベルク法が成立し、再軍備を実行し、三六年三月にラインラントに軍隊を進駐させる(七月にスペイン内乱が始まる)。三八年四月にはオーストリア、一〇月にはミュンヘン会談をへてチェコ・ズデーデン地方が併合され、一一月には水晶の夜がある。三九年になると三月にプラハが占領され、八月には独ソ不可侵条約が締結される。そして一週間後の九月一日、ドイツ軍はポーランドに侵入し、第二次大戦が開始されるのである。

第5章 フランス
 隣国イタリアとドイツでの出来事は、フランスでも無縁でありえない。フランスは一貫して民主主義の国であったというのは、教科書的思いこみにすぎない。第一次大戦での戦勝国の側にあったとはいえ、死者は一三五万人、第二次大戦よりも多く、また経済的にも疲弊して、社会的不安はドイツとあまり変わらなかった。政治的には、第三共和政の議院内閣制の下で左右の衝突が激しく、政府は平均して八ヶ月程度の寿命しか持たなかった。三三年にはボルドーで大規模な贈収賄事件が発覚し、贈賄者とされたスタヴィスキーとが不審な死に方をして、共和制民主主義の腐敗が明らかになる。
 こうした状況に応じて、諸党派は批判を強める。左派に関しては、先に見たように二一年に社会党から共産党が分離し、労働者の間に浸透する。右派に関してはさまざまの党派が存在するが、中で特に記憶しなければならないのは、シャルル・モーラスの理論に支えられた「アクシオン・フランセーズ」と、元軍人であるラ・ロック大佐に率いられた「火の十字架団」、およびプロレタリア階級出身で共産党政治局員であったドリオの「フランス人民党」であろう。だがこれら三つは性格が異なる。「アクシオン・フランセーズ」は、ドレフュス事件さなかの一八九九年に結成され、反ユダヤ主義的傾向、王党派的反動的な性格、フランス革命以前のキリスト教(カトリック)に基づく王政の復古をめざした。これは日本型の天皇制ファシスムと似ている。これに「火の十字架団」は、元軍人とその子弟を集め、三五年には団員七〇万人と言われ、その暴力的な性格で恐れられるなど、ファシスト党の黒シャツ隊、ナチス党の突撃隊に似た性格を持っていた。三六年に結成される「フランス人民党」は、党首であるドリオの経歴から明らかなように、左翼からの転向者を集め、党員の三分の二までが労働者という特異なファシスム政党であった。
 隣国イタリアとドイツで、強い国家権力とカリスマ性を持つ強力な指導者が出現したことは、フランスの右翼をいらだたせる。これらの国々に対抗し得るおなじように強いフランスを求め、ヒトラーの独裁体制が成立したことに反応し、三四年二月六日に、「アクシオン・フランセーズ」と「火の十字架団」を中心に数千人がパリの中心コンコルド広場に集まり、激しい示威行動を展開する。これはムソリーニのローマ進軍、ヒトラーのミュンヘン一揆に相当するものだろう。デモ隊は新内閣の信任案を討議中の議会(セーヌ川を挟んだ対岸のブルボン宮にある)に押しかけようとし、警備の憲兵隊や警官隊と激しく衝突し、十数人の死者を出す騒擾事件を引き起こす*1
 この事件は、各方面に大きな衝撃を与える。フランスでもファシスムの時代が始まるのではないかという深刻な不安がフランス中を覆う。この不安はようやく社会党と共産党を動かすことになる。当時まで二つの党は、分裂の経緯と路線の違いから激しく対立し合っていた。社会党は議会主義路線をとっていたが、共産党は国際的な共同路線を重視し、議会外での行動を重視するものであった。ドイツでは二九年に、プロイセン政府、社会民主党、労働組合の指導部は過激団体の取り締まりを理由として、すべての集会とデモを禁止したが、これを無視した共産党の呼びかけによって、労働者が集結したところに警察が発砲し、多数の死傷者を出す事件が起こっている。この「血のメーデー」事件によって、社共の分裂は決定的になる。コミンテルンの見解では、社会民主主義はファシスムの予備軍であり、共産主義者は、まず社会民主主義者と戦うべきであるとされた。左翼の側のこの分裂が、ファシスムの進出を利したことは否めない。フランスにおいて社会党と共産党は、ドイツでのこの失敗に鑑みて、ようやく協調路線を取ることに合意し、騒擾事件直後の二月一二日に、その影響下にある労働組合を合同して大規模なデモとゼネストが実行する。ストライキに参加した労働者は一〇〇万と言われ、左翼は力量を示すことに成功する。
 このときの協力が元となって、翌三五年七月一四日の革命記念日に、社会党、共産党、急進社会党、それにCGTなどの労働組合、反ファシスム知識人監視委員会*2などの知識人組織を含めた「人民の結集Rassemblement populaire」を成功させる。これがやがて「人民戦線Front populaire」と呼ばれることになる。この年仏ソ相互援助条約の調印して、フランスとの友好を政策としたソ連とコミンテルンは、この統一行動を評価し、人民戦線方式を是認する。これによってフランス共産党の方針は変更され、社会党、急進社会党との間で、三六年一月に政策協定が結ばれ、反ファシスムを中心とする左翼の統一が成る。この統一党派は、五月の総選挙を経て、六月に社会党党首のブルムを首班とするところの人民戦線政府が成立させる。これはフランスの歴史上で最初の左翼政権の成立であった。この第一次ブルム内閣によって、週四〇時間労働制、二週間の有給休暇(ヴァカンス)、労働組合の交渉権の認知などブルムの実験と言われる一連の社会主義的な改良が行われ、フランスは平和な改良の時代を迎える。しかしながら、難事件は外側からやって来る。
 それはスペイン問題である。スペインでは、フランスよりもわずかに早く三六年の一月に王政を倒して、人民戦線内閣が成立し、土地改革などの改良に着手するが、軍部や地主階級の抵抗が強く、七月にはフランコ将軍が共和政府に反乱を起こす。これがスペイン戦争の始まりである。フランコの反乱に対してイタリアとドイツは公然と援助を行うが(ドイツ空軍によるゲルニカ爆撃は三七年四月のことである)、フランスは同じ人民戦線政権でありながら、イギリスの協調を得ることができず、ドイツ、イタリアと直接衝突するのを恐れて、不干渉政策を採る。戦争は、三九年、共和政府側の敗北に終わり、スペインにはファシスト政権が誕生することになる。これは明らかにフランス人民戦線政府の外交上の失敗であり、また国内の経済がうまくいかなくなったこともあって、ブルム内閣は三七年六月二二日、わずか一年で瓦解する。そのあとも政権は左右に揺れ動き、三八年三月にはブルムがもう一度内閣を組織することもあるが、わずか一ヶ月間続いたのみで、もはや三六年の熱気を再現する力はなく、そのあと急進社会党のダラディエが組閣するものの、人民戦線は完全に瓦解しており、ファシスムに譲歩を重ねて、三九年九月の第二次大戦勃発を迎えることになる。

第7章 民主共産主義サークルからコントル・アタックまで
 バタイユは、この変転著しい時期をどのように生き、どのように考えたか。三三年終わり頃、彼はスイスのスキラ書店の誘いを受けて、マソンとともに「ミノトール」を計画し、発刊にまでこぎつける。バタイユはこれを「ドキュマン」の跡を継ぐものと考えていたようだが、結局シュルレアリストたちに乗っ取られる。三三年末には「民主共産主義サークル」と「社会批評」は、完全に瓦解する。これによって彼は再び、よりどころのない立場に追いやられる。彼は政治に嫌気のさすことがあったようだが、三四年二月の反ファシスムデモには参加している。同じ頃、通っていた高等研究院で、コジェーヴのヘーゲルの「精神現象学」に関するゼミナールが始まり、そこに出席し、強い影響を受ける。私生活の上では、三四年三月には妻と別居し、三五年はじめに離婚する。同時に無数の交情があり、ロールこと、コレット・ペニョとの関係が始まる(「アセファル」の冒険を経て、ロールが死ぬのは三八年十一月七日である)。
 この時期のバタイユの思想的な遍歴には、きわめて興味深いものがある。この遍歴は錯綜しているが、それを解きほぐす作業はどうしても欠かすことはできない。この時期バタイユの関心を最も強く導いたのは、ファシスムに対する批判の意識であることは間違いない。彼は「社会批評」の最後の二つの号(三三年十一月の一〇号、及び三四年三月の一一号)に、「ファシスムの心理構造」を書いている。これは特異な観点を提出して、高度な分析に及んだ論文だったが、それでも問題がこれで解決したのというのでは全くなかった。彼はいっそう深くファシスムを追求しようとする。三四年二月一二日のデモのさいには、珍しいことだが、日録風のかなり詳細な覚え書を残している*3。そして彼はファシスムを論じるために一冊の著作を計画する。この書物は「フランスのファシスム」という題名を予定されるが、バタイユの多くの著作計画と同じく、完成には至らない。だがこの関心は、変容して小説の形を取るに至る。それが『青空』である。けれどもこの作品も戦後の五七年に至るまで未刊行のままに残される。すべては最も奥深いところで、人知れず行われたのである。
 ファシスムに対する批判の意識は、ついで「コントル・アタック」という極左的なグループを結成させ、失敗させる。この時期にも、彼はかなりの量の書き物を残している。しかもこの時期に書かれたものは、眼前の事件の分析、アジテーションのためのビラ等々であって、有効性に専念するもっとも実践的な言語なのだ。この言語は、現実と激しく接触し、消え去ろうとしながら、かろうじて残される。これらもまた最も見えにくいところで行われた彼の試みの痕跡を示すものである。
「コントル・アタック」の失敗は、彼を実践的な局面から引き離すが、それでも彼を政治から背を向けさせることはない。三七年の「アセファル」また「社会学研究会」が政治の原質的なものへの強い関心に動かされていたのは、前にも見たとおりで、そして今回はこの二つにやはり同じ年の「集団心理学会」の結成があるが、かりにこれらが学問的な装いを持った関心だったとしても、その背後には、共同体というかたちでの現実への関心が作用し続けていた。加えるべき証拠に次のようなものがある。彼は「フランスのファシスム」を書くのを、少なくとも開戦に至るまではあきらめていない。三八年のことだが、彼は「社会学研究会」の共同主催者であったカイヨワに対して、後者があるガリマール社で編集の責を負っていた「君主と圧制(権力の極度の形態に関する研究)」という叢書の一冊として、「社会批評」に発表した論文に手を入れ、前文を新たに付加して「悲劇的運命」という表題のファシスム論を出せるように申し込んでいるからである*4
 三八年というと、バタイユはヨガの手ほどきを受け、秘教的な実験に乗りだそうとしていた頃である。「死を前にしての歓喜の実践」(三九年六月の「アセファル」五号に公開)が書かれ、その後に「反キリスト教徒のための心得」(これは草稿のままで残される)が続く。これらは、題名からは、もっぱら宗教的な関心のみの著作のように聞こえるかもしれないが、ことに前者は、供犠によってどのように宗教的境地が獲得されるかを心理学および社会学の立場を念頭に置いて分析したものであり、その背後にはファシスムを核とする政治的動向に結びつく関心があったはずだ。この錯綜は、とうてい一枚の見取り図に還元することは出来ない。私たちは少しずつ視点を変えながら、数回にわたってこの時期を反復してなぞることを避けえないだろう。私がまず提起したいのは、そしてそれが今回のノートの主題なのだが、最も現実的なものとしての政治的な関心である。

第8章 「ファシスムの心理構造」
 この論文を理解するためには、まずそれがこの時期のバタイユの中でどのような位置を占めているかを把握しておく必要がある。論文の一番根幹の構造をなしているのは、ブルトンとの論争文の一つである「サドの使用価値」で提起された異質学の理論である。この理論的構想は、「サドの使用価値」で最初の形を与えられた後、「心理構造」(以下このように省略する)で最も進んだ形にまで高められるが、以後は前景から退いてしまう。理論として整えることは放棄されたのだろう。ただ同じ関心は、姿を変えてこの時期の多くの論文に現れる。「消費の概念」の宗教、情念、無意識、暴力など生産に還元されない非生産的消費とは、明らかに異質的なものであり、逆にこれらの非生産的消費は、「心理構造」では異質的なものの例としてあげられている。
 「心理構造」は、理論的な面のかなりの部分を先行する諸論文に負っているが、基本的にはバタイユは、ファシスムを異質的なものの現代における最も先鋭な形態として考えている。その上で彼は次のように把握する。〈ファシスムは、なによりも権力の集中化、凝縮として現れる〉(第10章「異質性の至上形態としてのファシスム」*5)。すなわち、「心理構造」は権力論として構想され、宗教的権力、軍事的権力、王制的権力という歴史的な現れを考察し、その上で現代における課題としてファシスムを提起するという構成をとっている。バタイユは、〈王権の中に他の二つの権力、つまり軍隊と宗教の権力を構成する要素を見いだすことは容易である〉(第7章「傾向的中心統合」)、また〈王権についての一般的記述は、ファシスムに関連するあらゆる記述の基礎になる〉(第6章「異質的存在の強権的形態ー王権」)と言う。彼は人類の最初の権力として宗教的権力と軍事的権力を、そして二つが合体したものとして王権を考え、その現代的な様態をファシスムだとみなす。
 もう一つ注意しておかなければならないのは、一般的にはそう思われているような、また当時のマルクシスムがそうしていたような、経済的な優位性が権力を決定するという立場をとってはいないことである。序文で明言されているが、彼は「上部構造」が独自の動きをして、それが政治的権力の本質をなすという立場をとる。本文中でも〈ファシスムによる統一が成立するのは、それに基礎を提供する経済的諸条件の中ではなく、それに固有の心理的構造の中でのように思われる〉(第12章「ファシスムの根本条件」)と書いている。そこから導き出されるファシスムの姿は、今日でもなお私たちの目を引くものである。
 これらのことを背景にした上で読むと、「心理構造」の最も基本をなしているのは、異質なものは社会の中でどのような本質を持ち、どのように作用し、どのように錯誤しうるかという問いであることが見えてくる。彼はまず社会が同質性に依拠して形成されることを確認する。なぜなら〈人間関係というものは、一定の人員と一定の状況とによって成立する同一性の意識を基礎とする固定された法則にようやくすることで保たれる〉(第1章「社会の同質的部分」)からである。このことは、貨幣によって通約性がかつてなく拡大された近代社会においていっそうよく当てはまる。しかしながら同質性の確立は、反面で異質なものの排除であり、こうして成立した近代ブルジョワ社会へのバタイユの憎悪に近い反撥はすでに見たところである。
 この社会に対して、ファシスムとその指導者ムソリーニやヒトラーは、異なった存在の仕方を示す。〈ファシスムの扇動者たちは、異議なく異質的存在に属している〉(第4章「異質な社会存在」)。彼らの持つ魅惑の力は、民主主義政体の政治家たちがとうてい持ちえないものである。それは彼らが等質化から排除された社会の異質な部分――落伍者、あるいは元兵士といった――の出身であるところから来ている資質である。だがこのような異質性があることは、すでに「サドの使用価値」の中で指摘されていた。バタイユはエルツとデュルケムを援用して、聖なるものの存在と、それに純聖と不純聖の二つがあることを説いていた。エルツとデュルケムは、この二つの聖なるもののうち、純聖なものが宗教として結晶していくのを後付け、肯定した。しかしそのときバタイユは、純聖なものは、いつの間にか世俗的同質的世界と合一し権力と化してしまうことを指摘し、それに対して不純聖な異質さだけが、どこまでも異質的であり続けうると述べ、この後者の異質さ、すなわち汚れたものまた低次の物質に依拠することで、同質的な世界へと回収されてしまうことをどこまでも拒否しうるとしたのである。
 しかしながら、ファシスムはさらに一歩先で問題を提起したと言わなければならない。なぜならファシスムは不純な異質性から出発しながら、いつの間にか同質的な世界に合致し、権力を構成してしまうことがあり得るということを示したからである。これはバタイユにとって新しい課題であったはずだ。またそれは、聖なる世界と俗なる世界、純聖と不純聖は壁画的に分類されるものでなく、その間にダイナミックな変容と交換の可能性のあることも示したのである。あるいはそれは、イエスの十字架上の死という惨憺たる出来事を巧妙に純聖へと読み変えていったキリスト教を批判することにも通じると考えられていたに違いない。だから彼は是非とも、ファシスム的権力のよってくるところを明らかにしなければならなかった。
 私の見るところでは、彼の批判は次のように読みとることができる。バタイユは不純聖の異質さが辿りうる過程を、ファシスムに即して次のように分析している。

〈外面的な行為についてではなく、その源に関して考察するならば、ファシスムの扇動者たちの持つ「力」は、催眠状態において働く力に似ている。扇動者をその賛同者たちに結びつける感情の流れ――それは賛同者たちを扇動者に精神的に一体化するというかたちを取る(この働きは相互的である)――は、権力とエネルギーを持つことを共同で意識するという機能を果たす。それによってこの権力とエネルギーは、ますます激しさを加え、ますます常軌を逸するものとなっていき、統率者の人格の中に蓄積され、統率者が無制限に行使し得るものとなる〉(第4章「異質な社会存在」)。

 低次の異質さは、強力なエネルギーを発揮する。それはかりに扇動者を持つとしても、その関係は相互的でなければならないはずである。しかし扇動者を受け入れるということは、このエネルギーを一方的にこの扇動者にゆだねることになってしまう。扇動者はエネルギーを搾取するのであり、一方大衆は、自分たちが産出したエネルギーの過剰さに耐えられず、それを他の人間に譲り渡すのである。
 この過程はまた単なる委譲ではなく、変質を伴う。バタイユは、前述のようにファシスムに王権的性格と軍事的性格の二つを認めているが、とりわけ後者の性格が強いこと、指導者に対する絶対的な服従があることを指摘した上で、エネルギーの委譲が倒錯を引き起こすことを次のように明らかにする。

〈この統一の感情的性格は、兵士の将軍に対する癒着という形態で現れる。それは兵士それぞれが、将軍の栄誉を自分自身の栄誉と見なすことを意味する。この過程を媒介することによって、吐き気を催させる殺戮は、根本的にその逆のものである栄誉に、つまり純粋かつ強烈な魅惑に変容する〉(第8章「軍隊と将軍」)

 この過程は、もっと原理的には次のように言えるだろう。すなわち、異質的なもの、その中でも不純聖に属する異質さは、魅惑と嫌悪、引き寄せと反撥の二つの相反する作用を持っていてそれを相互に作用させることによってはじめて本来的な姿を持つのだったが、それがただ引き寄せる作用のみを拡大された時、それは引き寄せられた者たちをただ服従させ、彼らが産出したエネルギーを吸い上げ、権力的な構造を作り出し、同質的な世界と癒着することになるのである。これが、汚れたもの残酷なものを根源に持っていた宗教や軍事力がいつの間にか権力を持つことになる変質の過程であり、ファシスムは、現代においてこの過程を正確になぞったのである。
 この批判から、今度はバタイユの積極的な試みがどのような方向に向かって打ち出されようとするかを推測することは容易である。すなわち異質なものをただ魅惑する力の側面からのみとらえないこと、また魅惑の力のみが偏重されて変質と凝固が起きているときには、異質なものの持つ残酷で、汚れて、おぞましい力をいっそう明らかにすることであった。不純な異質性は、「心理構造」の範囲内では、まずプロレタリア階級に求められる。〈こうして意志的領域の上層部は、不動のものになると同時に、他を不同にするものであり、一人貧困で抑圧された階級で構成される下層部だけが身軽に動きうる。・・マルクシスムの用語でいうならば、この階級は革命的プロレタリアートとして自己を意識せねばならない〉(第12章「ファシスムの根本的条件」)。プロレタリアートがプロレタリアートとしての自己を意識するとは、下層のつまりは低次の異質性を確認し、それを決して譲らないことを意味する。
 しかしながら、注目すべきは、この動的な本質を持った部分がただプロレタリアートのみではないとされている点である。バタイユは次のように書いている。〈こうした魅惑の中核は、ある意味では「意識を持ったプロレタリアート」と呼ばれるべきものの形成以前に存在していると言うことすら可能である〉(同上)。これはバタイユの関心事が思いがけず漏れてしまった一節であるように見える。プロレタリアートの形成以前に存在するとは、〈存在論の尊大な機構に還元されることを拒否する〉(「低次唯物論とグノーシス」)ことではないのか? そしてそのように存在するのは、バタイユにおける「物質的なもの」のことではないのか? ここでバタイユは確かに、マルクス主義的な限定を越えて、いっそう物質的なものの方、そのおぞましさの方へと向かおうとするのである。
 ファシスム批判は、バタイユにとっては、政策として成文化されうるようなものではなかった。それは姿勢のちがい、もっと踏み込んで言えば、存在の仕方のちがいであった。彼は物質を求めて、いっそう深いところに潜り込まねばならなかった。思考と言語の底は、ほとんど破れようとしていた。彼が触れようとするのは、その亀裂の先にあるざらつくような現実の手触りである。

*1この事件については、さらに検討が必要である。「火の十字架」は、最終的にはブルボン宮に侵入しようという他党派からの誘いには乗らず、そのために後日批判を受ける。事件以後、いっそう過激な小グループが多く生まれるが、三六年一月、つまり六月の人民戦線内閣成立以前のことだが、極右の行動部隊に対する解散命令が出される。
*2三四年の騒擾事件に危機感を持ったブルトンの呼びかけ「行動へのアピール」をきっかけとして結成された。参加者は他にアラン、ゲーノ、マルローなど。
*3この時期のメモ類は、全集第U巻に収録されている。いずれも未訳である。その中のいくつかを以後検討の対象とする。三四年二月一二日の覚え書は比較的長いもので、「ゼネストを待ちながら」という題で収録されている。
*4『カイヨワへの手紙』Lettre a Roger Caillois, 4 aout 1935 a 4 fevrier 1959, Edition Folle Avoine, 1987, p83。未訳。
*5この論文では「心理構造」のすべての論点を網羅することはできない。権力論としてのみ取り上げる。

第2回終わり



Booby Trap No. 23



バタイユはニーチェをどう読んだか 1-バタイユはニーチェをどう読んだか 2-バタイユはニーチェをどう読んだか 3-バタイユはニーチェをどう読んだか 4-バタイユはニーチェをどう読んだか 5-バタイユはニーチェをどう読んだか 6-バタイユはニーチェをどう読んだか 7-バタイユはニーチェをどう読んだか 8-バタイユはニーチェをどう読んだか 9(最終回)-バタイユ・マテリアリスト 1-バタイユ・マテリアリスト 2-バタイユ・マテリアリスト 3-バタイユ・マテリアリスト 4-バタイユ・マテリアリスト 5(最終回)-政治の中のバタイユ 1-政治の中のバタイユ 2-政治の中のバタイユ 3-政治の中のバタイユ 4-エクスターズの探求者 1

バタイユ・ノート 4
政治の中のバタイユ 連載第3回

吉田裕



第8章 「フランスのファシスム」
 前回のノートで「ファシスムの心理構造」まで辿ってきたのだが、そこまでの過程はある意味でまとまりのつけやすいものであった。というのは、バタイユの活動は、主となる舞台を設定することができていたからである。もちろん彼はほかにいくつか活動の場所を持っているのだが、二〇年代には「ドキュマン」、三〇年代はじめには「社会批評」という場所に集中している。「ファシスムの心理構造」は後者の最終号(三四年三月)に掲載されたものだが、この雑誌以後彼は、少なくともしばらくの間、特定の雑誌に拠るということがない。前述のように彼は「ミノトール」(第一号が出るのは三三年五月)に協力するが、シュルレアリストたちに乗っ取られる。彼が自分の雑誌らしいものを持つのは、三六年六月に第一号が出る「アセファル」にいたってである。だがアセファルも薄い雑誌で、五号までしか出ていない。一方彼はかなりの量を書いており、それらは様々の小さな雑誌に寄稿というかたちをとっている。したがって、社会学研究会の講演などいくつかの集合の場合を除いて(だが三七年から三九年の活動を、社会学研究会だけに絞ってしまうのもまた間違いなのだ)、特定のテーマを持続的に追求するということはなされていない。だが草稿のたぐいは多く残される。それらは、後年になっても書物にまとめられることはない。要するにこの時期のバタイユの活動は、混沌としており、それを跡づけるのは容易でない。バタイユとはこの混沌なのだ。だがバタイユを読もうとする限りは、そこに道筋を設けてみなくてはならない。それは仮説にすぎないが、仮説だということを肝に銘じ、必要なときにはいつでも混沌に戻しうる姿勢を保ちながら、それを追求するほかない。
 いくつか考えられる仮説のうちで、まず妥当なのは、全集という形で提出されたものだろう。少なくともすべてを網羅的しているからだ。第II巻はこの時期の草稿類を集めたものだが、その中の「社会学的試論集」と名付けられた一群の草稿が、私たちの関心を引く。この表題はバタイユ自身がひとまとめにしてその束の上に書き付けておいた名前らしく、それだけに必ずしも主題は統一されていないが、そのなかに私たちの目下の導きの糸であるバタイユのファシスムへの関心を照らし出すものがある。そこに収められた草稿は「ファシスムの心理構造」の後に続くものであるらしい。前述のようにバタイユは「フランスのファシスム」という表題の書物を計画したが、そこには同題の草稿がある。草稿は題名のないままで、これは編者がつけたものであるが、確かにこの書物の冒頭部分であるようだ。あるいは「ファシスム定義の試み」と名付けられた草稿がある(いずれも未訳)。
 前者は、ファシスムを、その起源であるイタリアから説き起こし、ドイツに至るというように、ファシスムの総体をとらえようとする試みだが、彼が最初におそらく計画したであろうようにフランスにおけるファシスム的傾向の分析と批判にまでは至っていない。そしてイタリアおよびドイツのファシスムの分析は、後にアセファルに発表された「ニーチェとファシストたち」におけるムソリーニに関する部分などに現れることになる。しかしながら、この草稿にあらわれて興味深いのは、ファシスムとコミュニスムを比較した部分である。この二つの政治体制をどのように比較し評価するかは、周知のように、この時期バタイユにとってに限らず重大な問題だった。彼の立場も、視点により常に同じではないが、この論文では、二つを同一視する視点を提出している(同じ時期に書かれたとおぼしく、同じ「社会学的エッセイ」の中に収録されている「ファシスム定義の試み」では、二つを混同すべきでないと言われているが)。
 それはバタイユによれば次のようである。まず現象として、イタリア・ファシストは、社会変革の契機を作るものとして暴力組織を置くなど、ボルシェヴィキのやり方を学んでいる。生産体系の違いは問題にならない、とバタイユは言う(経済的側面を従属的なものと見なす――反対に心理的側面を重視する――バタイユの傾向が見えるところでもある)。彼が着目するのは、コミュニスムの側における変質である。ボルシェヴィスムとファシスムほど対立し合うものはない。だが類似は起こった。それは〈ボルシェヴィキたちが、自分で引き起こしておきながら制御できないプロセスがあったからだ〉。それは宗教化である。その象徴はレーニンのミイラであり、次にスターリンへの個人崇拝が始まる。ソ連は「労働者の祖国」となり、ついには「労働者の」という限定すらなくしてただの「祖国」となる。〈しかしもし、もっとも執拗な抵抗も・・君主的な制度が発達するのを押しとどめられないとするならば、その場合、大工業社会のカオス的な変容を支配する、死んだレーニン、ムソリーニ、ヒトラー、スターリンといった指導者にして神のごとき存在の、ほとんど信じられないほどの古代的なありようは、何を意味するのだろうか?〉(第六節)。この権力化、宗教化、ファシスム化は、労働運動の勝利によっても起こる。感情も風俗も科学も、すべては、「神」に対する従属に置き換えられてしまうのである。
 次の「ファシスム定義の試み」は、「フランスのファシスム」と一部かさなるところがあり、後者を延長して定義にまで近づけようとしたものだろう。そこでバタイユは、ファシスムを〈一人の頭領に従属するところの軍事的構成を持った党派〉だとしている。軍事性とは、単に武装的勢力であることを指すのではなく、これがバタイユが最も重要視する点なのだが、他に対して情念的に絶対的に従属するという存在の仕方である。それは究極的には、指導者を経て、神の存在を受け入れることである。このような意味での軍事性が、ファシスムの本質をなしていることは、「ニーチェとファシストたち」周辺のファシスム論でも繰り返し強調される。
 むろん違いがすべて無視されるわけではなく、「ファシスム定義の試み」では、実際のコミュニスト活動家をファシストと混同することを厳に戒めているが、思想的な問題としては、ファシスムとコミュニスムが、ともに奇怪な宗教性を持って現れたことを批判的にとらえようとしていると言える。同じ時期彼は、政治的関心と並行して宗教への関心を深めていて、その立場から、ファシスムとコミュニスムに表れたこの奇怪な宗教性は批判されるが、また反対に前者にもこの批判は反映することになる。

第9章 三四年二月から『青空』まで
 強力な工業力を持ったドイツでファシスト政権が成立したことは、当然ながら民主共産主義サークルにも、深甚な影響を与える。眼前に勃興しようとするファシスムにどう抵抗するか? これをめぐってサークル内で意見の相違が明らかになってくる。これは主に、議会制度のなかで反ファシスム闘争を拡大していこうとする一派と、ドイツでの左翼の敗北を鑑みて一層強力な武装闘争を組織する方向にゆこうとする一派の対立が明瞭になってくる。スヴァーリンは前者の主張を持っていたらしいが、それによって全体をまとめていくことはできなくなっていったようだ。バタイユは、「消費の概念」で明らかにされた主張、すなわち生産に還元されない消費が人間の根本であるという主張を、革命の問題に病理的な傾向を持ち込むことだと批判され、どちらのグループからも排除されていたらしい。その頃、すなわち三四年二月六日に、前述のようにブルボン宮前で、右翼による騒擾事件が起こる。二月一二日には、この騒擾事件に対抗して、社会党と共産党、それにこれらの政党に近い労働組合が合同し、ゼネストとデモが計画される。ゼネストには一〇〇万の労働者が参加し、一〇万人がヴァンセンヌからナシオン広場までデモを行った。これをきっかけとして社共の統一行動が模索され、二年後の三五年七月一四日の革命記念集会で急進社会党、社会党、共産党、それに労働組合、人権同盟、反ファシスム知識人監視委員会などを含めて、「人民の結集 rassemblement populaire 」が結成される。そして翌三六年一月に上記の三つの政党を含めて人民戦線綱領が合意され、五月の総選挙を経て、六月五日にブルムを首班とする人民戦線内閣が成立する(しかしこれが崩壊するのは、わずか一年後の三七年六月二二日である。その後ブルムは三八年三月に第二次の人民戦線内閣をつくるが、熱気はもはや消えており、今度は一月で崩壊する)。
 この時期、フランスの国内からすると、戦争は抑止され、社会は漸進的にだが改革されつつあると見えたようだ。三四年二月のゼネストとデモは、左翼がまだ力量を持っていることを示し、人民戦線は結成され、政権についたからだ。この政権によって、週四〇時間労働法、年間休暇法が可決され、労働組合の交渉権が認められ、他方で「火の十字架団」をはじめとする極右の四団体に解散命令が出される。これらブルムの実験と呼ばれる施策によって、時代はある意味では希望を信じ得るものと映っていた。
 だがそれらを背景に置いてみると、バタイユの書き残したものはいかにも対蹠的である。それらのなかで政治的な文脈の上で読むことのできるもの(もちろんほかの文脈で読むことを排除するものではない)が、まず目につく。それらは論文かフィクションか、あるいは公刊されたか草稿のままかの区別によって全集の各巻に分別されているが、「ファシスムの心理構造」「フランスのファシスム」「ファシスム定義の試み」以後を政治的関心という視点から連ねてみると、第II巻の「一九三四年―一九三五年」の項にまとめられた「ゼネストを待ちながら」「人民戦線の挫折」「予感」が来る(いずれも未訳)。このあとに位置させるべきは『青空』であろう。三四年初頭の動乱を受けて民主共産主義者サークルは崩壊するが、その中でもみくちゃになったバタイユは、三五年の五月のほぼ一月の間、当時フランス国境に近いスペインの寒村トサ・デ・マルにアトリエを開いていたアンドレ・マソンのところに避難し、そこでこの小説を書くからである。
 最初に検討すべきは、「ゼネストを待ちながら」であろう。これは「フランスのファシスム」に加えるつもりで書かれたもののようで、ゼネストをはさんで前後三日間、すなわち二月一一日から一三日までの記録、いくつかの項目に分けられた覚え書である。前日のバタイユは、ゼネストの設定が、間に週末があったものの、遅すぎたのではないかと考え、ストがあまり激しくなると、ブルジョワを不安がらせ、右翼勢力を利するから避けた方がいいのではないかと書く。しかしその後の記述には、ストが激烈になることを期待しているような部分が目につく。だが実際にはストは大した混乱なしに終わる。彼はヴァンセンヌ広場で共産党のデモに出会うが、その赤旗を持って先頭に立っていた髭面の労働者に〈悲惨が壮麗さに達している〉のを見て感動する(この労働者のことは一年後の「街頭の人民戦線」の中でも言及される)。ドイツとオーストリアのプロレタリアは一撃で倒されたが、フランスではそうではあるまい、と彼は考える。夕刻になって彼は、クノーら何人かの友人と議論し、概ね成功だったという評価を下す。しかしこれらの印象は、常に悲観的観測と一体である。前日彼は、〈いずれにせよ、ファシスムが発展するプロセスは始まっており、一般的な状況はそれに有利になっていることを忘れてはならない。すぐに収まったとしても、それは決して終わりを意味しない〉と考える。そしてストのあとでも次のように書き付ける。〈しかしながら、統一は、実現されたとしてもつかの間のものだろうし、有用となってファシスムとははっきり異なって区別され得るような組織を作ることに導くというものではあるまい。なぜなら、政府が窮してファシストと戦わざるを得なくなったとき、社会主義者たちは、政府を支えようとする誘惑に抗しきれないであろうからである。そしてもし統一が持続的であるとしても、二つの政党が合わせた力は、ファシスムの道をふさぐのには、まだ十分ではあるまい〉。
 もう一つの「人民戦線の挫折」は口頭での報告、あるいは演説の原稿らしいが、いくらかわかりにくいところがある。タイトルは消去されたものを全集の編者が復元したものらしいが、「人民戦線」という表現が表れるのは、いつ頃だろうか? 左翼諸政党の合同が模索されはじめるのは、三四年二月一二日をきっかけとしてだが、この集合は三五年七月一四日の革命記念集会までは「人民の結集 rassemblement populaire 」と呼ばれていた。「人民戦線」の名が公式になるのは、三六年一月の「人民戦線綱領」の締結によってである。一方バタイユのこのノートが書かれたのは、それが「一九三四―一九三五」という項目の中に収められ、さらに三五年五月のマソン宅への滞在中の覚え書である「予感」よりも前に置かれていることをみると、三五年春以前ということになるのだろうか。その時点で「人民戦線」の名前がささやかれることがあったのだろうか? さらにその「挫折」が語られるとは何だろうか? だがこの論文には多少の不明を越えて、興味深い点がある。それは次のような箇所である。

〈……社会的な動揺は、人間の深みから来る動揺と切り離されえない。もしこのように切り離されないものであるなら、政治的な出来事は、プロパガンダの持つどんな明快さとも異質であるような注意力を求めてくることになるだろう。直接的な現実が観察からもれることはなくなる。そしてデモクラシーの世界での内部的な動きは、狭い限界内にあることが見えてくる。同時に、視野は開放され、地平は開け、そしてさまざまの衝突のなかで賭金となっているものの大部分が、本当はあまりにも実際的な利得や挫折と結ばれているものではないことがわかってくる〉

 政治的なものが、本当は人間のもっとも奥底にあるものと結ばれていることがわかってくる。同時にこのように結ばれることで、政治的なものがただ政治的ではない相貌を持つことになる。私がバタイユのなかで一番惹かれるのは、このように「社会的な」ものと「人間の深み」を直結させ、それによってその双方のありようを変えていこうとする試みである。この研究ノートは政治的な問題を設定しているから、関心を「社会的な」面に集中させてきたが、バタイユには自分の政治的関心が、良くも悪くも政策論議には収まらないことは明らかに見えていた。それはたぶん、彼が、政治が政策として表れざるを得ないことを熟知しつつも、それを「内部的なもの」へと読み変えようとしてきたからである。
 また読み変えへのこの要請は、彼が予感していたように、デモクラシー世界の脆弱さとファシスムの執拗さが明らかで、ファシスム的な世界が到来し、政策的政治のレベルでの可能性をすべて奪われたときに、自分の内的な根拠をどう持つかのための密かな準備だったとも言える。「人民戦線の挫折」という草稿の断片がどのあたりに位置づけられるのかは明確でないとしても、この時期バタイユの関心が、持続的に、「社会的な」ものと「内部的な」ものの結合にあったことは確かである。明らかな証拠は『青空』である。
 ここでは『青空』の全体を取り上げることはできない*1。またそれはフィクションの作品であって、フィクションとしての読み方を求めてくるが、それでも半ば政治的な領域に身を浸した作品であり、その分では政治的に読むことができる。とりわけこの「政治」が、今見たように「人間の深み」に向かって読み変えられようとしているとすれば、なおさらのことである。いやそう読み変えようとしていたからこそ、『青空』のような作品が書かれえたのだ。この作品では、「政治」の側からの変容は、左翼の活動家であるラザールを通して展開され、「人間の深み」の側からの変容は、ダーティを通して進展する。そしてそれは最後に、星空を足下に見ることに表されているように全体的な転倒を成し遂げ、それまで不可能だった交接を成功させるが、この成功は「社会的な動揺と人間の深みから来る動揺」を結びつけ得たことにほかならない。
「政治的なもの」のこのようなありようを、フィクションにすぎないと批判し貶めるのは間違っている。なぜなら、読み変えと変容を経たとき、それは単純に現実的なものであるという様態を遙かに越えていくものであるからだ。

第10章 コントル・アタック*2
 おそらくは『青空』を書くことで、バタイユは気力を取り戻したのである。彼はパリに戻り、二九年以来仲違いしていたブルトンとの関係を修復し、知識人を反ファシスム闘争のために結集させようとする。反ファシスムの知識人組織としては、すでに三四年の騒擾事件直後に、ブルトンの呼びかけ(「闘争への呼びかけ」)をきっかけにしてアランやマルローが参加した「反ファシスム知識人監視委員会」があり、この団体は、人民戦線の発端となる三五年七月の「人民の結集」に一役を買う。だがそれはブルトンにとって満足のいく活動とはなっていなかったようだ。九月バタイユとブルトンは和解し、「革命的知識人同盟」という但し書きのついた「コントル・アタック(反撃)」というグループを結成する。ブルトンの側からペレ、エリュアールなど、バタイユの側からアンプロジーノ、クロソウスキー、デュビエフ、エーヌなどが参加する*3。一〇月七日に宣言が出される。この宣言の執筆は、ほぼバタイユによるらしい。宣言は二度出され、最初の署名者は一三名、二回目には二五名が加わる。後の参加者をいれ、最大限に見積もって七〇人ほどで、それほど大きな団体ではない。
 この組織の実際面での活動を簡単に振り返ってみる。知識人の組織であったせいか、あるいはブルトンとバタイユという相反するグループの糾合であったせいか、またデュビエフによればシュルレアリストの世代とそれより若い研究者世代の食い違いもあってか、活動が跛行している感は否めない。三五年とは、人民戦線の結成が模索され、綱領の合意に向かって進んでいるときだった。設立宣言を見ると、コントル・アタックが共和政民主主義と議会を激しく批判し、直接行動を求めるものであることがわかるが、にもかかわらず、三六年二月ブルムがアクシオン・フランセーズの青年に襲撃された事件に対して、社会党を中心にした抗議行動が行われると(一七日)、それに参加している。それに公開の集会が二度、ビラで宣伝されているように「祖国と家族」「二〇〇家族」のテーマで、三六年一月五日と二一日に開かれている。ついでながら言うと、コントル・アタックの実践的な行動はこれが全てである。
 そしてすぐさま分裂がくる。原因はいくつかあるようだ。コントル・アタックの結成に当たって、ある雑誌からインタビューを受けたブルトンが、あたかもそれが自分のイニシアティヴによるもののようにふるまい、また「設立宣言」が実際はバタイユの起草であるのを知っていながら、同年一一月に出版した自分の著書『シュルレアリスムの政治的位置』に収録する。これは主導権争いと言えるかもしれない。またブルトンとバタイユの性格上の相容れなさは、一夕で改善されるものでもなかった。直接のきっかけになったのは、バタイユに近かったドトリーが起草し、同意を得ないままブルトンを署名者としてしまった三六年三月のビラ「フランスの砲火の下で」に、次のような一節があったためらしい。〈何はともあれわれわれは、外交官と政治家たちのしまりのない興奮ぶりなどよりも、ヒトラーの反外交的な粗暴さを好む。なぜなら実際はそのほうが平和的なのだから〉。この言い方が「超ファシスムsurfascisme」だとして、ブルトンたちとの間の亀裂は決定的なものとなる。だがすぐあとに見るが、分裂の理由は、もっと深い思想的なところにあったと言うべきである。バタイユの側もこの時に早くも分裂を覚悟したらしい。同じ三月、ドイツ軍のラインラント進駐とそれに対する政府あるいは共産党の対応に抗議して出された、今度はバタイユ自身の起草になるパンフレット(これにもブルトンの署名があるが)、「労働者諸君、君たちは裏切られた!」に、「反神聖同盟委員会」という新しい組織の結成を示唆し、それへの参加を求める広告を添付しているからである。時期的に言うと、同じ五月にコントル・アタックに予定されていた機関誌「コントル・アタック手帖」の創刊号が出て、そこにバタイユは「街頭の人民戦線」をはじめとする重要な論文を載せているが、その時にはコントル・アタックの分裂はもう明らかだった。むしろそれはすでにコントル・アタックの限界を越えようとするところで発想されていたように見える。
 コントル・アタックは、左翼諸政党に対して強い批判を持っていたが、それでも人民戦線の結成に向かう思潮のなかで誕生したのは確かである。だがそれは人民戦線が政権を取るとほぼ同時に崩壊する。シュリヤは評伝で、〈人民戦線の成立およびコントル・アタックの内部分裂が、この運動を理由づけていたものを乗り越えてしまった〉と書いているが、内部分裂は別にして、人民戦線が成立したためにコントル・アタックが不要になったということはあるまい。コントル・アタック――少なくともバタイユの――が目指したのは政権の問題ではなかった。それは「街頭の人民戦線」という論文の題名が十分に示しているところではないか。
 バタイユはこの活動のなかで集中的に論文を書いている。それらは全集第I巻に収録され、一一の項目を数えるが、三つに分類できるようだ。第一に分類されるのは、設立に関わる文書で、三五年一〇月七日付けの「設立宣言」および、同盟員がそれぞれの立場から主張を公表する著作の広告「コントル・アタック手帖:紹介パンフレット」である。第二に、集会や行動への参加を呼びかけるビラの一群が来る。「コントル・アタック:祖国と家族」「二〇〇家族」「ファシストどもはブルムをリンチした!」「行動への呼びかけ」、そして先ほど触れた二つのビラ「フランスの砲火の下で」「権利と自由のための戦争を忘れていない人々に:労働者諸君、君たちは裏切られた」がそうである。これらは無署名かあるいは共同署名だが、実際の起草者は多くの場合バタイユであるらしい。第三は、三六年五月の機関誌「コントル・アタック手帖」の唯一の号に掲載された「街頭の人民戦線」「現実の革命を目指して」「戦争についての付加的ノート」の三つの論文である。これらはかなり長く、詳細なもので、バタイユが単独で署名しており、彼の考えを知る上で重要なものである*4。私たちはこれを今しばらく検討しなくてはならない。

*1 この作品を筆者がどう読んだかについては、「星々の磁場」(ユリイカ、一九九七年、七月号)を参照していただきたい。すべてを細部まで尽くしたわけではないが、見方の総体を示すことはできたと思う。
*2 コントル・アタックに関しては、シュリヤの評伝のほかに、参加者の一人であったアンリ・デュビエフ(一九一〇生)の回想記「コントル・アタックについての証言一九三五ー三六Temoignage sur Contre-Attaque (1935-1936), Texture,no6,1970」を参照した。デュビエフは後に歴史学者となる。彼の著書で私が持っているのは、Seuil社から出ているPoints叢書のなかの「三〇年代の危機La Crise des annees 30」(Dominique Borneとの共著)だけで、これは概説書だが、左翼運動の様相をよく伝えているように思える。コントル・アタックにに関する叙述があり、当時の左翼の中の位置づけを知ることができる。
*3 マソンとレリスのいずれも参加していない。マソンは元々政治嫌いで、またマルクシスムの理論に対して批判的であった。三五年一一月八日付けのバタイユに宛てた手紙で次のように書いている。〈マルクシスムに立脚するなにもかもが薄汚いことを僕は確信している。なぜならこの教義は人間に関する誤った考え方に基づいているからだ。――僕にとって人間は、それ自体である一つのレアリテだ(わざと強調して言うが)。マルクシストにとっては、人間は機能にすぎない(何かとの関係においての・・・だけど何との関係においてだ? 環境さ! つまりあらかじめ作られて、深い現実性なしの環境とのね)〉(Andre Masson, Le Rebelle du surrealisme, Herman, 1976)。またレリスは、コントル・アタックをユトピア的か、悪ふざけにすぎないと考えていた。
*4 以上に挙げた論文やパンフレットのうち、「設立宣言」「コントル・アタック手帖:紹介パンフレット」「行動へ呼びかけ」「権利と自由のための戦争を忘れていない人々に」は、『シュルレアリスムの資料』(思潮社、一九八一年)に訳出されている。他は未訳。

第三回終わり



Booby Trap No. 24



バタイユはニーチェをどう読んだか 1-バタイユはニーチェをどう読んだか 2-バタイユはニーチェをどう読んだか 3-バタイユはニーチェをどう読んだか 4-バタイユはニーチェをどう読んだか 5-バタイユはニーチェをどう読んだか 6-バタイユはニーチェをどう読んだか 7-バタイユはニーチェをどう読んだか 8-バタイユはニーチェをどう読んだか 9(最終回)-バタイユ・マテリアリスト 1-バタイユ・マテリアリスト 2-バタイユ・マテリアリスト 3-バタイユ・マテリアリスト 4-バタイユ・マテリアリスト 5(最終回)-政治の中のバタイユ 1-政治の中のバタイユ 2-政治の中のバタイユ 3-政治の中のバタイユ 4-エクスターズの探求者 1

バタイユ・ノートIV
政治の中のバタイユ 連載第4回

吉田裕



第11章 革命の可能性を求めて
 コントル・アタックのような運動体を過不足なく捉えることは、多くの視点を総合することが必要で難しい。今はバタイユに関心を絞って軌跡を辿ってみる。彼がこの運動のなかで書き残したもののなかで基本的なのは、「コントル・アタック宣言」「街頭の人民戦線」「現実の革命を目指して」の三つだろう。これらは状況に即した論文であり、その間に起こった出来事を考えれば、すべてを同一の平面上で扱うことはできないが、これらからまず共通するものを取り出し、通約を越えていくものがあれば、あとでそれを補う。
 これらを合わせ読むときに共通して見えてくることの第一は、当然のことながらきわめて左翼的な立場である。「同盟」は、〈現体制に対する攻撃〉を目的とし(第三項)、〈資本主義のあらゆる奴隷どもに死を!〉(第六項)と呼びかけ、〈同盟が創出すべき任務を負っている原理の基本的諸問題は、ひとつとしてマルクス主義の根本的命題と矛盾するものではない〉(第七項)と述べられ、十分ではないものの、生産手段の共有、労働者と農民の生活の改善等に対する政策が提議されている(第九、一〇、一一項)からである。この立場からいくつかの主張が出てくる。最初の一つは、国家あるいは民族というものに対する激しい反撥と批判である。「宣言」の第一項は、次のように言っている。

〈われわれは、いかなる形態をとるにせよ、国家もしくは祖国の諸概念のために「革命」を籠絡せんとするいっさいの傾向に激しく反対し、留保するところなくあらゆる手段を尽くして資本主義権力およびその政治的制度の打倒を決意するすべての人に呼びかけるものである〉(第一項)

 もう一つうかがえるのは、議会主義あるいは議会を支える近代的ブルジョワ民主主義への批判である。議会というものが国家の枠内に収められて存在している点からすると、この批判は「国家」批判の延長上にあるものでもある。バタイユは、変革への意志が書記局や委員会の間の意見調整、議会での交渉、さらにロビーでの裏取引などによって押しつぶされてしまうことを強く批判する。これは選挙協力によって議会で多数を占めることで政権を取ろうとする現今の人民戦線が陥ろうとする罠でもある。〈人民戦線の指導者たちは、ブルジョワ制度の枠内で、権力と接近することになるだろうが、このような綱領は破産に瀕しているということを私たちは言明する〉(第五項)。
 この批判を反転させると、バタイユたちの求めるところがあぶり出されてくる。一番大きな枠組みは、ファシスムに抗しながら、同時に国家という前提に依拠しないということだろう。それは当然簡単なことではないが、彼らはどのように実践しようとしたか? バタイユは政党を頭からすべて否定するわけではない。組織と持続性は政党の持つものである。しかしながら、最終的に依拠するに足るのは民衆自身が持つ直接の力であり、その力を用いて権力奪取に踏み切らなくてはならない。
 これに従って「コントル・アタック手帖」のパンフレットの一つは、前述のように武装民兵組織の結成を呼びかける。しかしながら、急進的なインターナショナリスム、暴力革命の主張は、おそらくは他の極左的な小グループに共通する主張であったろう。バタイユはこうした部分をこれらのグループと共有しているが、それでも彼が固有の運動を試みなければならなかった所以は次の段階から現れる。第三項がその概要を示している。

〈私たちは、現体制に対する攻撃は、新たな戦術によらねばならないことを断言する。革命運動の伝統的な戦術は、専制君主制の清算に適用された場合にしか効果がなかった。民主主義体制に対する闘争に用いられた場合には、この旧来の戦術は、労働運動を二度破滅に導くことになったのだった。私たちの本質的かつ緊急の任務は、直接的な経験から引き出される一つの原則を構築することである。私たちが生きている状況においては、経験から教訓を引き出しえないことは、犯罪的であると見なされねばならない〉(第三項)

 二度の破滅とは、イタリアとドイツの場合を指すのだろうか。新しい現状認識を迫る主張は、以後とりわけ「現実の革命」で取り上げられることになるが、今はまずバタイユの持った全体的な構図を取り出す。革命運動は、専制政体に対する場合から民主主義政体に対する場合へと変化した。そしてこの二つの場合では、革命の方法は異なる。現在フランスで問題になっているのは民主主義政体に対する革命であって、その場合、課題は全く新しいかたちで出てくる。

〈しかし現在の私たちは、政治というゲームにおいて、一挙に主要な位置を占めるようになった新しい形態に直面している。新しい社会構造の構築というスローガンを、私たちも掲げざるを得ない。今日、社会の上部構造に関する研究が、あらゆる革命的活動の基礎となるべきであることを私たちは断言する〉(第八項)

 この社会の上部構造とは、もちろん「ファシスムの心理構造」で取り上げられたもののことである。下部構造すなわち経済的な因子はもちろん重要だが、それだけでは社会の動きの全体を理解することができない。とりわけ現代においてそうなのだ。バタイユはコントル・アタックに関わる論文のなかでは、上部構造のことを情動・情念emotionという表現で取り出している。〈経済的な基盤の分析が、その結果は限定的であるとしてもいったんなされたなら、私たちの関心をとりわけ引くのは、人間の集団に権力への飛躍を与える情動という問題である〉(「街頭」)とバタイユは言う。人間が集団をなしたときに現れる心理は、経済的な条件からは相対的に独立して特異な作用をすることがある。それをとらえることができたのはファシスムであって、彼らの独創は、情念の昂揚としてのファナチスムを利用しえたことである。

〈私たちの確認したところでは、他の国々においては、労働者階層によって生み出された政治的武器が、国家主義反動によって利用された。今度は、私たちのほうが、ファシスムによって生み出された武器を利用する番なのだ。ファシスムは、感情の昂揚と熱狂に対する人間の根本的渇望を利用するすべを心得ていた。だが人間の普遍的利益のために用いられるべきであるこの昂揚は、社会の維持と祖国の利己的利益に隷属したナショナリストどものそれとは全く別の大きさを持った、はるかに重大で破壊的なものであらねばならない〉(第一三項)

 労働者階級が生み出した政治的武器が国家主義反動によって利用された、というのは、ムソリーニがレーニンを尊敬し、職業革命家による規律ある組織によって政権を奪取するという方法論を学んだことを指しているが、重要なのは、ファシスムがファナチスムを利用するすべを知っており、それによって民主主義政体を覆すことができたという部分である。ファシスムはこれまでのところ、民主主義政体に対して革命を起こしえた唯一の運動である。目的は違うがこの「武器」は利用せねばならない、というのが彼の主張である。たぶん他に類例がなかったであろうこのような主張は、「宣言」では項目として列挙されているにとどまる。それをより詳細に、そして以後の展開まで知るには、続く論文を読まなくてはならない。

第12章 どこでファシスムに抗するか
「現実の革命目指して」は思いがけないほどの歴史的分析と現状認識を見せているが、それは政体の違いによる革命のありようの違いについても、詳述している。専制君主制に対するプロレタリア革命の試みは、パリ・コミューンとロシア革命があるが、それは直接プロレタリア革命として実践されたのではなく、専制政治が何らかの理由によって倒され、自由主義社会が出現しようとし、それが安定する直前を捉えて行われたものである。ロシアの場合それは一応の成功を収め、以後それが他の国のプロレタリア運動の手本となったが、現在の西欧には〈いったん安定した民主主義体制〉(第五節)があり、だからロシアを手本とすることは時代錯誤でしかない。現在の革命は民主主義政体を対象とし、全く違った方法を必要とする。
 二つの政体の差は主に権力のありように関わる問題である(第三節)。この権力論が、異質学の探求の蓄積の上にあることは明らかである。専制政体では一人の君主に権力が集中しており、そのことは逆に、民衆にとってこの政体が耐え難いものになるとき、不満と憎悪をこの権力者に集約し、この集約によって蜂起を可能にする。これに対して民主主義政体においては、元首あるいは政府の首班は、不満の対象になると交代させられるので、反対を持続的に集約させることができなくなる。〈民主主義においては権威が不在〉であり、そのために〈この政体の危機は、専制政体の危機と同じ意味ではなく、根本的に異なった意味において起きる〉(第五節)。
 では民主主義政体の危機とはどんなものか? それは経済的な停滞、社会的な不安の増大というだけでなく、それに対処できないというところにある。危機という現象の下に現れてきた大衆レベルでのエネルギーは、先に見たように議会制度下の不毛な曲折によって、うやむやのうちに消滅させられてしまう。

〈ブルジョワ社会とは、本当の権力が存在しない組織なのだ。それは常に、とりあえずの均衡の上に成り立っていて、この均衡が次第に困難なものになりつつある現在、権力が欠けているために死にかけている。この社会に対して戦いが仕掛けられねばならないのは、それが解体すべき権力としてあるからではなく、権力の不在として存在しているからである。資本主義者どもの政府に攻勢をかけること、それは人間の心を失い、名前さえ失って盲目となった指導部に対して、途方に暮れ、愚かしくも深淵に向かって歩みつづける詐欺師たちに攻勢をかけることである。この屑たちに対立させるべきなのは、「直截に」、強権的な暴力である。それは直接的に、容赦ない権威に基づく根底的な諸々の力を統合することだ〉(第八節)

 専制政体においては、権力は一人の君主に集中している。それに対して民衆の側に権力を奪取したはずの民主政体においては、権力は議会の迷路の中でそのエネルギーは失われ、あるべき権力は不在であり、あるのはただ不能な権力にすぎない。専制政体から民主政体へという過程を、バタイユは権力の問題として捉え、そこに権力が衰退していくありさまを見て取る。すると彼の次の関心もまた、この権力問題の延長上に捉えられることになる。現在西欧にあるのは民主主義政体の不能に陥った権力だが、それに対して最初に別な考えを打ち出し、実践的たりえたのはファシスムである。ファシスムは、とにもかくにも強力な権力を打ち立てた。しかしながら、それはどのような権力であったか? それについては、すでに「ファシスムの心理構造」がある。ファシスムは大衆に権力を与えるもののように見せながら、実際にはすり替えによって一人の人物が権力を搾取し、大衆自体は擬似的な権力、権力でない権力をあてがわれ、本当はいっそう惨めな従属状態に置かれるものにすぎなかった。
 だから権力という観点からバタイユの問題を言うならば、それは民主主義を超え、ファシスムの陥穽を抜けて、大衆自体が権力を現実的に保持するためにはどうすればよいのか、そしてそのように保持された権力はどのようなものか、というものであった。民主主義、とファシスムに対する批判はこれまでもあったが、それらに変わる権力あるいは権威に関する積極的な主張は、コントル・アタックの時期にいたって初めて打ち出されたように思われる。「現実の革命」ではこの主張は「有機的運動」という名称で提出される。

〈また有機体的運動は、蜂起である以上、出来合いの政治的枠組みからは独立的に、議会主義に対してはあからさまに敵意を示しつつ、厳密に規定された利益に基礎を置いたプログラムから出発してではなく、激しい情動の状態から出発して展開される〉(第九節)

 それは権力の不在に対して権力を持とうとする運動であり、また合理的な利害の判断よりは情動によって動かされるところのものだ。だがこれらの言明は、バタイユにとっての条件である民主主義に対する批判から始まってはいるものの、具体的な運動として打ち出すことはまだできていない。そのような提示の仕方は、このような種類の主張にとっては難しいことであり、また時間的な余裕を欠いていたことも確かだろう。だがそれが現状に対する批判にとどまる限りは、どうしてもファシスムと共有するところが前面に浮上してくることになる。バタイユは、自分の主張がファシスムとある種の共通性を持つことを認めている。情念のファナチスムは、どちらの側からも利用可能である。〈私たちは、少なくとも新しい秩序ができあがるまでは、なにがしかの行動の形態は、原則的に、ある方向においても、その反対の方向におけると同様に使用可能だと認めることができる〉(第一〇節)。そしてそれがどちらの側に転ぶかについては、予測不可能なのだ。

〈有機体的運動が解放するのは、正確には、プロレタリアの階級の願望のように、決定的に定義されてある願望ではなく、大なり小なり首尾一貫し、所与のある場所、ある時刻には騒然たるやり方で形成される大衆が持つ願望である。ここにこそ、極度な慎重さを求める事実がある。ある点までは社会的構成を変えるかもしれない変容のうちに捉えられたこの大衆が、ある時間が経たあげくに、ナショナリスト的願望に、あるいは労働者の自由に敵対する趨勢に動かされることになってしまわないかどうかを、どのようにして前もって知ることができるだろうか? 一見したところでは、反ファシスム的なものと見える運動が多少の差はあれ早々とファシスムに向かって変貌してしまわないかどうかを、どうやったら知ることができるだろうか?〉(第一〇節)

 この分岐点が彼の最後の問題になる。彼は終盤部で、理論的のみならず現実的な考察を重ねている。第一〇節では、フランスの現状という条件を、いくつかの項目を立てて検討している。要約すれば、まず第一に、フランスは対外的に国家として屈辱を受けたことはなく、ナショナリストに利用を許す潜在的な怨恨はない。第二に、国内的には民族的な統一は以前からなされており、ナショナリスムはとくに自己主張する余地を持たない。第三に、ブルジョワのある部分は現状に批判的であり、これらと連携することで、ナショナリスムに対抗する地盤がある。さらにフランスの労働者は、イタリアとドイツの労働者がだまされた例を見ており、「火の十字架」などのデマゴーグには乗らないだろう、云々。フランスはファシスムの余地からは遠いと言うのが彼の結論ではある。これらの分析は、今日からの目で見ても、それほどはずれているとは言えない。だが問題は原理的に明らかにされねばならない。「現実の革命」は、ファシスムとの分岐点についてどのように判断したのだろうか? 

〈闘いの運動を作り上げていくことは、その基礎に、人民戦線の騒擾を孕んだ全現実を持たなくてはならない。人民戦線の拡大された基礎だけが、ファシスムのめくらめっぽうな猛威に応戦できる力を集結させることを可能にする。この力は組織されて、孤立せず、あらゆる責任を引き受ける〉(同右)

 考えてみるとすぐわかるが、どこでファシスムを批判するかというのは、百通りもの答えがあって、現在でも解決していない問題である。ここに提出されたバタイユの回答もまた、原理的であるだけにその有効性がかえってよく見えない、つまり人を即座にはうなずかせないようなものだった。ここに見えてくるかぎりでは、わたしたちもまた、彼が持ったのは断固たると同時に曖昧たらざるをえない決断だったと言うほかないのかもしれない。シュルファシスムという批判は避けえないものであったろう。だが理論的に表明されたものがすべてだというわけではない。私たちはそのほかにまた別のありようをする世界をバタイユが持っていたことを知っている。そして右の言明のなかのいくつかの部分、たとえば有機的運動が「普遍的な意識の運動」であると述べている箇所、またあるいは人民戦線があらわすのが「全現実」であると述べている箇所が私たちの関心をそちらの側に促す。
 この時期バタイユは並行してもう一つの論文を書いている。それは「街頭の人民戦線」である。私たちは「現実の革命」の右に引いたような箇所を読むとき、それが「街頭の人民戦線」の次のような部分に反響していると思わずに入られない。〈同志諸君、人間の現実というものがある。正確に言うとそれは街頭における人間の現実のことだが…〉、あるいは〈私たちは人民戦線の中に、動きつつある現実を見ている〉(第四節)。なにもかもを理論的に解決した上で、実践に移るというのでは全くなかった。時は切迫していたし、また理論と実践は――仮にそう分離して考えることが出来たとしても――別物ではなかった。だから、普遍的な意識の運動と全現実のためには、ただ考察に没頭するのではなく、同時に実践的でもあらねばならなかった。彼が同時に見ていたのは「街頭」である。

第13章 街頭へ
「街頭の人民戦線」は、三五年十一月二四日の集会での演説が元になっているらしいが、デュビエフによればのちにかなりの加筆があり、したがってバタイユにとってのコントル・アタックに関する最後の証言だと言えるだろう。この論文の中には、デモクラシー批判、ファシスム批判、既成左翼の限界の指摘など「設立宣言」や「現実の革命」の中で述べられていたことをほぼすべて含みながら、先行する論文に少なくとも十分には表明されていなかったことが表明されている。それは「街頭へ」という方向性である。これは明らかに、コントル・アタック創設時から予告されていた武装民兵組織の計画に一歩踏み出そうとして行われた講演であった。十二月半ばから行われるアンケート作成の作業は、おそらくこの講演に続くものである。
 街頭へという方向性は、「防御の人民戦線から闘いの人民戦線へ」あるいは「防御的反ファシスムから反資本主義的攻勢へ」などいくつかの表現を与えられている。それはファシスムの勃興に共同して対抗するという人民戦線の最初のありようを、ファシスムに対する攻撃へと転化し、さらにプロレタリア革命にまで導こうとする意図を持っている。前者の標語は、当時社会党左派の活動家で、社会党の側からの人民戦線の推進者の一人であったピヴェールが唱えていたものだが、バタイユはそれを受け継ぎながら彼自身の意図をいっそう明らかにしようとして、「街頭の人民戦線」という表現を選ぶ。「街頭へ」という表現はこの時期のバタイユの関心をもっともよく表す。

 街頭での行動、ひいては民兵組織による武装蜂起を見越したこの提案は、当然の異ながら権力奪取の問題として提起されている。権力puissanceあるいは権威autoriteという表現は、当然支配する権力を指すことができ、誤解を招くことがあり得る言い方だが、バタイユの言う権力はこの時期すでに違ったものとして現れようとしていて、その過程を見失ってはならない。それはまず、〈民衆的な全能感に満ちた騒擾を担って、武装して街頭に降りた〉民衆を突き動かす力である。民衆は、自分の中に権力を意識すると街頭に降り立つ。彼は次のように書く。

〈踏みつけられた人類は、すでに何度かの激しい権力puissanceの噴出を経験してきた。これの力の噴出は、混沌としているが仮借ないものであり、革命の名の下に歴史を領してきた。数度にわたって人民のすべてが街頭に降りたったことがあり、その力の前には、何ものも抵抗することができなかった。ところで、もし人々が民衆的な全能感に満ちた騒擾を担って、武装して街頭に降り、集団で立ち上がったとしても、それは細心の注意を払いうわべで行われた政治的な組み合わせから結果したものではけっしてなかったということは、疑う余地のない事実である〉(「街頭」)

 この「街頭」の最初の姿は、三四年二月一二日のデモンストレーションであり、背後には当時各地に頻発していた街頭での示威行動がある。バタイユはこの自然発生的な民衆の動きの成長に貢献するのが自分たちの任務だと考える。〈私たちは、民衆の集団が権力を意識することに貢献しなければならない〉。この民衆の力は、政党へと組織されるものではない。〈私たちは力は戦術からよりも、集団的な昂揚から来るということを確信する〉(同上)とバタイユは続ける。〈私たちは指導部というものを信頼することからはあたう限り遠い〉。彼は蜂起した民衆の力を、指導部や綱領に上昇させるという方向は取らない。それは再び「民主主義」という迷路に迷い込むこと、あるいはいっそう巧妙に導かれれば、すべての力をただ一人の人間に委託し、自分たちはそれに従属するファシスムという罠に陥ることになってしまう。この二つの袋小路を避ける唯一の道は、民衆の見いだした力をそのままに維持することである。それはコントル・アタックにおいては、情念・情動を何よりも重視することなのだ。
「権力」という問題は、やはりもっとも注意を要する問題である。コントル・アタックにおける権力の主張は、まず支配者――とりわけファシスム――の権力に対する民衆の権力という図式に拠った上で、対抗的に後者を強調する。だがこの後者のうちにすでに変化が兆してくる。「街頭」の権力は、特定の人物の権力にすべてを譲り渡し、実際には従属しているにすぎないのに権力を持っていると錯覚しているファシスムの擬似的な権力とも、権力を行使しながら、いつの間にかそれを失っているデモクラシーの権力の不在とも異なるものだ。街頭とは沸騰と白熱、あるいは運動の場であり、そこにあらわれる権力とは、常に複数的で、生成状態にあり続け、単一の方向に作用することなく、統一を絶え間なく覆し続けるものである。その意味ではこれはけっして権力ではあり得ない権力なのだ。そして力というものがあるとすれば、バタイユが肯いうる力は、このようにどこまでも運動の中にあり、固着を解き放ち続ける力以外にあり得なかった。バタイユは「街頭」が醸成するこのような力に魅惑されたのである。そしてこの力は街頭でのみ存在し、持続する。問題は持続させることだ。持続のための要件を見出すこと、それが「街頭の人民戦線」の主題である。
 だが彼の問いかけは明瞭な回答を得ただろうか? この時期に書き残されてものからは、少なくとも明確にそうであったようには見えない。彼は大衆のもたらす力を、街頭に出ることであらゆる固着を乗り越えて持続させるという以上に明瞭に表現された方法を持つことは出来なかったように思える。彼は後年、次のように書く。〈ありのままのブルジョワ世界が暴力を挑発しており、この世界では暴力の外面的な形態が人を魅了するのは確かなのだ。(しかしともあれ、少なくともコントル・アタック以来、この魅惑は最悪の事態に導くとバタイユは考えている)〉。たぶんこれは正当な反省なのだろう。しかしながら、これも政治に背を向けて宗教的探求に入ったという言明と同じほどの後からの単純化があるように思える。少なくとも彼にとって権力の問題は、まだいくつかの側面で、少しずつ辿るほかない変容を受けることになる。権力の問題は、教会、軍隊など続く社会学研究会の時期の主要なテーマとなる。また同じ時期に彼が耽読したニーチェの読み方には、その帰結がよく現れているように見える。バタイユは、ニーチェの力への意志の教説を批判しながら、彼の理解の中心を、力のあらゆる方向への作用としての「永劫回帰」へと移していった。この批判はコントル・アタックでの権力をめぐる経験に裏打ちされているのではあるまいか? また彼は戦争開始以後、内的体験と呼ぶものを追求をすることになるが、この体験の根拠の不明に苦しんだ後、内的体験はそれ自体が権威なのだと考える。それ自体が権威であるとは、他に対しては権威を持たないということだが、内的体験のこのようなありようは、バタイユにおける権力の問題の帰結であるようにも思える。
 だがこの時期に限って言えば、バタイユは、権力の問題を無限定的な力の問題へと読み変えながら、街頭に降り立ち、同時にそれによって思想的な領界を越え出ようとしていたように見える。彼は行動しようとしていたが、それは思想を捨てることではなく、思想が異物にぶつかることであり、思想と現実のあわいに立とうとすることだった。同時にそれは完結しようとする思想に開口部を開くことであって、思想を活性化するほとんど唯一の方法でもあった。ブルトンたちの離反は、半ば予想していたにちがいないが、それでも彼を落胆させたろうし、また武装民兵の蜂起という発想が、大衆運動の高まりの中で有効な場を占め得ないことも、彼は次第に理解していったに違いない。彼は自分がある偏流の中に足をすくわれかけていることを自覚していたろう。しかしながら、彼が自分の思考にある開口部を見出していたのもたしかであると思える。開口部は半ば歪んだかたちでしか現れなかったとしても、そこが思想の根拠であるという確信を彼に与えたに違いない。この確信は、生まれると同時に消えてゆこうとする言葉――アジテーションの言葉――で書き留められるほかなかったが、こうした言葉を読みとれるがどうかが、バタイユにとってのコントル・アタックの意味を理解する鍵であるように思われる。
 コントル・アタック崩壊のほぼ二年後、そしてブルムの内閣が潰えて一年がたとうとした三八年の春、NRFの編集者であったジャン・ポーランは人民戦線の持った意味を尋ねるアンケートを何人かの文学者に行い、バタイユはそれに応えて「人民戦線の挫折」という短い文章を書く。この企画は雑誌上では実現されず、彼の回答は草稿のまま残されるが、その中に次のような箇所がある。

〈…社会的な動揺は、人間の深みから来る動揺と切り離されえない。もしこのように切り離されないものであるなら、政治的な出来事は、プロパガンダの持つどんな明快さとも異質であるような注意力を求めてくることになるだろう。直接的な現実が観察からもれることはなくなる。そしてデモクラシーの世界での内部的な動きは、狭い限界内にあることが見えてくる。同時に、視野は開放され、地平は開け、そしてさまざまの衝突のなかで賭金となっているものの大部分が、本当は、あまりにも実際的な利得や挫折と結ばれているものではないことがわかってくる〉

 社会的、政治的なものは、プロパガンダや政治的利害には還元されえず、本当は人間のもっとも内部にあるものと切り離しえないものであることがわかってくる、と彼は言う。同時にこのように結ばれることで、政治的なものがただ政治的であるだけではないこともわかってくる。バタイユの中で私たちの目を引くのは、このように「社会的なもの」と「人間の深み」を直結させ、それによって双方のありようが変わっていくのが見えてくることである。
 この結合はまた、バタイユにとって彼自身を内部に置いて現実の全体を見いだすことであったが、この全体はファシスムの言う民族という限定にも、コミュニスムの言う階級的な限定にも対立するものであった。だからこの全体性は、政治的な回路を通ってきたというのは事実であるにしても、けっして政治的であるだけではない全体性なのだ。
 私が読みえた限りでは、バタイユがこのような現実の全体性を予感したのは、ブルトンとの論争のなかで、整序された世界の外側に存在する物質を直感したときである。それは異質なものとして作用するのを追跡されたが、その広がりの全体に実践的に触れえたのは、コントル・アタックに至る試行錯誤を通すことによってである。この全体性は破砕の直前にあるような緊張した様相をもって現れ、事実それはバタイユの試みを挫折へと押し流した。しかしながら、全体というものに触れえたという確信はいったん獲得されたら、容易に失われることのないもの、持続する類のものであって、現実にはこの全体性が奪われれてあるときも、すなわち政治的な実践から一歩退いたところに位置せねばならなくなったときにも、彼にこの全体性を問うことを可能にする。それは以後、社会学研究会において、また戦争に入って自由を奪われたときにも、バタイユに全体を仮構する試みを許し、かつ促すことになる。

「政治の中のバタイユ」終わり



Booby Trap No. 25



バタイユはニーチェをどう読んだか 1-バタイユはニーチェをどう読んだか 2-バタイユはニーチェをどう読んだか 3-バタイユはニーチェをどう読んだか 4-バタイユはニーチェをどう読んだか 5-バタイユはニーチェをどう読んだか 6-バタイユはニーチェをどう読んだか 7-バタイユはニーチェをどう読んだか 8-バタイユはニーチェをどう読んだか 9(最終回)-バタイユ・マテリアリスト 1-バタイユ・マテリアリスト 2-バタイユ・マテリアリスト 3-バタイユ・マテリアリスト 4-バタイユ・マテリアリスト 5(最終回)-政治の中のバタイユ 1-政治の中のバタイユ 2-政治の中のバタイユ 3-政治の中のバタイユ 4-エクスターズの探求者 1

バタイユ・ノートV
エクスターズの探求者 連載第1回

吉田裕



1 前歴
 バタイユ・ノートのIVを先回で終えて、Vに入ろうとするのだが、その前に、自分がこれまでバタイユをどのように読んできたのか、そしてこれからどのように読もうとするのか、自分の位置を確かめてみたいと思う。
 私はバタイユについての興味は学生時代からあって、少しづつ読んではいたが、書こうとすることはなかった。とても自分に扱えるような作家ではないと思っていたからである。それが書くことになったのは、築山登美夫が自分の雑誌「なだぐれあ」で、ポルノグラフィの特集をやるというので、バタイユには未完だがまだいくつか未訳の小説があるよ、と言ったところ、それを訳し、解説を付ける仕事をやらないかと誘われたのがはじまりである。それで「シャルロット・ダンジェルヴィル」を訳し、解説を書いた。「なだぐれあ」は途中で休刊になり、計画したものを全部出すことはできなかったが、出来上がっていた訳と論文を、彼が出版社に紹介してくれ、「シャルロット」と「聖女」の訳に、『マダム・エドワルダ』まで遡り、『わが母』を含む「聖ナル神」の全体に触れる論文を合わせて、『聖女たち』の題で本をまとめることが出来た。これは私のバタイユに対する最初の接点であり、以後のための橋頭堡となった。
 ただ「聖ナル神」は、魅力的とはいえ、バタイユという巨大な全体の露岩の一つであることはよくわかっていた。だからその次には、もう少し持続的な触れ方をしてみたかった。それで設定したのが、ニーチェ論を読み連ねることである。バタイユは生涯を通じてニーチェ論について言及し、抜き出してみると論文は二十を越えるので、それらを読むことで、自分の持つバタイユのイメージに一本の筋道を通せるのではないかと考えた。この時清水鱗造氏から誘いを受け、「ブービー・トラップ」に連載の場をもらって、それを実現することが出来た。これがバタイユ・ノートのII「バタイユはニーチェをどう読んだか」である。目論見は、半分当たり、半分外れた。宗教的なエクスターズを求める探求、ファシスム批判については、ニーチェ論に視点を置くことでかなりの程度をカバーできる。しかし、有り体に言えば、戦後のニーチェ論は、このような集中力を持っていないと見えた。もし哲学だけで言うとすれば、戦後のバタイユが主な参照対象とするのは、ヘーゲルの方であろう。ただ一九四五年くらいまでのバタイユについては、ニーチェ論を読むつなぐことで、ほぼイメージを持つことが出来たように思う。ついでに言っておけば、戦後のバタイユは、私にとっては、いくつかの例外――先に触れた「聖ナル神」あたり――を除いて、ほとんど未知の領域である。どちらかと言えば私は、戦後のバタイユよりも、戦前から戦中までのバタイユのほうに引かれる。後期は確かに収穫期だが、それよりも放蕩と政治に同時に深入りし、訳の分からぬ宗教的実験に邁進し、まとまる当てもない論文を書き散らしていたバタイユが好きである。またバタイユの読者の関心は、多くの場合は思想的な著作、特に挙げるとすれば『内的体験』当たりに集中し、小説は省みられることが少ないのだが、私は彼の小説は好きである。
 バタイユのありようは捉えがたいが、ニーチェ論に視点を置くことでいくらか鮮明なイメージを結ぶようになった。私に見えてきたのは、もっとも鋭い場合には政治的なかたちをとる現実に向かう関心と内的体験となる宗教的な探求との二つに引き裂かれている作家の姿である。これはある人には、前者から後者へと継起的に起こったように見えるらしいが、私には、いくらか時間的にずれがあることは本当だとしても、二つはほぼ同時的で、複合的に関係していると、すなわち二つを一体のものとして捉えなければ、どちらも本当の姿が見えてこない、と思えた。私にとってこうした考えは、必ずしもバタイユひとりに触発されて出てきたものではない。たぶんずっと前から考え、また書いてきたことでもある。必要とあれば、バタイユ論の中で、これまで他の作家について書いてきたのと同じことを繰り返しているのを、自分で指摘することができるだろう。自分の内部と外部を一体のものとして捉えたいというのは、私自身の根本の願望であって、その願望に動かされた記述は、私のバタイユ論のいたるところで目につく。だがそれは、私がバタイユについて書いていることが、できあがった考えかたの応用編であるというのではない。私の願望は、バタイユを読むことでいっそう明らかになってきたのであり、この点でバタイユは、私にとって、またとない試薬になったということだ。
 便宜上簡略化して、内と外という言い方をすることにする。私はこの二つのイメージをともに手放さないようにしようとしたが、しかしながら、実際に書こうとするときには、テーマを一つに限定せざるを得ないことはある。私が次に選んだのは、バタイユにとってのシュルレアリスムという問題であった。この頃私はともかくバタイユを全部読んでやろうという気持ちになり、そのために、一番常套的な手段だが、ともかく彼が書いた順に著作を読もうと考えたのだったし、シュルレアリスムというテーマは、二〇年代をほぼ網羅するものだったからである。これがバタイユ・ノートのIII「バタイユ・マテリアリスト」となった。書き始めたときは、ただ初期の活動の一つを確認することが目標だった。シュルレアリスムのような運動体は、人間関係を頭に入れるだけでも難しいのだ。だが書くことでわかってきたのは、バタイユの中に物質への異様なまでの関心と、それと一体になってイデアリスムに対する激しい憎悪があることだった。それはある程度予想していたことだが、これほどまでに強烈であるとは知らなかったというのが本当である。そしてもう一つには、物質へのこの関心が、異質学というさほど展開されず、したがってあまり知られることのない試みを経て、政治的な関心の原理にまで届いていることが見えてきた。
 その延長上で、コントル・アタックに行きつく三〇年代の彼の政治的闘争を読むこととなった。それがノートのIV「政治の中のバタイユ」で、そこではコミュニスムとファシスムに関してバタイユ個人が問題にならないところまで叙述を拡げなければならなかったが、それによって「外」を拡大することができたと思う(「ユリイカ」の『青空』論もその一環で、これらを近々本にまとめるつもりでいる)。私のイメージでは、物質と政治は、位相を異にし、ずれながらも、重なり合い、共通する原理に貫かれている。そしてこの原理は、物質から政治へと堀削されたことにより、その反対側、すなわち「内」の側にも展開され、しかも前者が広くなればそれだけ後者も深くなる、と思えるのだ。

2 供犠とカトリシスム
 こうして私は今一九四五年以前という限定つきだが、「内」について書こうとするところまで来た。だが「内」とは何だろうか? それはバタイユにおいて宗教的な経験のことであろう。彼は宗教に対する強烈な批判者でもあったから、宗教的という言葉は適合しないが、それでもとりあえず宗教的と言っておこう。しかし、宗教も、主題と言うにはあまりに漠然としていて、書き始めるにはもっと個別的な限定が必要だろう。宗教の内部でもっと限定された主題としては、何が浮かんでくるだろうか? たとえばキリスト教批判、神秘主義、ヨガや禅との修練、アセファルの実験、宗教社会学の摂取、内的体験、等々。そのなかから、私はまず「供犠」という問題を設定してみたい。なぜなら、供犠とは、バタイユが宗教的行為の中心にあると考えていたものであるようだし、また彼の全集を読んでいくと、もっとも多くの場所で出てくるものであると見えるからだ。アズテカの太陽神への数千人を捧げる儀式から受けた衝撃、宗教社会学への関心、ゴッホら自己毀損者を供犠の視点から読みとること、三〇年代のマソンとの画集「供犠」の共同作業、アセファルの実験、「死を前にしての歓喜の実践」、神の殺害者ニーチェの背後に供犠の姿があること、ヘーゲル論「死と供犠」すなわちヘーゲルが供犠の関心から読まれていること、もちろん内的体験、等々。内的体験は、たぶんバタイユにおける供犠的な経験のもっとも先鋭な姿だが、それを最初から持ち出すことはしない。なぜならそれをすると、問題がほぼ『内的体験』という書物に限られてしまうからだ。無論これは重要な書物であって、供犠の問題を辿っていくとその頂点にこの書物に収束していくのだが、それでもそこに至る過程も視野に入れるためには、まず供犠を主題とした方がよいように思われる。また内的体験は変化していく(そう私には見えるのだが)が、それを確かめるためには、その発端からはじめて基本的な構造を見ていくことが必要であると思われる。
 だから今私はこの探求を、概略的には供犠から内的体験へというかたちで想定する。だが、バタイユの宗教という問題を検討するためには、供犠を出発点とするとしても、実はその前に、もう一つ準備作業を行うことが必要である。それは言ってみればバタイユの宗教的気質の問題、具体的に言うと「ランスのノートルダム」とほかいくつかのテキストが提示してくる問題である。
「ランスのノートルダム」*1とは、一九一八年、二十一歳の時に書かれたものであって、バタイユの手になるものとしては、残っている最初の著作である。ランスは北仏にある町で、彼は中部のビヨンという町に生まれたが、四歳の時にそこに転居し、パリに出るまで暮らす。彼はこの町で第一次大戦に遭遇する。その時のことは、後に『眼球譚』で語られるが、それよれば、ドイツ軍の包囲下の町に盲目で半身不随の父親を残して母とともに避難し、その間に父親は死ぬ。そのことは彼に深い傷となって残るが、この戦争中に、町にあった有名な大聖堂がフランス軍の観的哨として使われ、そのためにドイツ軍の砲撃を受け、会堂の部分を破壊される。戦後これを再建する運動が起こり、当時バタイユは・サン・フルールの神学校にいたが、一役買って、再建運動への協力を呼びかけるパンフレットを起草したのである。
 このパンフレットを読むと、聖堂の建築によって大戦で荒廃した精神を立て直そうと訴える敬虔と言うほかない青年の姿が現れてくるのだが、問題となるのは、後年のバタイユはこれについては完全な沈黙を守ったという点である。この文書の存在が明らかにされるのは、彼の死後、古文書学校時代のバタイユの友人であったアンドレ・マソン(画家のマソンとは同姓同名の別人)が書いた書いた追悼記(一九六四年)の中で、そのような文書があったらしいことを回想したからである。文書は数年たってようやく発見される。生前それほど著名だったとも思われないのに、バタイユは自分の草稿類を執拗なまでに保存したが、それと較べるとこれほどの隠蔽のしかたは注目を引く。だがこれを実際に読んでみると、彼が隠そうとした理由はむしろ単純だと思える。この敬虔ぶりは、以後激烈なキリスト教批判者となった人間から見れば、若年の迷妄とは言わないにしても、一時の姿にすぎないと見えたに違いない。彼は聖堂が象徴する天空へ向かう志向を称揚したが、それは十年後のドキュマンでは完全に転倒され、大地と暗闇への志向が宣言されるからである。
 それにこの論文には、キリスト教のみならず、フランスという風土の称揚すらある。ランスの大聖堂はゴチック様式の代表とされるが、ランスの聖堂が持つのは、ただ美術的な価値だけではない。ランスの町は、四九六年にフランク王国の建設者であったクロヴィスがカトリックに改宗し、戴冠式を挙げた町であり、聖堂はその由来を背負って建設され、以後歴代のフランス国王は、ここで戴冠式を挙げなければフランスの国王とはみなされないという由緒ある聖堂であった。ジャンヌ・ダルクがシャルル七世を戴冠させたのもここである。だからランスの聖堂を再建するというのは、フランス精神の再建という意味を伴っていたのであって、それはやはり後年の民族や土地に対する民族主義的固着――ナチスムの標語の一つは「血と土」というものだった――を激しく批判してきた人間にとっては、許容できないものだったのだろう。
 この著作をどう受け取るか。これは以後のバタイユの著作全体からすると異物のようなものであって、バタイユ自身がしたように目をつぶってしまうと、一貫したイメージが結びやすくなるのだが、今は知らぬふりをして通すことは出来ない。少なくともバタイユの宗教的探求を辿ろうとするときには、どう読むかを提出しておかねばなるまい。ある人々は彼のこの「処女作」を重要視し、そこに後年の彼の全思想の萌芽を読みとろうとする。「処女作」、とりわけ秘められてきた「処女作」については、それを大きく取り上げようとする傾向が働くのだろう。だが私はこのような読み方に対しては用心したい。この著作から見えてくるのは、彼が宗教的な傾向、すなわち個体あるいは合理性という限界を超えようとする傾向を強く持っていたという点である。このことは最低限確かであって、それを読みとることは十分妥当だと、わたしには思われる。そしてこのような傾向は、少年期までの間では育った環境から大きく限定されるために、バタイユの場合はカトリックの伝統に接近するほかなかったということだ。
 以後の彼の過程は、この最初の限定をいかにして乗り越えるかという方向に向けられる。だがそれはうまくいったかどうか。「ランスのノートルダム」を読むと、私はもう一つの後期のあるテキストを思い出す。後年のバタイユは、時に不用心なと思えるようなやり方で「神」という言葉を使うことがあって、これは当時のバタイユの友人や数少ない読者を関心を引き、あるいは苛立たせることがあったようだ。一九四八年に彼は「シュルレアリスム的宗教」*2という題の講演をし、後で討論が行われたが、そのなかでクロソウスキーが単刀直入に「あなたはカトリックでしょう」と尋ねている。それに対するバタイユの答は、次のようである。「私がカトリックですって? 反論はいたしません。なぜならなにも言うことはないからです。私はひとがそう考えてくれなら何者でもあってもいいのです」と答えている。だがクロソウスキーは、当然ながらこの答には満足できなかったようで、しばらくあとに同じ問を繰り返している。「私は時に触れて、あなたのことをカトリックだと思ったことがあります」。これに対するバタイユの答は次のようである。「私は、私がカトリックだという評価に抗議しようとは思いません。全く支持できないことを言われたときには、私は答えることをしないのです」。
 これは文字通りに取れば、自分のことをカトリックだというような下らぬ問いには答えないと言うことである。だが見ようによっては、この問いに自分は答えようがないのだとも言っているように見える。またそもそも、一人のフランス人がもう一人のフランス人に、あなたはカトリックだろう、と言うとき、とりわけクロソウスキーのような人がバタイユのような人に向かって言うとき、どのような意味が込められているのか? 私にはにわかには推測がつかない。もし問が、信仰を持っているかどうかという意味だったら、あなたはクリスチャンだろう、というかたちを取った野ではないか? そうだとすれば、あなたはかとりっくだろうという問の意味は、あなたはプロテスタントではなくカトリックだということだったのだろうか。そうだとすると、ほかに少し考えるところがある。
 カトリシスムとプロテスタンティスムの違いは、バタイユにとってきわめて大きな問題であった。たとえば、バタイユの歴史認識では、近代の最大の転換点は、ルネサンスでも、アメリカ独立でも、フランス革命でも、産業革命でもなく、宗教改革なのである。プロテスタンティスムは、教会の権威に頼らず、神を内面化し、神と個人が直結しうることを教えた。それは人間の個人としての存在が重きをなすようになった近代が必要とし、また可能にした信仰の形態であった。そこから振り返ってみると、カトリシスムは、イエスの十字架上の死を共同で経験することによって成立する共同体すなわち教会を不可欠とし、それを聖餐式として繰り返す宗教、後に彼が非生産的消費と呼ぶ共同での生命の濫費を条件とし、古代の遺風を色濃く残す宗教であった。
 ところで、バタイユはそう見ていたと思えるのだが、カトリシスムの信仰の中心にあるのは、聖餐式であり、すなわち反復されるイエスの処刑である。するとこれは供犠なのだ。供犠への関心というのは、とりわけカトリック的な関心ではないのか。クロソウスキーがバタイユに言ったカトリックというのは、このような関心の持ち方だったのだろうか?
 だが供犠とカトリックを結ぶことは、前者が後者に含まれるということではない。クロソウスキーの尋ね方にはむしろそのような見方が感じられるが、バタイユにおいてはそれは逆で、供犠のほうがカトリックよりはるかに大きい概念であると設定されていたように思える。この違いがバタイユの木で鼻をくくったような答の理由ではないのか? 単純な見方をすれば、供犠は世界のほぼすべての原始的宗教に見られるものであり、その点からはイエスの死も一例にすぎず、だからイエスの死を供犠へと一般化することで、カトリックそしてキリスト教の限定を越えることが出来ると考えられていたのではないか? 先に私は、供犠から出発して内的体験にいたるというのを、今回のノートの仮説だとしたが、今はこのプロセスの前にもう一つ、カトリックあるいはキリスト教という段階を加えるべきかもしれない。カトリック的な出自を乗り越えるために、供犠に関心を集中したというのは言い過ぎだろうが、供犠に対する関心の中には、それがカトリシスムを相対化し、越えるための強力な一助になるという考えはあったに違いない。また供犠に対する関心は、すなわち彼が生来残酷さへの強い関心の持ち主だったということではなく、カトリック的な素養が作用していたとは言えるかもしれない。そして彼がカトリシスムあるいはキリスト教を乗り越えるとしたら、それはヨガや禅のようなほかの宗教、あるいは唯物論を対置し、横にずれて乗り移るのではなく、供犠から内的体験へというプロセスのうえで前方に向かって乗り越えられたのだ。この仮説の下に、今しばらく彼の供犠に対する関心を探ってみたい。

*1「ユリイカ」九七年七月号掲載。酒井訳。
*2ガリマール版全集第七巻、三九六ページから九七ページ。未訳。


Booby Trap No. 26


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