詩の源流

(以下は、小熊昭広さんが主催されていた「無意味な意味の尾形亀之助読書会」に2014年3月に呼んでいただいて話した内容で、もとの記録は https://bit.ly/3iSbt2G に掲載されています。小熊さんの「あとがき」を省略し、一部の誤記を改め、一部のリンク切れになった動画について代替動画のURLに差し替えるなどの処理をしています。小熊さんは詩誌「回生」も主宰されていて、話のなかにもあるように古くからインターネットも使われています。詩誌「回生」のホームページ http://www.poetic.jp/kaisei/ もぜひご覧ください)。

第一四回無意味な意味の尾形亀之助読書会記録
      二〇一四年三月一六日
      於:大河原駅前コミュニティセンター「多目的ホール2」

小熊:今日は皆さん御参加いただきどうもありがとうございます。それでは、第一四回目の尾形亀之助読書会を始めたいと思います。今回は、横浜から詩人の長尾高弘さんにお出でいただきました。遠いところを来てもいただきました。非常にありがたいことです。ちょっと話が長くなりますけど、長尾さんは、私が詩誌『回生』のホームページを始めたのが、たぶん二〇〇〇年、いやもっと前ですかね?

長尾:一九九六年位ですよ。まだインターネットが全然はやってなかった頃です。

小熊:そうですね、そのころ私が詩誌『回生』のサイトを立ち上げたときに長尾さんもすでに詩のサイトを立ち上げていて、まだPDFファイルの形式があんまり普及してなかった頃ですよね。

長尾:PDFは重い、という感じでしたね。

小熊:ああ、そうですね、インターネットに接続する環境がまだ貧弱だったんですよね。

長尾:ダイアルアップでつないだ時間だけ電話代が高くなる時代でした。パソコンに積んであるハードディスクもメガとかいう時代でしたよね。ギガじゃなくて。

小熊:それでも、長尾さんは、データの読み込みが早くできるようにHTMLのテキスト形式で上手くサイトを作って、詩をインターネット上に載せていましたね。かなり早い段階にそういう動きをしていて、お互いリンクし合って、インターネット上で知り合いになっていました。実際に直接にお会いしたのは、去年が初めてでした。長尾さんのお仕事はプログラム言語の

長尾:それは、これから自分で話します。

小熊:ああ、そうですか。そういうことで、今日はみなさんにお話したとおり、日本の昔からの「語りの芸」というのですかね。日本語のリズムというということで、現代詩のリズムっていうか、まあ音楽みたいなことなんのですかね。そのお話をしていただきたいと思います。よろしくお願いします。

・自己紹介など

長尾:どうも長尾と申します。初めまして、よろしくお願いします。多分この中では年齢が若い方だと思います。小熊さんよりも若いのですよ。一九六〇年生まれです。詩を読み始めたのは高校生の頃で、一九七八年でした。読み始めたころに吉本隆明の『戦後詩史論』がちょうど出たって感じですね。そんな頃から、一応、読んだり書いたりをやっていましたけど、詩人と紹介していただきましたが、そうしておかないと恰好がつかないから(笑)そうしていただいただけで。まぁそんなたいそうな詩人とかなんかじゃありません。高校生から大学の最初くらいまでは書いていて、投稿とか出しちゃあ落っこちてということを繰り返していたのですが、そのうち書けなくなりまして、二〇代の後半頃ですね。
 それで、なんか文筆の商売ができるといいなと思っていたところ、当時ちょうどパソコン通信が始まったばかりで、始まったのは一九八五年なのですけど、私は一九八六年から始めました。そのパソコン通信っていうので知り合った人に翻訳とかやらないですかと言われて、それで、コンピューター本の翻訳を始めたんです。まぁ当時、この分野は人がいないので、誰でも参入できました。ラッキーでした。それから翻訳業で食べています。
 ですから、まぁインターネットとか一応知っておかなきゃいけないので、わりと早いうちに知っていて、それで早くからサイトを立ち上げていました。九〇年代頃にはまだ詩のサイトでリンクできる先が非常に少なかったので、珍しかったのですね。ですから、ちょっと話題になりました。けれども、その後、もっとインターネットが普及して詩人の方が自分でインターネット上にページ作るっていうのが普通になりましたから、今は、そんなリンクのページなんてせこいことでどうこうしようなんてことは止めて、ほったらかしになっています。今から考えるとちょっとどうなの、って感じですけど。そのリンクのページを始めた頃に小熊さんと、偶然ですよね、まあそういう詩のページっていうのが探せばホントに少なかったんで、全然知らない人、当時知らなかった相手でもパッとこう繋がれたんですね、リンク集で一番最初の頃に登場してもらったのが詩誌『回生』のページでした。
 そういうことで、もう一九九六年位からだと思いますが、二〇年近く小熊さんとは行き来があって、お互いに印刷物の交換とかもしていたんですけども、去年偶然、金子さんとフェースブックで友達になりまして、金子さんのところで小熊さんの名前もあったんで、あぁお知り合いでしたか、ってことでフェースブックの友達にもなって、それで小熊さんが東京に出て来られる機会があったので、ちょっと東京で飲みませんかってことで、初めてお会いして、お酒を飲んだわけです。そこで、よかったら大河原で何か話してみませんか、とおっしゃってくださったので、そんな機会は、私は初めてなのですけど、話題は何でもいいのでってことなので、ちょっと来さしていただいたっていうことです。
 尾形亀之助が生まれた町だっていうのを、迂闊にも、現代詩文庫にもちゃんと書いてあったのに、気が付いていませんでした。本当はね、尾形亀之助の話をしたほうがよかったのかなと思うのですけど。若い頃、本当に好きでね。現代詩文庫が出たばかりでしたけど、隅から隅までなめるように読んでいた時期もあるのです。けれど、最近ちょっと考えていることが、四〇歳になったぐらいからですから一四、五年ぐらい前からでしょうかね、現代詩手帖とかも読まなくなってちょっとこう、現代詩の主流、主流といいますかね、話題になっていることから距離を置いてみようということで、いろいろ十数年、ひとりでゴソゴソ考えてきたことがあるので、そちらのほうを話させていただこうかなということで。ちょっとあんまり面白くないかもしれませんが、やらせていただきます。詩の源流っていうタイトルです。

・『新体詩抄』が日本の詩の始まりなのか?

 詩の歴史は新体詩抄からなんですか、っていう疑問形で始まっていますけど、現代詩のような長い詩っていうのは新体詩抄から、明治からはじまったんだって一般的に思われていますよね、そういうことだからそれまでは短歌だとか、俳句だとか短いものしかなかったと、日本には本格的な詩がなかったと、そういう話になっている、今、現代詩を書いている人も一応その歴史はそういうものじゃないのかなって、だいたいの方は思われているんだと思うんですけどね。そもそも日本には今までずっと短い詩ばっかりでちゃんとした詩はなかったんだよっていうのは、この新体詩抄の序文にあることです。三人の著者がそれぞれ序文書いているんですけども、一番面白いのが外山だと思うんで、ちょっとひとつ、外山だけ、印刷もしていただきました。このレジュメ(末尾に収録)の一番最初ですけど、新体詩抄序っていう二枚組の一枚目の上のほうにあると思いますが、九行目ですかね。

殊に近世に至りてハ、長歌ハ全く地を払へる有様にて事物に感動せられたる時の鳴方ハ皆三十一文字や川柳や簡短なる唐詩と出掛け実に手軽なる鳴方なれバなり、蓋し其鳴方の斯く簡短なるを以て見れバ、其内にある思想とても又極めて簡短なるものたるハ疑なし、甚だ無礼なる申分かハ知らねども三十一文字や川柳等の如き鳴方にて能く鳴り尽すことの出来る思想ハ、線香烟花か流星位の思に過ぎるべし

 線香花火か流れ星だっていう、そういう詩じゃないことを俺達はやるよというのが新体詩抄だったっていうんですね。

・日本の詩には歴史がないというコンプレックス─鮎川信夫、飯島耕一

 それを現代もずっと受け継いでるみたいなんですね、日本の詩には歴史がないという詩人たちのコンプレックスって今ボードに書きましたけど、たとえば鮎川信夫がだいぶ年とってから書いた『宿恋行』に入っている「必敗者」っていう詩があります。結構この詩私好きだったんですけどね。どういう詩かっていうと結構長いんで、そっくり読む時間はちょっとないんですが。コーネリアスっていう無名詩人が惨めな思いをして、惨めな思いをして嫌な一日だってことで帰るときに、一四世紀スコットランドの詩を口ずさみながら帰って行くっていうシーンがあるんですね。そういうのをひと通り紹介して、それは小説のなかのことで、小説の作者も惨めな思いをして、悲惨な死に方をしているっていうことを紹介しているわけなんですけども。まぁちょっと話が複雑ですが、それで、その一番最後のところでですね、ちょっと日本のことを振り返って、多分自分のことを言っているんだと思うんですが、こういう何行かがあります。

ところで 日本の社会の日蔭を歩む
われわれのコーネリアスは いまどこにいるのだろう?
制度の春を病むこともなく…

まぁ七〇年代ぐらいなんですけどね。

不確定性の時代を生きて
自殺もせず 狂気に陥らずに
我々のコーネリアスはどこまで歩いて行けるだろう?
口ずさむ一篇の詩がなくて!

 ってここビックリマークもついているんですが、「口ずさむ一篇の詩がなくて」って一四世紀から親しまれた詩なんてのはない、まぁそう言いたいわけですね。日本には詩がない。伝統の詩がなくて、口ずさむ一篇の詩すらない、と言いたい。たとえば鮎川信夫もそう思っていた。そのころ、つまり七〇年代の終わりに、鮎川と吉本隆明、大岡信とで、近代日本詩史の鼎談集みたいのも出していますけれども、一生懸命、『新体詩抄』の前を探しているんですよね、賛美歌があったとか、それから勝海舟の訳詞があったとか、現代詩っぽいものは一生懸命探してくるんですけど、それ以外、やっぱないよねーって話で終わっているんですね(追記:この部分ちょっと不完全でした。『討議近代詩史』(一九七六年八月、思潮社)では、大岡氏が『新体詩抄』の「鎌倉の大仏に詣でゝ感あり」について、まるで和讃だと言っています(同書二四頁)。和讃はあとでも軽く触れますが、芸能の七五調の祖先のような存在です。ただし、厳密に七五を貫いているところが、私の取り上げようとしている「叙事詩」とは少し異なります。私は七五を部分的に組み込みながら、散文のような部分もあるものに注目してこのあとで紹介しています)。
 そのあと、飯島耕一の定型論争っていうのがあるんですよね、八〇年代の終わりから九〇年代にかけてかな。飯島耕一さん、亡くなられましたけど。彼がやっぱり西洋の詩と違って日本の詩には歴史がない伝統がないから、型がない。結局は歴史がないから型がないって発想になったんだと思うんですけど。確かに短歌と俳句はあるけれども、それ以外にはね、っていうのがあって。で、そういう音数律ではなくて自分のリズムを作る、っていう非常にわかりにくい話をしていましたけど、その話自体ここではどうでもいいんですが、やはりその日本の詩には歴史がないんだっていうコンプレックスからの議論だったんじゃないのかと思うんですね、

・『新体詩抄』から日本の詩が始まったなんてとんでもないという考え方─谷川雁、松永伍一

 じゃあ現代詩人みんなそういうふうに思っていたのかっていうと、ちゃんと例外もいまして。それが三つ目の項目ですが。谷川雁っていう人が、一九五九年に書いたエッセイで、この一枚目の下の方の真ん中へんぐらいに入りますが

現代詩の真の祖先は外山某とかいうビスマルク風の先生ではない。あえていえば世直し一揆の最高形態武装農民軍長州奇兵隊の軍歌『宮さん、宮さん』というべきであろう。売られた娘たちの蹶起を歌う『しののめのストライキ』であろう。
(「現代詩における近代主義と農民」、1959年3月『詩学』、『原点が存在する』新装版、現代思潮社、1969 年、pp.101-102)

 っていうふうに言っているんですね。「宮さん、宮さん」っていうのはちょっと、ミスリーディングでこれは東北攻めてきた偽官軍が歌っていた歌ですから、こんなのはダメなんですけど。要は言いたかったのは『新体詩抄』っていうのは東大の教授三人がやってる、上からこう啓蒙的に詩というものを押しつけてきた、そんなものを詩の歴史の頭に考えているから、お前らだめなんだろうというのを谷川雁は言いたかったと思うんですね。一応、「宮さん、宮さん」も「しののめストライキ」も音源は見つけてきたんですが、「宮さん、宮さん」はうっとうしいので「しののめストライキ」ちょっといきましょうか(注: このリンク先は2014年当時のものではなく、2021年1月現在生きているリンクです)。

 ちょっとストライキな部分ここだけなんで(一番のみ)、ここで終わりにしておきますけど。こんな感じ、だったんですね、添田唖蝉坊って、ご存じの方多いと思いますけど、あの明治時代の演歌師ですね。演説といっしょに歌を歌っていたんですけど、演説から歌を歌う方に変わっていったのかな。で、だんだん演説、自由民権運動とかからも切れて、ただほんとに芸人になっていっちゃうグループも出てきたんですけど、添田唖蝉坊は世間に批判的なことをずいぶん歌っていましたね。ただ、現代詩の祖先っていうふうには今、あんまり認められてはいないだろうと思いますね。ちょっと歌自体は非常に寂しい感じですけど。聴いたことあるメロディーだと思います。まぁこういうことを谷川雁が言ったと。
 で、これを拾ったのが松永伍一さんで。『日本農民詩史』っていうこんな分厚いのが(指で五センチくらいの長さを示す)五冊ぐらいあるすごい本を書いた人ですけども、その中の冒頭の部分で、私も全部読んだわけじゃなくて、冒頭の部分しか読んでないんですけれども、この谷川雁の発言を受けて、印刷物の谷川雁の後ろのところですね。
 「近代日本の農民詩は、これら土着農民…」って言っているこの農民というのは佐倉惣五郎、江戸時代の将軍に直訴して藩主の暴政をやめさせたために一家皆殺しの刑に遭うわけですけどその庄屋の人が千葉にいたわけですね。その佐倉惣五郎を取り上げて、あとでも出てくる歌舞伎や瞽女歌でも、佐倉惣五郎を取り上げたものいろいろありますが、そのなかの口説(くどき)っていうものを取り上げたりして、続きます。

これら土着農民の闘争を基点として創造さるべきであったにもかかわらず、表現能力をみずから育てることのできなかった農民は、ついに明治初期の「新体詩」を否認することのないまま文字から閉鎖された立場をやむなく守りつづけたのである。
(『日本農民詩史』上巻、1976 年10 月、法政大学出版局、pp.12-13)

 ってことを書いてあるわけですが、ちょっとまぁ松永さんは多分現代詩的なものをいきなり江戸時代の農民に求めるような、ちょっと繫がらないかなって僕はここ読んで思うんですけど、ただあるべき姿として新体詩ってものから始まる発想はダメだろうっていう考えはしっかりとあったわけですね。

・いきなり長い「新体詩」を書くことは可能だったか?

 で、実際にですね、『新体詩抄』が、今までの短いのじゃなくて長いのを書きますよっていって、じゃあ書けるのかよってことですよね。この『新体詩抄』っていうのが出たのは一八八二年ですけれども、いわゆる言文一致体なんていうのもまだなかった頃なんですよね。ですからさっきの序文の中で俳句って出て来なかったですよね。川柳って出てきましたけど、まだ俳句って言葉もなかった時代ですね、そういうところで、それでも七五調の、七五七五をずっと連ねる恰好で何となく詩のようなものを作ったと。何もなくて本当にいきなりそんなものが発明できるかってことです。

・山宮允の『新体詩抄』評

 で、この『新体詩抄』についてですね、山宮允、ってこの人英文学者だと思うんですけど、ブレイクだとかの訳もやっていたはずですし、若い頃は自分も詩作やっていた人ですが、昔河出書房から、『日本現代詩体系』って、一冊がこんぐらい(指で五センチくらいの厚さを示す)のが十何冊出て、この『日本現代詩体系』の、第一巻ですから一番最初の部分ですね、この『新体詩抄』もそっくり収めた巻で、解説を書いていますが、彼がここで『新体詩抄』について書いていることはなかなか示唆に富んでいるんです。まず、引用の一つ目を読みます。

『新體詩抄』の編者たちの主張は、ワーズワースの英詩革新の主張乃至その発展と見られる近代自由詩の主張に他ならない。即ち彼等は、ワーズワースや自由詩の作家たちと同じく、平俗常用の言語を用い、取材の範囲を拡大し、在来の形式的制約を免れて、自由清新なる国詩を創成しようとしたのである。
(『日本現代詩大系 第一巻』、1974年9月、河出書房新社、p.459)

 「平俗常用の言語を用い」っていうのは漢詩じゃなくて、っていうことですね。で、取材の範囲を拡大してダーウィニズムとかを外山正一は詩にして、さらに最初の軍歌もこの『新体詩抄』には入っていますけども、題材を広げたと、そういうことを言っているわけですね。だけども自由詩の主張なのに、最初新体詩抄は自由詩じゃなかったんですよね。それはやっぱりさっきも言ったように言文一致もなかったし、どっから始めるかってことで困ったとは思うんですけどね。
 で、山宮允はこういうふうに評価した上で、二つ目のほうですけど、しかし非常に拙劣であったと、特に言葉が下品であったと言っています。ちょっと引用長いんですが、最後の方ですね。

時に調子づいてチョンガレ風、阿呆陀羅経式に逸脱して噴飯を禁ぜざらしめる底の卑俗滑稽な作物で、
(同上)

 って言っているんですね。卑俗滑稽でって。でも、卑俗滑稽と、平俗常用。なかなか、平俗常用で卑俗滑稽じゃないっていう微妙な線だと思うんですよね。外山正一のは実際この「新体詩抄序」っていう文章読んでもかなりくだけた、後のようなとりすました文章と比べるとずいぶん低俗な、卑俗な言葉も使っているような感じもあるとは思うんですけどね。山宮允は、まあそういうこと言っている。
 で、注目したいのは、ここで出てきたチョンガレ風阿呆駄羅経式ってやつですね。これにちょっとヒントがあるんじゃないのかと。つまり誰もこんなの文学とは思ってない、芸能だと思ってきたわけですけども、その前にすでにチョンガレ、チョンガレっていうのは実は浪花節のことです、浪花節のことを最初はチョンガレって言っていたわけですね。これは差別されていた人達がやっていた芸能ですから、もう最初から差別的に見ているってのがあるんです。あんなものは乞食芸だ、っていう、実際にお金もらいながら歌っていたようなものですから、そういうことを言っている。ここのとこにひょっとしたら実はヒントがあるんじゃないか。

・文学と口承文芸(プロップ)

 お配りしたレジュメでは、このあとに突然このウラジミール・プロップっていう人が出てきましたけども、この人は民俗学者で、『魔法昔話の研究』っていうのが講談社学術文庫で今翻訳で出ているんですが、民俗学的なものに興味ある人には面白い本だと思うんですけども、この本のなかで、文学っていうのは、支配者階級がやるものだと。支配者階級じゃないものは口承文芸と民俗学的に言われていると。で、その支配者階級ってものができる前っていうのは、みんな口承文芸で文学じゃなかったって言っているんですね(『魔法昔話の研究』、斎藤君子訳、2009 年、講談社学術文庫、p.248)。チョンガレはまさにそうですよね。
 で、あとこの人また別のところで詩的創作物っていうのは必ず音楽と結びついていると言っています(同上、p.247)。ですからやはりその音楽と結びついている言葉っていうものを探していくと、日本の詩に歴史はないといわれていたけれども、本当は歴史あるんじゃないかっていう、見つけられるんじゃないか、っていうことなんです。チョンガレも音楽と結びついていますよね。
 で、私、こういうことをあれこれ考え出したのが十何年か前、四〇過ぎてからなんですが、手探りでいろいろ探していって、文学研究の素人の話で申し訳ないんですけども、見つけてきたものをちょっとご披露しようかなっていうことです。

・平家以前

 で、平家ってのが書いてありますが、その前もあるはずなんです。日本の古い文学で記紀・万葉っていうのがありますけど、古事記、日本書紀っていうのもけっこう詩がいっぱい入っているんですよね、詩的なものが入っていて。『記紀歌謡』っていうふうに言われていて、それの専門家とかもいます。現代詩文庫の安西均さんの巻で、安西均さんが、古事記の中の大国主命が妻問に行くところ、これは絶対、演じていたはずだと。本で読むものじゃない、演じて、歌って、笑って、お酒飲んで、そういう場でやってったものだ、っていうことを言っています。そういうイメージで受け取ることがすごく大事なんじゃないかと思います。
 万葉集にも巻十六っていうところに乞食者詠(ほかいびとのうた)っていうのがあって長い歌が入っているんです。鹿の歌と蟹の歌なんですが、どっちも田んぼやっていると、害虫、害獣なわけですね。その害獣を食べてあげるって、それもちょっと面白可笑しい、それはちょっとあの三隅治雄さんっていう人、民俗学の人ですけども、折口信夫の弟子の人なんですが、もうだいぶ前、一九七三年か四年ぐらいに、本を出していまして、それを一応二枚目のほうの参考文献リストにありますが、『さすらい人の芸能史』っていうNHKブックスから出していて、やはり演技付きであっただろう、ってこと、でまたその演技の雰囲気が分かるような現代語の訳もつけて紹介しています、ただ、その辺はさすがに音として表現されていないので、飛ばさしていただきます(追記:もっと後の時代の今様なども、どう演奏されていたのかはわかっていません)。

・演じられるものとしての平家物語の略史

 そういうわけで、次は平家物語っていうのを取り上げたいと思います。ご存知のように、平家物語っていうのも、もともとは琵琶法師が歌っていたものなんですね。最初に本があったわけじゃない。本がどういう風にできたかっていうと、もう鎌倉時代からずっと琵琶法師がずっとこれを、平家の滅亡の話を歌っていたわけですけども、だんだん、これも天皇が聞いたりするようになると、いろいろ権威がでてきまして、そのうち覚一っていうその道の権威が出てきて一三七〇年ですから、南北朝終わる頃ですね、その頃に、今の平家物語の覚一本っていう、底本とされるものを作って、で、座も作って権威化していって、まぁちょっとこう上から下まで、というような階層も作ったわけですね。
 江戸時代になるとこの平家っていうのが完全に武家の、将軍家の式楽、っていう風になって、たとえば新将軍が生まれた時に平家を演奏するというような、そういうような格好で使われちゃったんで、庶民からは切れてしまったんですね。ですから、明治時代に将軍がいなくなっちゃうと、逆にやばくなっちゃって、これは能狂言なんかもそうなんですけども、廃絶する危機にさらされたわけですが、かろうじて細々と伝わってきたのが二系統あります。一系統は津軽藩の館山漸之進っていう人が受け継いだものがあって、その息子の甲午さんっていう方が仙台にいたんですけどもね、一九八九年に亡くなっています。この人は全段語れたそうです。この人のレコードとかも出ていますけど、残念ながら今はとても入手できません。
 もう一つ、名古屋の方で伝わってきた人がいまして、今売っている平家物語、ほんとにその平家物語を琵琶で平家物語でっていうCDはいっぱい、山ほどあるんですけど、昔からの平家物語の演奏を伝えているのはこの今井さんだけだっていうそういうのをちょっと、入手しましたんで、ちょっとだけお聴きいただこうかなと思います。

・平家物語の口説─抑揚なく歌う

 一応、歌詞があると面白いかなと思いまして。絵が出ませんから、歌詞見ちゃっていいんですけど。印刷物の二枚目の最初のとこです。えー一番っていうのがまず『鱸』っていう、船にスズキが飛び込んできたんだっけかな。平家がこれから栄えていくぞっていう忠盛、清盛の親の忠盛の時代の出来事から取っている話のところですね、鱸の口説っていう部分です、ここはあんまり抑揚なく、ただ歌っていくような感じです。ちょっと流しますね。

琵琶法師の世界 平家物語 今井勉 EBISU 13-19 CD-1 トラック1

 なんかこんな感じです。すごく眠いので、ちょっとこれが娯楽だったのが信じられないんですけどね。まぁ娯楽というか、聞いて、でも楽しんだはずなんですが、非常に眠いし何言っているのかよく分からない。字を見て辛うじて分かる感じですね。この後で和歌が一つ入るんですね、それがこの二番なんですけども、平忠盛の歌です。で、和歌のところは和歌の節っていうのが平家の中で決まっていて、その節で歌っています。これ二番ですね。

・平家物語の和歌─独特な歌い方

同上

 これで一首なんですよ(笑)すごく長いでしょう。音を上げ下げしながら一音一音を長く延ばしているところもあれば、すすっと進んじゃうところもあって、たとえばあのー、歌会始とかででやってる、あの読み方と全然違うと思うんですれけども、歌う内容にかかわらず、歌が一つだとこの節でやるらしいんです。だいたい。二つ続くときには二つめの節っていうのが、別にあるそうです。とにかく、よっぽど注意して聞いていないと和歌の全貌を聴き取れないですね、字があるから分かるぐらいの感じ(追記:やはり和歌には高い地位があって、荘重にやるのではないかと思います。和歌の言葉自体は、聞く側も十分に覚えているのではないでしょうか)。

・平家物語の語りの部分

 で、もう一つですね、平家物語で本当にしゃべりと大して違わないような部分もあるんですね。白声と言います。そこちょっと、聞いてもらいます。那須与一ですね。

同上、CD-6 トラック2

 まぁこういう割りと聞きやすいところもあるんですね、聞きやすいけどちょっと、妙な節つけてますね、なーすのたろうすけたかがー、なーすのー、みたいなそういうのっていうのは今歌舞伎とかを見ていても、あと文楽とかでもちょっとこういう感じのところはありますね。

・平家物語の祇園精舎の特殊な位置

 で、最後に一応祇園精舎、なんでこれが最後かっていうと、今井さんは祇園精舎は教わってないんですね、これは秘曲中の秘曲で、一番最後にやる。で、これは一生に三回しか演奏できなかったそうです。琵琶法師の一生で。最初はそんなうるさいことはなかったと思うんですけど、武家の式楽になってからそういううるさいのがあって。で、途絶えちゃったんですけども、楽譜から、楽譜っていっても五線譜じゃないですけども、琵琶法師が見てわかる、譜面があって、そっから復活してみた、っていうのがこれです。ちょっと長いんですけど二分ぐらい流れるんですけど、これがまたほとんどわからないんですよ(笑)

同上、CD-7 トラック1

 ということで鐘の声で終わりにしましたけど、諸行無常までも入らない、それぐらい荘重にやってた、えー、この祇園精舎の鐘の声っていうのは七五調、ですよね。だいたいこの頃は、今様もありましたし、それから、和讃って言いまして仏教のほうの教えを七五調にのせて、歌にしたのも出ているわけですが、七五調っていうのはこの頃にはいろいろな形で出てきていて、実際七五調って凄く多いわけですよね。平家物語っていうのも、七五調だっていっても実際こうやって歌われちゃうと七五なんて全然意識できないわけですど、まぁ普通に読んでると七五になってるのあちこちに出てきているわけですよね。そうじゃないところもでてくる。そういうのがこの頃の文学だったわけです。で、七五調が混ざっているっていうことは、まぁ散文じゃないんじゃないのかなっていうことはちょっと言えるんじゃないかなって思うわけです。

・歌舞伎、文楽を準備した説経節

 で、このあと、平家の後には、謡曲、能楽の時代があるんですけど、これも眠いんで、あんまり眠いのばっかりやっていると飽きちゃうんで(追記:正直に言うと能楽についてきちんと言えるほどわかっていないので流してしまったわけですが、詩として論ずべきことはたくさんあると思っています。前半は人の姿として現れ、後半では実はこれこれの神、霊であると本性を表す夢幻能は、その構成だけでも詩を感じさせます。また、歌舞伎には能、狂言を真似た演目、松羽目物と言いますが、そういうものも多数ありますし、話の種としては、人形浄瑠璃も歌舞伎も能楽から多くのものを取り入れています)、室町から江戸に入る、ちょうどその、江戸のはじめぐらいに流行ったもので、説経節っていうのがあります。で、この説経節っていうのが今残っているとはちょっと言いがたいものなんですけれども、お話としては五説経っていうのがありまして、『山椒大夫』、鴎外が焼き直しで書いたあの『山椒大夫』ってのもありますし、あと小栗判官、俊徳丸、苅萱、信太妻、そういう話は本になって残っています(追記:五説経のうち四つはかるかや、さんせう太夫、しんとく丸、をぐりでほぼ固まっていますが、五つ目にはかなり変動があるようです)。後々歌舞伎でも文楽でもいろんなもので取り上げられるものを確立したのが説経節だと思うんですよね。
 で、もともと説経節っていうのは、三味線じゃなくてささらという竹の道具をざらざら鳴らしながらやってたんですけど、後発の人形浄瑠璃などに押されて流行らなくなっていました。しかし、明治に若松若太夫っていう人が出てきて、この人は自分で三味線弾いて弾き語りするっていう、スタイルでやっていました。で、この人の息子が昭和の終わりぐらい、平成の初めぐらいまで生きていて、二代目を名乗っていたんですが、二代目はちょっと途中で全然商売になんなくて、身を持ち崩して、アル中になっちゃうようなそんな時期もあって、そこを七十年代に助けて、復活させた人達がいるんですけども、その二代目の弟子が今三代目を名乗って、やっています。でその三代目からネットを通じてCDを買ったりもしたんですけど、これは多分CDの宣伝用につくったユーチューブだと思うんですが、葛の葉です。ちょっと聞き取りにくいです。

 まぁこんな感じのものです。ちょっと義太夫よりはちょっと高い音の三味線で、たぶんこれ生で聞いたら色っぽい声だったんじゃないかと思いますけどね。こういう人がちょっと人気集めたこともあるんですが、この説経節から発展していくような形でいろんな芸能が発達して今にも伝わっています(追記:説経節は、「そもそもこの物語の由来を、詳しく尋ぬるに、国を申さは美濃の国、安八の郡墨俣、たるいおなことの神体は正八幡なり。荒人神の御本地を、詳しく説きたて広め申すに…」のように宗教活動が本当の目的であるということを示す文句から始まっています(ちなみに、これは「をぐり」のもの)。演じるためにそのような建前が必要だったのか、本気で勧誘していたのかは別として、宗教と芸能の関係の深さを示しているということは言えると思います)。

・歌舞伎

 その中でも最大のものが歌舞伎ですけども、歌舞伎ってのはもともとあの踊りでして、芝居よりは踊りなんですが、今、盆踊りでやっているような、念仏踊り、くるくる回るああいう踊りがスタートのところであって、ただやっぱりかなり色っぽいことやったんですね(追記:念仏踊りを始めたのは、口から仏が出てくる像で有名な空也で、時宗の一遍もその流れです。時宗という言い方はちょっと新しいのですが、時衆と呼ばれた人々が、室町時代の芸能を支えていました。また、時宗の総本山である藤沢の遊行寺は、説経節のをぐりと深い関わりがあります)。遊郭とセットになっていたような時代もありまして、かなり卑俗と言えば卑俗だったかもしれません、最初は。それにですね、歌舞伎だけでちょっとあまり流行らなかった時代っていうのもありまして、義太夫からかなり題材をとってきています。ですから、文楽でやっていることっていうのは、今ほとんど歌舞伎でやっているんですね。(追記:かぶきは元禄に一度非常に流行りますが、享保から宝暦頃は、歌舞伎よりも人形浄瑠璃の方がはるかに人気を集めていました。この頃に人形浄瑠璃の演目を取り入れて盛り返していきます。郡司正勝『かぶき入門』岩波現代文庫 参照) で、文楽に歌舞伎からいったのもちょっとあって、要するにかなり重なっています。だから歌舞伎っていうのは一言では言いづらいこともありますけども、一応あの、映像で集めて、とりあえずご紹介するのは、言葉的に面白いところですね。外郎売りっていうのは、今有名な子役でもしゃべるやつですけども。まぁ見た方がはやいかな…、これも文句は一応さっきの二枚目のほうにあります。亡くなった十二代団十郎のやつですね(リンク切れなので、2020年7月の尾上松緑の動画へのリンクを掲載しています)。

 あとの二つはあの白浪五人男とか三人吉三ってのは黙阿弥っていう人の作品なんですけど、黙阿弥が活躍したのは天保の改革の頃の一八三〇年から明治までです。ですから、最初の頃は七代目団十郎なんかと組んでやっていて、明治時代は七代目の子の九代目団十郎なんかと組んでやっていました。で、この人が歌舞伎のなかで七五調をかなり意図的に使い始めた。歌舞伎は元禄時代からずっとやっているわけですけど、意外と七五調が使われるようになったのは遅い。で、七五調と言えば黙阿弥だと、まぁすごく調子のいい七五調ってのはどういうものなのかなってことで、これをちょっとお聴きください。これ二〇何分ぐらいのとこなんですけど(これもリンク切れになっていたので、歌舞伎座新開場のときの現白鸚、菊五郎、左団次、梅玉、吉右衛門という豪華配役のものを見つけてきました)、もう勢揃いした後で

 まぁこれ五人やるんですけど、これぐらいで(弁天小僧菊之助あたりで止めて)。ずっとここはね、七五調ですよね。あと掛詞が凄く、江戸時代はけっこう掛詞流行ったんじゃないかと思うんですど。例えば、人に情けを掛川からって、掛川ってのは地名でもありますし、情けを掛ける、金谷を掛けて掛川の次の宿ですね、江戸よりの宿ですけど、このかねをかけても金谷って地名を掛けている、弁天小僧のところでも、悪い浮き名も龍の口、龍の口ってのも鎌倉の地名ですよね。そういう掛詞でただの七五調よりちょっとリズム的変化を与えているんじゃないかなって思っています。

・文楽は一人で演じ分ける

 三人吉三っていうのは有名な、こいつは春から縁起がええわいなってのが入っているとこですけど、あとで、時間があったら見ましょう。で、文楽っていうのもですからあの歌舞伎と同じようなもんだよっていいましたけど、もうちょっと七五調が強いかなって感じです、あと文楽は大阪の芸ですからさっきのとこ白波五人男、日本駄右衛門なんかは思いっきり江戸弁で、あぶねえとかね、境涯もきょうげえとかいっていましたけどそういう江戸弁の口語の、言葉の勢いがありますけど、文楽はやっぱりあの関西風ですよね。これは一応歌詞、文字があります。

江戸の文化 語り コロムビア COCJ32071 トラック5

 文楽の場合はですね、太夫が一人で全部しゃべるんですね、人形動かしてる人は喋らないです、人形動かしてるだけで。歌舞伎だと役者が喋りますけど、文楽の場合は人形浄瑠璃の場合は太夫がずっとやるんですよね。今の場面でも年老いた男の声と若い女の声と演じ分けるわけですよね。ナレーションもやるし、歌も唄う。平家もそういうところありましたけど、七五がベースになってるといってもいろいろバラエティーに富んでいるものだってことを言いたかったわけですね。

・ちょっと浪花節風なところもある肥後琵琶

 それで、一つ飛ばしちゃいましたけど、肥後琵琶っていうね、琵琶法師がいます。先ほども言いましたけど、平家物語をやる人たちは江戸時代に幕府の式楽っていう格好で武士に持ち上げられた人たちもいるけど、そのほかにそのまま差別されて残った人もいるんです。特にこの肥後琵琶っていうのは、差別されたらしいのです。なんか、琵琶が残ったのは九州が多いんですよね。他はだいたい三味線に変わっちゃう。三味線も結局琵琶の撥(ばち)はね、一緒に使ってるていうのが面白いとこなんですけど、琵琶が九州だけになっちゃって、その中でも筑前や薩摩はそういうことはなかったのに、肥後琵琶ってのはちょっと、差別されちゃったんです。これを見ると、それの理由がひょっとすると分かるかもしれません。全体を見ると凄いんですけどね。

 この人は、目の悪いひとで、山鹿良之さんっていって、一九九四、五年まで生きていた人です。映画にもなったり、国の無形文化遺産にもなったりしたのかな。だけど凄く苦労した方です。

(同上)

 まぁこんな感じですね、一時間続いちゃうんで、これは適当に切らないと、なんですが。やっぱり、さっきの平家琵琶に比べるとずいぶん野性味があると思うんですけどね。声もちょっと浪花節なんかとも似ているところがありますね。そういうところが乞食芸みたいに見られて差別されちゃった部分なのかもしれないですけど、すごいですね、この人の芸は。この人の録音とかずいぶんやっている学者さんで兵藤裕己っていう人がいて、岩波新書で『琵琶法師』(二〇〇九年)っていうのを出していますけど、この兵藤裕己っていう人は今日扱っていることの専門家で、ほんとになんでも取り上げて、文章にしている人で。一般向けの本は一通り読ませてもらいましたけど、この人が山鹿さんについて言っていることはちょっと印象的なんで、ちょっと読ませていただきますね。

昔の修行時代や、その後の琵琶弾き稼業に関する話をしてもらっても、どの思い出話も物語化されて語られた。
(同書p.16)

 つまりなんでもこれになっちゃうってことですね

物語中の人物に容易に転移してしまう山鹿は、その人物の声を一人称で語り、
(同書p.16)

 どんどん乗り移っちゃうってことですね

それと対話した昔の山鹿自身も一人称の声で登場する。そんな語りの現場では、個々のペルソナを統括するはずの語り手の「我」という主語が不在であるとしかおもえなかった。
 自己同一的な発話主体をもたないモノ語りというのは、山鹿とのかぞえきれないディスコミュニケーションの経験から導かれた私の実感である。
(同書p.16)

 ディスコミュニケーションっていうのはつまり、この人と話をしてもなかなかね、話通じないらしいんです、自分の喋りたいことばっかり喋っちゃう、で、お願いしたこと以上のことを返してくれることもあるし、ちょっと変わった方、面白い方だったらしんですけど、こういうことを言っていて、なかなか味のあることを書かれているなと思うですけど、そういう芸能があったと。これは叙事詩を語っている、演じているとしか言いようがないと思います。

・七五調がはっきりしている瞽女唄

 次は、ある意味でこれとちょっと対照的な瞽女唄っていうのを聞いていただこうと思っているんですが、その前に演者がちょっとどういう人かっていう映像を見ていただきましょう。これ曲があんまりないんですけどね、映像だけ出てくるのがありまして、こういう人なんです(元のリンクが切れていたのですが、別の動画のリンクを入れています)。

 調子悪いんで、ちょっとこんなとこで。要はですね最後の瞽女さんっていう方、小林ハルさんって方がいらっしゃって、この人は年を取られてから人間国宝になったんですけど。やはり目が悪くて新潟からこっちの、福島、山形のほうまでも歩いて、ずっと瞽女をやっていた方なんです。そういう瞽女唄っていうのが、だいたい題材は文楽だとか説教節、歌舞伎なんかでやってきた題材を使ってやるんですけど、いまの肥後琵琶だとかとはちょっと違って、曲にのって歌う感じですね、これも葛の葉なんですけど。

最後の瞽女 小林ハル 96 歳の絶唱 瞽女文化を顕彰する会 KHK-96 トラック9

 これは一応歌詞も載っていますね。こんな感じで他のものと比べると割りと単調な感じですね。瞽女唄っていうのは同じ調子で歌っていく、七五と七七とあるんですけど、長いやつはこの七五のやつですね。こういうものもあると。

・語りつつ歌う場面もある節談説教

 ちょっと今までのはわりと同じような流れだったんですが、次はちょっと毛色の違う節談説教っていうのを聞いていただきましょう。これは関山和夫さんっていう学者の人が、だいたいの芸能は仏教がもとなんだよって言い出しまして、そのなかでまだ宗教の側にいるけど娯楽性の高いモノっていうので節談説教っていうのを本で紹介したんですね。これも岩波新書、黄色版ですから大分昔ですけれども。そういう本を出した。その前にもっと本格的な本を出しているんですけどね。
 同じ頃小沢昭一さんが、ちょっと小沢昭一の名前出すの遅くなっちゃいましたけど、小沢昭一っていう人も自分が役者をやる上で、役者の祖先たちは何をやっていたか、芸人の祖先っていうのが何をやっていたかっていうのに興味をもって、こういうのを一通り、まだそのころは残っていたんで、録音して歩いて、CDを出しているんですけど、CDというかLPのアルバムを出して、CDでも焼き直して発売されていました。そういう小沢昭一さんなんかも節談説教なんかをずいぶん取り上げているんですが、ちょっと、どういうものかっていうのも。これも音だけなんですけど

小沢昭一が訪ねた能登の節談説教 小沢昭一 ビクター VICG-60500 ( https://www.jvcmusic.co.jp/-/Discography/A000535/VICG-60500.html
トラック2(茂利宗玄)

 ちょっと長く聞いていただきましたけど。何が言いたかったかっていうと、繰り返しとかを上手く使ってね、凄く笑わせて、盛り上げるでしょ。最後のあの素っ頓狂ぐらいの、あの真似すごく上手いし、でも辛かったら帰ってこいって話をすることでちゃんと真宗の話になっているわけですよね。なかなか巧みなもんだな、すごいもんだなと思って、ちょっと聞いていただいたんですが。それで、最後の方で節つけて歌っていましたよね。こうやって歌ったり、語ったりっていうのがひとつの、今まで全部、基本的にそうだったと思うんですが、平家のとこから(追記:瞽女唄は語りなしで歌い続けますが)。そういうのが、日本の詩だったんじゃないかってことなんですね、言いたいのはね。

・節談説教と落語の関係

 それからですね、落語講談、とくに落語ですね。落語っていうのは高座ってところに座ってやりますけど、高座っていうのも、節談説教の講師もやっぱり高座に座ってやるんですね。だからそういうところから来ているんだっていうのが、この関山説で。非常に説得力あると思います(追記:落語は、ものまねして演じるというのがメインの芸で、歌や節のある言葉をまねることも多く、この日に話したことからすると、重要だと思うのですが、半可通が怪しげなことを言うのが恥ずかしかったので飛ばしてしまいました)。

・ナレーション、話体、唄を使い分ける浪花節

 で、最後に浪花節を取り上げたいと思います。浪花節っていうのは落語講談から、最初お前みたいなのは寄席にいれてやらんぞって、弾かれていた。それぐらい差別されていたんだけど、明治から昭和の初め、広沢虎造が出るころに至っては、その前に、雲右衛門、ここに書いてある、雲右衛門っていう人が、凄い当たりを取って、落語講談は客がこなくて、浪花節ばかり来るような時代があったんですけど。ちょっと時間がないので雲右衛門は飛ばしまして、虎造の「三十石船」。浪花節、多分みなさんよくお聞きだと思うんですけど、久しぶりに、懐かしいね、ってところで。

https://www.youtube.com/watch?v=6Izzd1fLwYY
(1分24秒くらいまで)

まぁここまではテレビドラマの最初の主題歌みたいですね、ここでナレーションぽく喋っているのも虎造で。

https://www.youtube.com/watch?v=6Izzd1fLwYY
(2分38 秒くらいまで)

まぁこんな感じですね。どういう風にやるかっていうパターンで、一応まとめておくと、最初に主題歌みたいに歌って、ナレーションが入ります。今ちょっとナレーションをやっていましたけど、具体的なとこまで入っていませんね。それが済むと基本的にだいたい話体ですね、落語と同じ、落語もAB、二人で演じ別けて入っていくの普通ですけど、浪花節も、ああいうナレーションはすぐ終わっちゃって、基本的に喋っていきますよね。で、話体で話しを進めていく、っていうような。それは舞台なんかでも結局同じですよね。歌舞伎や文楽なんかでもナレーションはそんなにない、基本しゃべっていく。会話で伝えていくっていう感じが多いだろうと(追記:浪花節というのは、ここで取り上げてきた叙事詩のなかでも完成度が高く、近代的なものだと言えると思います)。

・日本にも長い詩の伝統はある

 ちょっと駆け足でいろいろ見てきましたけど、最初の問題提起からいって、どういうことをここから言うかっていうと、まず長い詩の伝統っていうのはこういうものまでちゃんと見ていけば、絶対あるはずだ、ってことですね。いわゆる文学っていう言葉でどうしても上の方のこと高いものを何となく求めようとするかもしれないけれども、本当は、たとえば説経節の山椒大夫とかの話は東洋文庫とかで出ていますけど、それを文章で読んでもやっぱり一番最底辺で押しつぶされてきた人達が書いている。書いているというか作ってきた話ですから、やっぱり人間の一番辛いところまで伝わってくるものがちゃんとありますよね。さっきの肥後琵琶の人とか、瞽女唄の小林ハルさんの声なんかを聞いていても、やはりなんか一番芯の、根っ子のところからずんと訴えかけてくるものがある、そういう詩が日本にはあったんだと。まぁもちろん、詩というのはその頃は漢詩のことを言っていたわけですから、詩とは言わなかったけれども、そういうものがあったと。
 一応まとめると、そのただの七五調の連続っていう感じをどうしても持たれがちかもしれないけど、ちょっとそれに近いのは瞽女唄ぐらいでほかはだいたい凄くリズムの変化がある、ということですね。ですから、本当は凄く、文学的にちゃんと見てけば、いろいろ学べるところが出てくると思うんですよね。あと一つちょっと、三つ目のところに折口信夫の考えっていうのをちょっと書きましたけど、折口信夫から要は私も教わってこういうことを考えてきたのですけど、折口信夫は他の文学者が取り上げないこういうのをザーっとずっと取り上げているわけなんですよね。説経節のひとつひとつの演目について民俗学的にもいろいろ考察加えていますし。その折口信夫が文芸論の方でもすごく面白いことを言っています

・叙事詩を短くすると歌になる(折口信夫)

唱へ言をして居るけれども、それが長過ぎ、或は又、唱え言からでた叙事詩或は物語というものでも、長過ぎると、それをだんだん短くして来ます。(中略)非常に長いので、その全体を唱へることもあり、一部分を唱へることもあり、又更にその一部分を唱へることもあるのです。長く言っても短く言っても、効果がある訣です。
(「傳承文藝論」、『折口信夫全集 第十七巻』、1976年 8月、中公文庫、pp.165-166)

 最初が唱えごとだから、呪文だからってことでいっているんだけども、要は例えば今、真宗が出てきましたが、真宗が長い話をしなくても、南無阿弥陀仏の一つでいいんだっていう、短くする文化がありますよね。法華経でもあの長い、法華経全部読まなくても南無妙法蓮華経というだけでもその御利益があるって言い方をする。そういう形で、短歌だとか、ことわざだとかってのは叙事詩から生まれてきているっていうのが、折口の考えなんですけども、あんまり折口を論じるときにそこのところは強調されていないと思うんですが。ですから、短歌っていうのだけ取り上げているっていうのは、車の両輪の片方だけしか取り上げていないようなものだと思うんです。叙事詩がもう片側にある、っていうそういう視点で日本の詩の歴史を見ていくべきだろうし、で、その続きとしてその視点で現代詩っていうのを改めて考えていくことができるんじゃないかなっていうのが、おおざっぱな話ですけどもね、そういうことを今日はちょっと申し上げたいなって思って、伺わせていただきました。
 あと、話体っていうことがさっき出てきましたけど、たとえば「荒地」の田村隆一が落語が上手かったって話がありますよね。田村隆一とか北村太郎とか、年をとってからの作品はいわゆる言文一致体っていうよりももう一つ話体に近いところにきていると思うんですよね、現代詩はわりと硬い文体の方多いですけども、ネット時代を先取りしているかのように彼らはそういうのを書いている、そこのところ僕はすごく参考になっているというか、あーなるほどってこういうのを見ていても思うんですけど、やっぱり詩っていうのは音楽がないとダメ、もう音楽と本当は両輪だという、最初の言葉っていうのを、あんまり今は現代詩では、へぇそうですかねっていわれちゃうような話ですけど、ほんとはそう思っていまして、その音楽性っていうのがやはりこの、出ている喋りに近い言葉っていうのが意外に音楽性を出しやすいんじゃないかなってことですね。もちろん演じないと本当は面白くないんじゃないかっていうふうにも言えますけど。ただ演じるんじゃない、今の現代詩として紙に書いて読んでもらうものでも、まだ工夫のしようがあるんじゃないかなっていうのをちょっと考えて、感じています。そういうことで、つまんないお話、どうも失礼いたします。
 (追記:言い忘れてしまったのですが、最初に引用した外山正一の『新体詩抄』序文は、先生の興が乗ってきたところで狂歌を一発かまして、さらにその狂歌のあとには七五がしばらく続いています。彼は、伝統的な詩の形を無意識に詩と意識せずに序文という散文だと思って書いていたわけです。)
 (追記二:最近、ルイス・フロイスの『ヨーロッパ文化と日本文化』(岡田章雄訳注、岩波文庫、1991年)で面白い箇所を見つけました。第十三章「日本の劇、喜劇、舞踊、歌および楽器について」というところです。

3 われわれの劇は詩である。彼らのは散文である。

7 われわれの劇は談話によって演ぜられる。彼らのはほとんど常に歌い、または踊る。

15 われわれの間の種々の音響の音楽は音色がよく快感を与える。日本のは単調な響で喧しく鳴りひびき、ただ戦慄を与えるばかりである。
(同書pp.169-173 抜粋)

 日本の音楽は、西洋音楽の目から見ると、不協和音に満ち、音階がはっきりしない音楽とは言えないものらしいです。15はそのことを言っていると思われます。しかし、日本で育った人間からすれば、日本の古典音楽も西洋音楽とは違う種類ながら音楽だと思いますよね。3でフロイスは日本の劇は散文だと言っていますが、7では歌い、踊っていると言っています。西洋的基準から言えば詩ではないけれども、歌い、踊るのですからリズムはあるのです。これが日本語の詩だと言うことはできないでしょうか)
 (追記三:飯島耕一さんは私にとってアイドルだった時期がありまして、『定型論争』という本なども必死に読んだことがありました。今回お話しさせていただいたようなことを考えたのも、『定型論争』に対する私なりの答えを探していたからかもしれません。そしてその答えは、西洋詩の基準から考えれば詩ではなく散文に見えるものでも、日本語の基準からすれば詩なのではないかということに尽きます。平家物語から浪花節まで、興が乗れば七五になって節がつく。そうでないところは、一見散文に見える。それが日本の長い詩だったのだと思います。短歌、連歌、俳諧、雑俳等々は、確かにジャンルとして自立していましたが、それだけが詩だったわけではない。だからこそ、飯島氏が「おじや」と言ったような「自由詩」があっという間に成立したのだと思います。もっとも、「自由詩」の改行は、西洋詩から導入したものです。この改行の導入によって、口演、上演等々をしなくても、書いただけで「詩」を成立させられるようになったのではないかと思います)
 (追記四:鮎川信夫「必敗者」の「口ずさむ一篇の詩」がないということについて。庶民なら歌舞伎の名台詞、浪花節の一節を歌ってきたし、今なら今でやはり口ずさむ流行歌なりなんなりがありますが、鮎川信夫は庶民ではなく詩人であり、14世紀のスコットランドの詩は日本で書かれていないので、口ずさむ詩がないということなんでしょう)
 (追記五:何度か自分がしゃべったことを読み返して思ったことですが、詩の音楽性と言うとどうも語弊があるかもしれません。人間は呼吸をして生きています。話し言葉は、呼吸と密接な関わりがあります。呼吸に合わせなければしゃべれませんから。それに対し、言文一致体の特に役人や学者が書いた文章は、呼吸を感じさせないものが多々ありますね。呼吸はリズムであり、呼吸を感じさせる言葉には、いわゆる「音楽性」がある、ということなのではないかと。こういう言い方をするなら、「音楽性」は「身体性」でもあるということになりますけどね)

・質疑応答

小熊:一時間…約一時間半

長尾:でいいんですよね?

小熊:はい、ありがとうございます。次(懇親会)がありますが、今は午後四時なんでまだ時間はあるんですけど、えっと、どうもありがとうございます。じゃあ、まず、質問してもらいましょうかね。

長尾:はい。

小熊:なんか聞きたいとことがありますでしょうか。

長尾: ちゃんと答えられるかどうか分かりませんが(笑)

・瞽女唄について

西田:あっすいません

長尾:はい

西田:あの瞽女唄ってのは、いろんな地方によって違うんですか、伝承されているものってのは主流はどういうものがあるのでしょうか?

長尾: 最後まで残ったのは、多分新潟県なんですよね。新潟県のなかで、長岡と高田ってのいうが中心であって、で、やっぱその長岡と高田でだいぶ違うらしいです。といっても聞いたら同じようにしか聞こえないですけどね。一応そういうのもCDで買って聴いてみましたけども。あとその歌詞とかはちゃんと見てみると、教えてもらった人の歌詞しか歌えないってことで、いろんなバリエーションあるみたいです、新発田市ってとこでこの小林ハルさんを含めて何人かの瞽女さんからいろいろ聞いて、記録も出していまして、七〇年代ぐらいに出ていたんですけど、それを一応私、入手して持っているんですが、たとえば葛の葉でも何ヴァージョンもある。ただ小林バージョンは、小林バージョンできっちりしている。それと、小林さんは事情があってお師匠さん二人になっちゃっているんで、両方混ぜたりいろいろしているんですけどね、はい。そういうことで一応お師匠さんのを真似るってことで、お師匠さんの数だけできちゃうんですけどっていう感じですね。

西田:やっぱり文字として、じゃなくて、口伝え、もちろん盲目の人たちだから口伝え…

長尾:口伝え。はい。やっているところを聞いて、覚える。落語なんかでも何回か一通りしゃべってもらってそれで覚えるらしいですけどね。よく覚えられるなって思いますけど。瞽女唄もそうですね。

西田:そうすると流れ瞽女っていうのはを、全部それ独自のものになっていくんですか?

長尾:あれはちょっと破門されたりして、流れ瞽女っていうのはね。まぁそれは独自になるっていうんですか、半端にしか教わってないかもしれないし。

西田:あぁ、後で自分のオリジナルでやってるみたいな。

長尾:まぁ流れちゃった場合はそうですよね。ただなかなかそれで食べて行けた人は少ないんじゃないですかね。水上勉の小説ではね、ありますけど、小林さんの話では厳しくてとてもできないと言っていたように思います。ちなみに、水上勉さんは、今日取り上げたようなものが好きな人でしたね。説経節についての本も出しています。私も読みましたが(追記: 『説経節を読む』2007 年、岩波現代文庫)。それから、今日は取り上げてないんですけど、妙好人っていうね、真宗のほうで、一般の信者さんのなかで歌う、歌い出しちゃう、例えば下駄つくりながら、下駄の鉋屑に歌いっぱい書きつけて、亡くなった方、才市という人ですが、そういうテーマも取り上げていますね。

・言文一致は教化の思想

小熊:長尾さん、さっき田村隆一と北村太郎が、言文一致だった。『荒地』を始めた頃は、要は現代詩っていうか戦後詩って言文一致で書いてたのが、最後は話体になってゆく。その違いってのがよく分からなかったんですけど。私なんか結局北村太郎にしても、最後の方の『冬を追う雨』でしたっけ、何でしたっけ(笑)。あの、最後の作品の方からしか入ってないんだけど。どういうことなのか、もう少し教えていただけますか

長尾:最初の「荒地」の文体って凄く硬かったと思うんですよね。

小熊:あぁはい

長尾:それが、あのー、

小熊:あぁそういうことか(言文一致が、話し言葉になってゆく)。

長尾:「じゃぁねえ」、とかね、言文一致体ってのはやっぱり言文一致だけど、あれは、言を文に引っ張り上げるみたいな、結局は教化の思想なんで、上から、日本語作ってく運動ですから、だから滑稽卑俗っていって、下の方のものは捨てようともするわけですよね。

小熊:えぇ

長尾:そういう文体だから、なんかこう僕も実際に自分で書いていて、言文一致体の詩っていうものを書くと、こういうふうには喋らないよな、っていうのを考えるわけ。

小熊:はいはい。

長尾:えー、…

小熊:朗読すると違和感があるような…

長尾:なんか裃を着たような文体になっちゃって、なんか現代詩がこうお高く見えるところはそういうところかなっていうのを常々、感じているんです。

小熊:えぇ、なるほど。長尾さんが考える、今あんまり読んでないかもしれないですけど、今の現代詩、今現在読まれている方の現代詩で、私なんかは結局は、なんかこう、語っちゃう、こう自分に酔っちゃうっていうのもあるかもしれないですけど、そういうふうにこう書いちゃうんですよ、つい書いちゃうのがいいのか悪いのか別としてですよ(笑)そうすると、なんか、心地よく書いちゃうところがあって。

長尾:心地よいのはいいんじゃないですか(笑)

小熊:そうすると、なんていうのか私はそれって現代詩、まぁ日本語の本来の言葉にしても、それって、ある一方では否定しなきゃいけないと思ったりするんですけども、まぁそれはそれとしてですね(笑)

長尾:まぁですから滑稽卑俗じゃないようにしようとして、ちょっと恰好つけたところで

小熊:あぁ

長尾:最初オリジナルの感動が薄れるような、動きがどうしても、その言葉を整えていく時に入りがちだなっていうのをちょっと感じるんですよね。

小熊:あぁ

長尾:そういうことちょっとまあ、こういうものと比べてみて、思うのが、昔はそれこそ身分の違いとね、男女の違い、全部言葉に出たわけ。今そういうのがなくなってきているわけだから。ただやっぱりその言文一致を推進していた人たちはその武士の言葉から来ていると思うんですよね。

小熊:あぁ。

長尾: あの当時武士の言葉と町人の言葉とやっぱりあったと思うんですけど。町人の言葉で出てきたモノを、いいようにこう盗み、かすめ取っているわけ、言文一致も延長の、要は落語の速記本からはじまっているわけですけど、江戸時代にすでに落語の本っていうのはいっぱい出ていて、岩波文庫でも落語の本が出ていたんですけど、あのー、寛政ぐらいからあとのやつは今と変わらないですよね、しゃべりが。ぜんぜん言文一致体ですよ、ある意味ね。ただ、滑稽卑俗なんですよ(笑)その滑稽卑俗っていうところで町民文化をそのまんまは受け継がないんだけども、掠め取っていくっていうのが言文一致だと思うんですよね、

小熊:わかりました。一番最近の長尾さんの詩って話文ですよね。

長尾:まぁ、だからその意識して喋りにしているんです。

小熊:あぁそうなんだ。わかりました。他になにか思うことが。勝手に私がいうとですね、あの言文一致ていうと、あのー、気仙沼の千田さんの詩ってずっと言文一致だったと思うんです。でも震災以降、話文に近づいて、今回の白鳥省吾賞の優秀賞取った『船』なんてまるまる話文なんですよ。あー、って思ったんですね。あの千田さんでもそうなっちゃう、っていうとこが面白いなと思っているんですけど(小熊の追記:小熊が言いたかった詩は「船」ではなく霧笛第二期第二七号に掲載された「置く」でした。)

西田:それ、震災後ってのは何ですか、インパクトの…

小熊:いや、結局、なんていうのかな。自分を語りたくなるんじゃないかな?語るていうか、要はなんと言うのかな、かっこつけようとしないってことだと思うんですね。素直にいくっていうことだと思うんですね

長尾:震災前はわりと、空中楼閣みたいな芸術の世界みたいなものっていうのがまぁ信じやすかったとは思うんですよ、でも震災があって、いろいろあって、ずいぶん足元のところに目がいくようになったわけですよね。そういうところで、やはり空中楼閣ってのはあんまり信じられなくなった部分っていうのが誰にでもちょっとはあると思うんですよね。そうすると、そっちのほうに上がってこうってよりは、下、足元をみつめていこうって感じが。そうすると、私みたいなこと考える人もでてくるんじゃないかな。で、やはりその、同じように話体にいくっていうのがあるんじゃないかなって思うんですけど。

(ここで録音は終了していますが、いくつか覚えている(気がする)質問と、それに対する今の答え(なんて答えたかは忘れちゃったので)を少し続けます)

:今日は現代詩以前のところの話でしたが、現代詩についてはどう思いますか?

長尾:こういうことに興味を持ちだしてからは、あまり現代詩に興味を持てなくなって、広く読んでいないのです。もちろん、読めば面白いと思うこともありますけど、あまり熱心になりすぎないようにしていると言うか…。こういうことを言うと怒られてしまうかもしれませんが、現代詩っていうのは、作品が詩人の評価を押し上げるための道具になっていて、作品が残らず詩人がどんどん肥大していくような感じがするんですよ。それはつまらないでしょう。

:朗読についてはどう思いますか?

長尾:朗読は書くことが前提になっていますよね。そこがちょっと…。朗読もいろいろあって、熱心な方は努力もされているし、いちがいにけなすつもりはありませんけど。実は私も若気の至りで朗読会に行って自分もしゃしゃり出て読んだことはあります。あ、つい一、二年前にも一回行きました。でも、基本的に朗読はMの人の集まりですよね。聞いていて作品の世界が見えてくることはまずないし、世界が見えてこなければ拷問になってしまいます。まあ、平家も先ほど聞いていただいたように、聞いただけではわからないところがありますし、歌舞伎だってたいてい眠くなりますけどね。

:歌謡曲とかは聞きますか?

長尾:ええまあごく人並みに。最近は歌詞の作り方がうまくなってきていますよね。ミスチルの桜井さんとか感心しちゃいますよ。あと、今日話したことと関係があることなんですが、昔の歌は、一音に一文字を載せようと苦労していたと思うんですが、今は一音に何文字も載せちゃったり、一文字を何音にも引っ張ったり、音と文字の一対一対応を目指さなくなりましたよね。これは、あの平家の頃にまた戻りつつあるようで面白いと思います。

小熊:最後に亀之助についてどう思いますか?

長尾:最初の『色ガラスの街』から最晩年の「大キナ戦」まで、亀之助という人は周囲に対して終始違和感を感じ続けていたような感じがします。でも、初期から晩年までの間に大きく変わってもいますよね。『色ガラスの街』は、ちょっとモダニズムの詩集のようにも感じるところがありますが、『雨になる朝』からはそういう感じはなくなっていって、『障子のある家』には、鋭い社会批評がありますね。「おまけ 滑稽無声映画「形のない国」の梗概」という長い作品がありますけど、よく伏せ字にならずに出たものだと思いますよ。「時聞が経ってその王様も死に、その次の王様も死にました。そして、その次の王様も死んでしまったことはあたりまへのことです。百年も千年もの聞には次々の何人もの王様が死んだし、王様でない人達だって死んだり生れたりしたのです」 とか言ってますよね。この王様は明らかに天皇のことですけど、天皇は王様はただの人間に過ぎないと言っているわけです。そしてさらに踏み込んで、「王様がなければ大臣もないわけなのですからそこはぬけ目のない人達は、よってたかつて王様は人ではなく、神様だといふことにしてしまひました」とまで言っているんですよね。なんで検閲されなかったんだろう? そして、「大キナ戦」、これはすごいですよね。「便所の蝿(大きな戦争がぽつ発してゐることは便所の蝿のやうなものでも知ってゐる)にとがめられるわけもないが」。まあ、便所の蝿のような連中が戦争で大騒ぎしていて、そういうやつにとがめられるんですよね。ただ、対米開戦してから二か月たたないうちになくなっているわけですから、「五月」っていつの「五月」なんでしょうね。日中戦はすでにやっていたので、そのことなのか? それは別としても、もしもっと長い間生きていたらどうなっていたでしょうね。沈黙かなあ。 今日の話にからめて言うと、新体詩以前の詩を受け継ぐというような考え方は亀之助にはなかったでしょうけど、詩人という存在をだんだん嫌悪していくところが面白いと思います。『色ガラスの街』では、「序の一 りんてん機とアルコポン」などを読むと、詩集を出すのをいかにも楽しみにしていたような感じがありますが、『雨になる朝』では、「後記」で「どっちかといふと、厭わしい思ひでこの詩集を出版する」などと言っている。で、『障子のある家』では、「詩人」についての言及が急に増えますね。「年越酒」では、かなり踏み込んで、「林檎だとか手だとか骨だとかを眼でないところとかでみつめることのためや、月や花の中に恋しい人などを見出し得るといふ手腕でや、飯が思ふやうに口に入らぬといふ条件つきなどで今日「詩人」といふものがあることよりも、いっそのこと太古に「詩人」といふものがゐたなどと伝説めいたことになってゐる方がどんなにいゝではないかと、俺は思ふのだ。しかし、それも所詮かなわぬことであるなれば、せめて「詩人」とは書く人ではなくそれを読む人を言ふといふことになってはみぬか」などと書いています。あるいは、「おまけ 滑稽無声映画「形のない国」の梗概」でも、読者が金を払うのではなく、書いた方が読者に金を払うべきだということを書いている部分があります。
 今日取り上げた世界では、平家物語でも、歌舞伎、浪曲でも、言葉を並べた人、書いた人をどうこうという発想はまるでないですよね。演じる人がいい演技をすると喝采するということはありますけど。あるいは、観客がその言葉を覚えるくらい楽しむということはありますけどね。亀之助がどのような考えでこういうことを書いたのか、今ひとつわからないところがありますが、少なくとも結論が同じだというところに興味を感じます。実際、詩を書くことも減っていくわけですしね。このように詩人というあり方を嫌悪した人は少ないんじゃないでしょうか。ポーズだけではないと思います。

(当日配布したレジュメ)

新体詩抄序
唐の横町の毛唐人が云ふにハ「大凡物不得其平則鳴、艸木之無声、風撓之鳴、水之無声、風蕩之鳴、」云云、「人之於言也亦然、不得已而後言、其歌也有思、其哭也有懐、凡出乎口而為声者、其皆有弗平者乎」と我邦にも長歌だの三十一文字だの川柳だの支那流の詩だのと、様々の鳴方ありて、月を見てハ鳴り、雪を見てハ鳴り、花を見てハ鳴り、別品を見てハ鳴り、矢鱈に鳴りちらすとも、十分に鳴り尽すこと能ハず、何んとなれバ、古来長歌を以て鳴れるものなきにあらねども、こハ最と稀なることにしで、殊に近世に至りてハ、長歌ハ全く地を払へる有様にて事物に感動せられたる時の鳴方ハ皆三十一文字や川柳や簡短なる唐詩と出掛け実に手軽なる鳴方なれバなり、蓋し其鳴方の斯く簡短なるを以て見れバ、其内にある思想とても又極めて簡短なるものたるハ疑なし、甚だ無礼なる申分かハ知らねども三十一文字や川柳等の如き鳴方にて能く鳴り尽すことの出来る思想ハ、線香烟花か流星位の思に過ぎるべし、少しく連続したる思想、内にありて、鳴らんとするときハ固より斯く簡短なる鳴方にて満足するものにあらず又唐風の詩を作り稍長/\と鳴るもの、近来世間に尠しとせざれども抑も詩と云ふものハ其意味も固より大切なれども、其音調の良否も、又甚だ大切なり、夫れ変則者流の漢学者の唐詩を作るや、固より平仄てふものありて其詩たる一通りハ、音律に叶ひたることハ、万々疑なしと雖も、芥子坊主をして、之を吁鳴らしめたらんにハ果して心地よき音調のものなるか、将た破鍋を雷木にて叩くが如きものなるかハ、未だ知るべからぞ、蓋し日本人に取りてハ支那流の詩ハ、恰も瘂の手真似、若しくハ操人形の手踊の如きものなり、瘂に生れずして、瘂の真似をなし、人と生れて、人形の真似をするもの、又憫まざるべけんや、そこで我等ハ連続したる思想、
内にある訳にもあらず心地よき音調を以て能く鳴ることの出来るものにもあらねども、全く三十一文字や堅くるしき唐詩の出来ざる悔しさに、何か一つと腕組したれど、やはり古来の長歌流新体などヽ名を付けるハ付けたが、矢張自分免許の鼻高で、あたら西詩を惜げなく、訳も分らぬ文句以て、訳したものや、尚ほ拙な、をのが、ものせる長文句、能/\見れバ、
  新体と名こそ新に聞ゆれど、
   やはり古体の大仏の法螺、
法螺と知りつゝ古を、我よりなさん下心、笑止とこそハ云ふべけれ、法螺ハ我より始まれる、ものにあらぬハまだしもぞ人のなさゞることゝてハ、仮令へ法螺でもなきぞかし、唯々人に異なるは人の鳴らんとする時ハ、しやれた雅言や唐国の、四角四面の字を以て、詩文の才を表ハすも、我等が組に至りてハ、新古雅俗の区別なく、和漢西洋ごちやまぜて、人に分かるが専一と、人に分かると自分極め、易く書くのが一の能見識高き人たちハ、可咲しなものと笑ハヾ笑ヘ、諺に云ふ、蓼食ふ虫も好き/\なれバ、多くの人の其中にハ、自分極の我等の美挙を賛成する馬鹿なしとせず、安んぞ知らん我等のちんぷんかんの寝言とても遂にハ今日の唐詩の如く人にもてはやさるヽことなきを、穴賢、
 明治十五年五月         丶山仙士外山正一識

山宮允 『日本現代詩大系』第一巻解説より
『新體詩抄』の編者たちの主張は、ワーズワースの英詩革新の主張乃至その発展と見られる近代自由詩の主張に他ならない。即ち彼等は、ワーズワースや自由詩の作家たちと同じく、平俗常用の言語を用い、取材の範囲を拡大し、在来の形式的制約を免れて、自由清新なる国詩を創成しようとしたのである。

『新体詩』の不評は上述の如く、ただ「見慣れぬ体裁」のためばかりではなく、その本質的欠陥に出るのであった。
即ち『詩抄』所収の訳詩、創作詩に於ける用語選択の杜撰、原作の理解の不徹底は暫く措くも、比較的好評であった尚今(谷田部)のグレーの訳すら、清風の指摘した如く、措辞の拙劣が否定し難き欠陥であった。ヽ山(外山)の「社会学の原理に題す」に到っては、取材範囲拡大の主張を実践して見たと云うだけで、まったく詩の称呼に値しない。ただごとの叙述に止り、用語や措辞の上に於ても加藤熈の「一騎歌尽」や福沢諭吉の「世界国尽」の如き類似の作物に及ばざること遠く、時に調子づいてチョンガレ風、阿呆陀羅経式に逸脱して噴飯を禁ぜざらしめる底の卑俗滑稽な作物で、やがて風刺作家斎藤緑雨の嗤笑する所となったのも無理からぬ次第であった。(傍線引用者)

谷川雁「現代詩における近代主義と農民」(『原点が存在する』)
現代詩の真の祖先は外山某とかいうビスマルク風の先生ではない。あえていえば、世直し一揆の最高形態、武装農民軍、長州奇兵隊の軍歌「宮さん宮さん」というべきであろう。売られた娘たちの蹶起を歌う「しののめのストライキ」であろう。

松永伍一『日本農民詩史』第一編 第二章 
近代日本の農民詩は、これら土着農民(引用者注: この前で佐倉惣五郎を取り上げた口説などを引用している)の闘争を基点として創造さるべきであったにもかかわらず、表現能力をみずから育てることのできなかった農民は、ついに明治初期の「新体詩」を否認することのないまま文字から閉鎖された立場をやむなく守りつづけたのである。農民詩の生誕が、せめて維新期ないしは地租改正の時期に見られたとすれば、文人墨客的な風流とヨーロッパ的傾向の合流して成った新体詩のムード主義は、その非生産的・趣味的な弱さによって自己解体を余儀なくされたはずであった。

ウラジミール・プロップ『魔法昔話の研究』Ⅴ口承文芸の特徴
歴史的にアプローチするなら、階級発生以前の民族にとって口承文芸とはその民族全体の創作物というべきである。未開民族のあらゆる詩的創作物はそのまま口承文芸であり、口承文芸学の対象である。階級の発展段階に達した民族については、我々が口承文芸と呼ぶのは支配者階級を除く全階層の創作物であり、支配者階級の創作物は文学にはいる。口承文芸に含まれるのはまずは農民や労働者などの被抑圧階級の創作物であり、社会の下層部に近い中間層の創作物である。

詩的創作物は実際上、ほぼ必ず音楽と結びついている。

平家
1 その子どもは皆諸衛佐になる昇殿せしに殿上の交はりを人嫌ふに及ばず、ある時忠盛備前の国よりはるばると、都へ上られたりけるを、鳥羽院御前へ召して、さて明石浦はいかにと、[下ゲ]仰せければ、忠盛かしこまって
2 有明の、月も明石の、浦風に、浪ばかりこそ、寄ると見えしかと
3 判官 後藤兵衛実基を召して あれはいかにと宣へば 射よとにこそ候ふめれ ただし大将軍矢面に進んで 傾城をご覧ぜられんところを 手垂れにねらうて射落とせとの 謀とこそ存じ候へ さりながらも扇をば 射させらるべうもや候ふらんと申しければ 判官味方に射つべき仁は誰かあると宣へば、上手ども多う候ふなかに下野の国の住人 那須太郎資高が子に与一宗高とて 小兵にては候へども 手は利いて候ふと 申す

歌舞伎
外郎売
ヒョロッと舌が廻り出すと矢も盾も堪りませぬ。そりゃそりゃそりゃ、廻って来た、廻って来た。そもそも早口のはじまりは、あかさたな、はまやらわ、おこそとの、ほもよろをっと一寸先の御小仏に御蹴躓きゃるな、細溝にどじょにょろり。京の生鱈、奈良生真名鰹、ちょいと四五貫目。来るわ来るわ何が来る、高野のお山の御柿小僧、狸百匹、箸百膳、天目百杯、棒八百本。武具、馬具、武具馬具、三武具馬具、合わせて武具馬具、六武具馬具。菊、栗、菊栗、三菊栗、合わせて菊栗、六菊栗。あの長押の長薙刀は誰が長薙刀ぞ。向こうの胡麻殻は荏の胡麻殻か真胡麻殻か、あれぞ本当の真胡麻殻。がらぴぃがらぴぃ風車。起きゃがれ子法師、起きゃがれ小法師、昨夜も溢してまた溢した。たぁぷぽぽ、たぁぷぽぽ、ちりからちりから、つったっぽ、たっぽたっぽ一干蛸。落ちたら煮て食お、煮ても焼いても食われぬ物は、五徳・鉄灸、金熊童子に、石熊・石持・虎熊・虎鱚。中にも東寺の羅生門では、茨木童子が腕栗五合掴んでおむしゃるがのう、頼光の膝元去らず。鮒。金柑・椎茸・定めて蕎麦切り・素麺、饂飩か愚鈍な小新発知。小棚の小下の小桶に小味噌が小有るぞ、小杓子小持って小掬って小寄こせ。おっと合点だ、心得田圃の川崎・神奈川・程ヶ谷・戸塚は走って行けば、灸を擦り剥く三里ばかりか、藤沢・平塚・大磯がしや、小磯の宿を七つ起きして、早天早々、相州小田原、透頂香。隠れ御座らぬ貴賎群衆の、花の御江戸の花ういろう。アレあの花を見て、御心を御和らぎやと言う、産子・這子に玉子まで、此の外郎の御評判、御存じ無いとは申されまい。まいまいつぶりまいつぶり、角出せ棒出せぼうぼう眉に、臼杵擂鉢ばちばち桑原桑原と、羽目を外して今日御出での何茂様に、上げねばならぬ、売らねばならぬと、息せき引っ張り、東方世界の薬の元締、薬師如来も照覧あれと、ホホ敬って申す。

白浪五人男
問われて名乗るもおこがましいが、生れは遠州浜松在、十四のときから親に離れ、身のなりわいも白波の、沖を越えたる夜働き、盗みはすれど非道はせず、人に情けを掛川から、金谷をかけて宿々に、義賊と噂高札に、廻る配符の盥越し、危ねえその身の境涯も、最早や四十に人間の、定めは僅か五十年、六十余州に隠れのねえ、賊徒の張本、日本駄右衛門
さてその次は江の島の、岩本院の稚児上り、普段着慣れし振袖から、髷も島田に由比ヶ浜、打ち込む波にしっぽりと、女に化けて美人局、油断のならぬ小娘も、小袋坂に身の破れ、悪い浮名も竜の口、土の牢へも二度三度、だん\/越ゆる鳥居数、八幡様の氏子にて、鎌倉無宿と肩書も、島に育ってその名せえ、弁天小僧菊之助

三人吉三
月も朧に白魚の 篝も霞む春の空 冷てえ風もほろ酔いに 心持ちよくうかうかと 浮かれ烏のただ一羽 ねぐらへ帰える川端で 竿の雫が濡れ手で泡 思いがけなく手に入る百両 ほんに今宵は節分か 西の海より川の中 落ちた夜鷹は厄落とし 豆沢山に一文の 銭と違って金包み こいつぁ春から縁起が良いわい

文楽
傾城恋飛脚
(地)涙の隙(ひま)に巾着より。金一包み取出し、(詞)これは京の御本寺様へ。上げうと思うた金なれど、嫁と思うてやるではない。コリヤ只今のお礼の為、是を路銀にちつとなと。遠い所へ往て下されと。(地)渡せば梅川押戴き。(詞)お心附いた此お金。逆様ながら戴きます。(地)大坂を立退いても。私が姿目に立てば。借駕籠に日を送り。奈良の…

瞽女唄
さればによりては これにまた いずれに愚かはなけれども 何新作のなきままに 古き文句に候えど ものの哀れを尋ぬれば 芦屋道満白狐 変化に葛の葉子別れを あらあら読み上げ奉る ただ情けなや葛の葉は 夫に別れ子に別れ もとの信太へ帰らんと 心のうちでは思えども いや待てしばし我が心 今生の…

参考文献
『日本現代詩大系第一巻』(河出書房新社、1974年)(元は河出書房、1950年)、p.459(山宮允解説)
谷川雁『原点が存在する』(現代思潮社、1970年)(元は弘文堂、1958年)pp.101-102
松永伍一『日本農民詩史上巻』(法政大学出版会、1967年)、pp.12-13
ウラジーミル・プロップ『魔法昔話の研究』(齋藤君子訳、講談社学術文庫、2009年)、p.247,248
関山和夫『説教の歴史』
兵藤裕己『琵琶法師』(岩波新書、2009年)
小沢昭一『日本の放浪芸』(岩波現代文庫、2006年)
『折口信夫全集』(中公文庫)特に7、17巻
三隅治雄『さすらい人の芸能史』(NHKブックス219、1974年)
『阿賀北瞽女と瞽女唄集』(新発田市文化財調査審議会、1975年)

CD
琵琶法師の世界 平家物語 今井勉 EBISU 13-19
肥後の琵琶弾き 山鹿良之の世界~語りと神事~ 日本伝統文化振興財団(ビクター) VZCG-8377~9
ドキュメント日本の放浪芸 小沢昭一 ビクター VICG-60231~37
ドキュメントまた又日本の放浪芸 小沢昭一 ビクター VICG-60243~48
小沢昭一が訪ねた能登の節談説教 ビクター VICG60500
江戸の文化 語り コロムビア COCJ32071
最後の瞽女 小林ハル 96歳の絶唱 瞽女文化を顕彰する会 KHK-96
説経節 初代若松若太夫 説教若松編集室 ENCD-105

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