勇気に欠ける者は奸智に長けるという箴言に従うなら、現世を官能的な存在に変え、今は鎖につながれて生きているように見える巨人たちは、本当は、現世の生命の根拠であり、あらゆる活動の源泉だが、彼らをつなぐ鎖は、弱く飼い慣らされた精神の奸智である。それは、情動に反抗する力を持っているのだ。
このように、存在の一面は栄えであり、もう一面は滅びである。滅びの者は、自分の鎖に巨人をつないでいるつもりかもしれないが、そうではない。彼は存在の一部を取り出してそれがすべてだと思い込んでいるのだ。
しかし、海としての滅びが過剰な歓びを受け止めてくれなければ、栄えは栄えであり続けることができないだろう。
神以外に栄えはないのではないか? と言う者がきっといるに違いない。答えよう。神が力を及ぼすのは、そして神が存在するのは、生きている者すなわち人間のなかだけだ。
地上には、常にこの二種類の人間がおり、敵対せざるを得ない。両者を調停しようとする者は、生命の破壊を目論む者だ。
宗教は両者を調停しようとする努力である。
注意。羊と山羊の比喩からもわかるように、イエス・キリストは、彼らの統一ではなく分離を望んでいたのだ。彼は、地上に来たのは平和ではなく、剣をもたらすためだと言っている。
メシアすなわちサタンすなわち誘惑者は、かつては大洪水以前の者、すなわち我々の情動であると考えられていた。
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