新井知次さんの詩
新井さんと知り合ったのは4年前の2016年、洲史さんに誘われてつづき詩の会に参加したときだ。洲さんとは前の年に尾内達也さんが主催された都内の朗読会で初めて会って、住所が近所だということを知ってお互いに驚いたのだった。私と洲さんが住む横浜市都筑区では毎年1月に都筑区民文化祭というものがあって、つづき詩の会は、そこに詩のパネルを出品することを主目的とする会として始まった。最初は関中子、新井知次、若林圭子、洲史の各氏と私の5人で、年に1度の活動では寂しすぎるので、2か月に1回ずつ集まって詩の話をすることになった。
例会を何度か重ねるうちに、発表者を決め、その発表者が取り上げたい詩人の作品をいくつかコピーしてきて、ほかの参加者は会に出てきて初めてそれを読み、感想を言い合うという形ができあがってきた。また、原田もも代、植木肖太郎、黒田佳子、柿田安子の各氏らが新たに参加してにぎやかになってきた(このほかにも一時参加して発表もされたが例会には定着しなかった方が何人かおられる。例会には出なくても本来の目的である1月の文化祭に出品される会員もおられる)。関さんのていねいなフォロー(たとえば、例会前にはかならず連絡を入れてくださる)はもちろんだが、しっかりとした読みを見せられる会員が多く、例会が楽しい時間になったので続いてきたように思う。新井さんはそういった会員のなかでも特に鋭い(そして厳しい)読みを示され、一目置かれる存在だった。
2018年頃からは会員が出した詩集をほかの会員にも配り、それを読んできて自分がいいと思ったものを朗読して感想を言い、それについてほかの会員が感想を返すという形が増えてきた。原田もも代『御馳走一皿』、関中子『沈水』、若林圭子『窓明かり』を取り上げ、拙著『抒情詩試論』(厳密には詩集ではないが)も取り上げていただいた。ところが、どうしたものか、新井さんの詩集は後回しになってしまった。新井さんの新作が載っている詩誌「獣」も例会のときに何冊かいただいていたが、それも取り上げ損なってしまった。2019年になって新井さんが何度か例会に出席されなくなり、体調が悪いらしいということを聞いた。2020年の都筑区民文化祭で久しぶりにお会いできたが、それがお会いした最期になってしまった。6月28日に84歳で亡くなられたということを関さんから聞いた。
遅ればせながら、つづき詩の会では、9月と11月の例会で新井さんの詩を取り上げることになった。9月は新井さんが参加していた同人誌「獣」(と言っても同人が次々に亡くなって最後は新井さんだけになっていたが)の63号から66号(これが最終号になるのだろう)までに掲載された新井さんの詩をその場で初めて読み(もらっても読んでなければ初めてになる。私は一応「予習」していったが、新井さんには本当に申し訳ないことに、生前には本腰を入れて読んでなかった)、その9月の例会で奥様から提供していただいた2007年の詩集『丸くない丸』を持ち帰って11月に気に入った詩を朗読して感想を言うことになった。11月の例会には奥様も参加して下さった。
詩集『丸くない丸』(京浜文学会出版部、2007年11月発行)は3部構成になっている。あとがきによれば、1、3部は2007年までの10年間に書かれた作品だが、「パネルルーム」と題された2部の大部分は1970年代に書かれているという。ただし、〈小説がうまくいかなかったので、えい! とばかりドラマ仕立てで書いたものなので、結果として散文詩となってしまったようです〉というあとがきの言葉は額面通りに受け取らない方がよいように思う。新井さんは東京電力で働いていたことを隠されなかったが、2部には東電での仕事と定年(本人の意思とは無関係に辞めさせられるという意味が強く感じられる「停年」という表記が使われている)に取材した作品が集められている。3部は義母の方の介護にまつわる作品、1部はその他さまざまな作品が入っている。
読みたい作品を朗読するといういつもの流れで会は始まった。私は真っ先に手を上げて詩集でもっとも長い作品を読んだ。
魚の骨
魚の骨が喉にひっかかっている 思いを飲み込むと
痛みがチクチクと 紫色に感電死した事故速報の男の顔
になって長い尾をひいている どうしてそういう事にな
ったのか 事故現場のポンチ絵の中で男は最早感情のな
い記号となって横たわっている だからぼくたちは誰も
悲しまない ただ読み流して 自分ではなかった幸せを
さりげなく懐にしまって 高圧電線と隣り合わせた機械
の保守に駆けずりまわっている
そしてまた隣の誰か 隣のとなりの誰か の事故報告
が素知らぬ顔で流れてくる
悲しみではない痛み 痛みではない恐れ 恐れではな
い日々が連なって 糧を得ている自分がいる
ブレーン・ストーミング 糧をばらまいている背広は
横文字と号令をかけるのが好きだ コップの中の嵐 で
は様にならないのか
「ドンナコトガアッテモ記号ヲ増ヤスナ」
テンション高く 安全検討会をせよと現場にラッパを
吹きならす
「C」はなぜ事故ったか なぜ なぜの嵐をコップに
吹き込むのだ
Aが立会い人 Bが監督 「C」以下三名が仕事中
なぜ「C」が感電したか ポンチ絵を囲んでぼくたちが
重い口をひらくと ひらひら記号たちが躍り出でくる
錯覚 監視不良 安全区画が悪い 教育不足 体調が
悪かった という嵐 おいおい本当かよ 隠蔽している
ものはないのかよ だが記号たちに口はない 安全検討
の慣用句だけが飛び出るのをみているだけだ こんな時
労基署の立ち入りがある筈 だが調査結果は決してぼく
ら現場もんには流れてこない
怪我と弁当は自分持ち それしか吹かない嵐なのか
魚の骨がポンチ絵の中で泳いでいる 嵐の意見を整理
しよう これが知恵袋で アメリカはミサイルを飛ばし
た手法だというのだ 食べ飽きたメリケンから骨だけが
泳いで日本へ来たのか
事故った「C」が魚の頭で そこから太骨が尾っぽま
で繋がり 無数の小骨がコップの中の嵐を引き連れ枝状
に連なっている この悪さ加減の小骨が太骨を通って頭
をひきおこしてしまったという訳だ 人 物 設備 環
境 みんな悪かったという結果論は 集約すれば「C」
の錯覚が第一級戦犯となっていく
そうなのか なぜ夜間作業になってしまうのか まだ
ある A以外はみんな社外工という身分はどうだ 商売
の秘密に触れない賢さが 次の誰かを手招きしている記
号に見えてくる
魚の骨で解明された これでミサイルが飛び 事故が
無くなる めでたしめでたし 検討会の打ち上げは飲屋
へ直行 厄落しの酒で「C」の記号が飲み込まれ排泄さ
れていく
真実事故はこれで無くなるのか Aの側であったぼく
らが検討会をやり 「C」たちにそんな時間が持てるだ
ろうか 親会社の指示書を読み上げる姿だけが見えてく
る
見上げると二重に雲が流れ 上の白い雲に肉のない魚
がくねり 下の雨雲には何やら記号らしきものが浮かん
で ぼくの頭に落ちてきそうだった
これは「あとがき」が言うように70年代に書かれた作品なのだろう。アメリカが〈ミサイルを飛ばした手法〉というところにベトナム戦争の影を感じる(ベトナム戦争ではミサイルにやられたのは米軍の方だったが)。
すっと読めるわけではないのは、言葉にさまざまな意味が重ね合わせられているからだろう。特に目立つのは「記号」という言葉だ。最初は感電事故で死んだ作業員を〈感情のない記号〉と呼んでおり、その後この死者は実際に「C」という記号で呼ばれている。しかも、A、Bとは異なり、「C」だけが棺桶に入れられたように鉤括弧つきだ。そして〈背広〉(幹部社員)が〈「ドンナコトガアッテモ記号ヲ増ヤスナ」〉と言う。もちろん、本当に〈記号〉と言うはずはなく、ほかの言葉を使ったのだろうが、その言葉は何だったのだろうか。〈死者〉かそれとも〈死亡事故〉か。そして検討会の出席者である社員たちも、社員たちが口にした言葉もすべて〈記号〉と呼ばれている。〈記号〉は、自分を生きていないという意味での死を含めた死の象徴のようにも見える。
多義的な言葉という点では、タイトルの〈魚の骨〉もそうだ。〈魚の骨〉は、最初はのどに引っかかっている。のどに引っかかるというのは、「魚の骨」という単語を聞いたときにまず頭に思い浮かぶことだ。しかし、しばらくして次に出てきた〈魚の骨〉は〈ポンチ絵の中で泳いでいる〉。これはかなりぶっ飛んだ風景である。そもそも骨になった魚は泳がないし、それも絵の中だという。ポンチ絵というのは、明治時代の『ジャパン・パンチ』という漫画雑誌に由来する言葉で、要するに風刺漫画ということだ。ちなみに、フルーツポンチも、もとはフルーツパンチらしい。しかし、ポンチではパンチがなく、むしろ滑稽に感じてしまうのは私だけではないだろう。〈魚の骨〉は〈ブレーン・ストーミング〉と呼ばれる〈コップの中の嵐〉が吹いているそのコップのなかで泳いでいる。異様で滑稽な風景だ。そして、〈魚の骨〉とはまさに先ほど取り上げた死の象徴としての〈記号〉にほかならない。
〈事故った「C」が魚の頭で そこから太骨が尾っぽまで繋がり 無数の小骨がコップの中の嵐を引き連れ枝状に連なっている この悪さ加減の小骨が太骨を通って頭をひきおこしてしまったという訳だ〉頭から小骨に行って小骨から頭に戻る過程で〈なぜ夜間作業〉か、〈A以外はみんな社外工という身分はどうだ〉といった問いが抜け落ちる。なぜ抜け落ちるのかと言えば、〈魚の骨〉、すなわち〈記号〉は骨だけなのに泳げてしまうからだ。
〈頭をひきおこしてしまった〉というのは「死亡事故をひきおこしてしまった」ということなのだろうが、人が死ぬことよりも死亡事故の不都合さに困っている様子が伝わってくる。だからこそ、〈「C」の錯覚が第一級戦犯〉になってしまうのだ。先ほどの〈「ドンナコトガアッテモ記号ヲ増ヤスナ」〉もそうだが、言葉にさまざまな意味が重ね合わせられている一方で、ここでは普通は使わない意味のために言葉が置き換えられてもいる。このように言葉が複雑に操作されているものを小説になりそこなった散文詩と呼んでよいものだろうか。最初から詩になるしかない言葉だと言うべきではないか。
しかし、私がこの詩を誰にも取られないうちに自分で読みたいと思ったのは、単に言葉の詩的な扱い方の巧みさに舌をまいたからではない。〈Aが立会い人 Bが監督 「C」以下三名が仕事中〉、〈A以外はみんな社外工〉という関係性のなかで、〈ぼく〉が〈Aの側であったぼくらが検討会をやり 「C」たちにそんな時間が持てるだろうか〉と自らの立場を明示しているからだ。Aは「C」と同じ立場ではなく、「C」から見れば会社そのものである。死者を出した事故を〈コップの中の嵐〉で処理してしまう存在だ。ここで新井さんは「C」に成り代わって、あるいは天の声のような無人称的存在となって、正義の側から悪を告発するのではなく、告発されても仕方がない側の人間として、目に映ったことを包み隠さず書いている。抵抗詩、プロレタリアート詩などと呼ばれている作品には、まさに正義の側から悪を告発する形のものがたくさんあると思うが、そのような作品はとかく自分のことを棚に上げてしまいがちだ。この作品はそうではない。被害者であると同時に加害者でもある苦しさから目を逸らさずに会社とA、B、「C」の関係を誠実に描ききっている。その誠実さ(と意志の力)に心を打たれるのだ。詩に心を打たれるというのは、やはり詩から読み取れる思想に心を打たれるということなのではないだろうか。
70年代と言えば、自己否定論で知られる全共闘運動を経たばかりの時代であり、『丸くない丸』のなかにも〈パネルルームに 公安直通電話が接ながり(中略)資本はバブドワイヤーを一米ばかり嵩上げし 看板をペンキで塗りつぶし 攻撃目標がインペイされ 全共闘 デモ日程 デモルート ゲバルトゲバゲバ(中略)寡黙になったぼくらのパネルルームからアンポ条約はこれでもかと皮膚に擦過して 七0年代 電源確保の幕開き〉という印象的な詩句が連なる「幕開き」という作品がある。当時の学生が新井さんのこれらの詩を読んでいて、電力労働者に同志がいることを知っていたら、いやただ知っているだけでなく学生と労働者が連携し、そのような連携の糸が無数に張り巡らされていたら、時代は大きく変わっていたのではないだろうか、などとつい夢想してしまう。
70年代はまだ出稼ぎが行われていた時代でもあって、〈災害記録 零 のからくり 深夜作業で落下するのは下請工〉〈「あんたらは 糸を吐く直前の 蚕のような手だ」/なでまはす 異形の 東北弁の 笑い〉という詩句を含む「陰」という作品では、「魚の骨」にも書かれていた東電の現場の関係性が「東北」として可視化されていた時代のことが活写されている。今は、東北に限らず、4次、5次の下請けに雇われた全国の労働者たちが福島第一原発の現場に集まって被曝しながら事故処理をしているという違いがあるが、大筋では同じ構造がずっと前からあり、今も生き続けていることがわかる。その構造のなかで、〈おいおい本当かよ 隠蔽しているものはないのかよ〉、〈A以外はみんな社外工という身分はどうだ 商売の秘密に触れない賢さが 次の誰かを手招きしている記号に見えてくる〉とつぶやいている「ぼく」は、まるでF1の事故を予言していたかのように見える。その一方で、〈厄落しの酒で「C」の記号が飲み込まれ排泄されていく〉のは「ぼく」も同じなのだ。とても苦い詩だと思う。
2部の終わりの方には「停年の風」、「停年」といった明らかに定年後に書かれた作品が並んでいて、どちらも9月の例会で取り上げられたが、全員がひと通り作品を読んでから、また手を挙げて「停年の風」のひとつ前に面白い作品がありますと言って「廊下トンビ」という作品を読んだ。
廊下トンビ
肥えたトンビが
悠々と廊下を徘徊している
終業まじかの事務所
鶏たちが行儀良く首を揃えて
ペンをはしらせている
赤提灯に付き合えよ
羽根が柔らかく鶏を包むと
もう誰だって逃れられない
懐の暖かそうな鶏よ
しかし獲物はするりと逃げていく
鶏の秩序を変えようと
ハタを振った奴がいた
尻馬でトンビは強く羽ばたいたが
馬が速く走りすぎたのか
ほとんどの鶏が落馬していった
気が付くとトンビの机は窓際に移され
あろうことか馬が骨折していた
それならそれで俺はオレ 気楽に行けやと
廊下の囁きがなぜか耳にとどいて
徘徊する羽根の揺らぎに鼻唄さえもれた
このトンビ、最初はむかつく上司のことを書いたのかなと思った。実際、例会でも誰のことかちょっと議論になった。しかし、〈尻馬でトンビは強く羽ばたいたが〉とあるから、非組合員ではない。実際、その後ネットを見ていたらこの詩の先駆形をたまたま知ったのだが、そこには詩集で削除された〈鼻唄はだが時にエレジーとなった/かつて手取り足取り教えた鶏たちが/今はトンビの頭に座っている/全てに喉の渇く重さがずんときて/酒でも飲まなければ脱水してしまう//気楽さはしかし後戻りなんかない/ひっかけられた鶏糞を払いのけ/酒に焼けた赤い鼻のトンビが/今日も鼻唄まじり/磨きぬかれた廊下を俳桐している〉という4、5連があった(鶏がトンビの頭に座って鶏糞をひっかけるというところは惜しい感じもするが、詩集の形のようにここを省略したのはよかったように思う)。ご自身をトンビにたとえているのは間違いないと思う。例会では、奥様に「会社では言いたいことを飲み込んでおられたのですか?」と尋ねたが、組合活動では言いたいことを言われていたとのこと。愚問だったなと思った。
鶏といえば、人間に飼われ狭いところで卵を産む機械として扱われているイメージがある。一方、トンビは諺に「トンビが鷹を生む」と言われるように凡庸な存在のように扱われているが、以前ニュースになったように、急降下して人が食べているものをかっさらっていく荒々しさも持っている。何しろ鷲鷹類なのだから。そのようなトンビを自分の比喩として使うところが新井さんらしい感じがする。〈赤提灯に付き合えよ/羽が柔らかく鶏を包む〉というところが絶妙だ。
順番が逆になったが、7月の例会ではこの詩集から10年前後たった詩誌「獣」掲載の近作から、会員それぞれが読みたい作品を読んだ。私が読んだのは63号の次の作品だ。
鉄の匂い
畑では食っていけなかった
日清・日露の戦勝踊りが輪になって
日いずる国の鉄の会社の産業革命
親が死んで四人の兄弟は畑を捨てた
小才のきいた長兄がまず川崎へ
金と命の鋼管会社とはよく言ったものだ
兄の札ビラを見て弟たちは勇んで川崎へ
畑で鍛えた体に汗がよく似合った
昭和の戦争を乗りきって
退職金はたいて庭付きの家を手にした
親父は毎朝早く庭木と会話し
片隅の菜園に故郷を手入れして
小さな庭に朝日を迎える
そんな朝いつまでも顔をみせない親父に
部屋を覗くとベッドで息がなかった
他殺か自殺か医者から警察へ
司法解剖から帰ってきた親父の
大きく武骨な手から
鉄の匂いが立ちのぼり
ぼくの胸にしみ入った
学校の歴史の授業では、産業革命期の人の動きをここまでわかりやすく教えてくれなかったと思う。試しに、たまたま持っていたちょっと前の高校日本史の教科書を読んでみたが、松方デフレ財政で下層農民が小作に転落したということや繊維産業の担い手が小作農の娘たちだったということは書かれていたが、農民はあくまでも農民であるという印象を持ちそうな書きぶりであり、労働者はどこからともなく増えたような書き方だった。この詩には、〈畑では食っていけなかった〉ので労働者になった(マルクスの言う本源的蓄積)という教科書に書かれていない歴史のダイナミズムが書かれている。〈金と命の鋼管会社〉は〈金と命の〉「交換」〈会社〉でもあった。死と隣り合わせで働いていたのだ(私も学習塾で小学生にこの時期の日本の歴史を教えたことがあるが、教科書と同じような説明しかできなかったのが残念だ)。
しかし、〈親父は毎朝早く庭木と会話し/片隅の菜園に故郷を手入れして〉の2行を読むと、好きこのんで都会に出てきたわけではないことが実感として伝わってくる。それに対し、息子である〈ぼく〉は〈大きく武骨な手から/鉄の匂いが立ちのぼり/ぼくの胸にしみ入った〉と言っている。〈ぼく〉にとってお父さんは鉄の人だったのだ。〈匂い〉は「臭い」ではない。漢字ひとつで「いやなにおい」ではなく「いいにおい」という意味になる。嗅覚はもっとも身体的な感覚だとも言われる。ここに父を悼む気持ちがきれいに昇華していると思う。
と言っても、父をただ無条件に賛美しているわけではないのが新井さんらしいところで、1連の〈小才のきいた長兄〉、〈兄の札ビラを見て弟たちは勇んで川崎へ〉といった詩句には、父とその兄弟たちに対する批判的な目を感じる。そのような意味で微妙な響きを感じさせるのが2連の冒頭の〈昭和の戦争を乗りきって〉という1行だ。好んで戦争したわけではないにしても、反対したわけでもない。いわば、天災のように降ってきた戦争は、避けがたい不幸であり、〈乗りき〉るしかなかったのだ。しかし、無責任に戦争を始めた人間は確かにいるのであって、戦争は人災である。戦争が人災だったことに気づかなければ、また同じように天災を装った人災に見舞われることになるだろう。〈乗りきって〉からここまで読み取るのはいささか強引かもしれないが、少なくともそういう思考を誘い出さずにはいられない詩句になっていると思う。
例会では読めなかったが、63号には次の作品もある。
空の箱
肥桶かついで
生の大根まる齧り
筋肉隆々の青年よ
指揮棒が天から振られた
鎮守の神が軍歌を歌い出し
一夜明ければ立派な兵士だった
満州ではジンギス汗に会えたか
沖縄では鬼畜めがけて軍刀振り上げ
母の写真がちぎれ砕けた
雲から神が落ちたので
空っぽの箱で肥桶の村へ帰還
あまりに軽い箱だったので開けると
沖縄で戦死・ご冥福を祈る
紙切れ一枚に嗚咽がひろがった
祖母が仏壇から紙包みをとりだし
「ほら兵の爪と髪の毛だよ」
箱に入れて皆で手を合わせた
鎮守の神は無言だった
こんな寂しい死者との出会いは
その後一度もない
疎開児だった僕に貼りついた映像
倅が孫と遊びにきたので
こんな事があったと
兵叔父サンの話をしだすと
やめなよと倅が眉をしかめたので
皆で回転寿司を食べにいった
「鉄の匂い」では〈昭和の戦争を乗りきって〉1行で済ませた〈昭和の戦争〉のことである。「鎮守の神」、つまり人々がただ豊作を祈って崇めていた村々の神社が明治の天皇制と靖国によって軍事的に再編され、兵士供給装置となり、無数の戦死者を生み出したことが見事に描かれていると思う。宗教は恐ろしい。日本軍に殺された民衆も、宗教こそ異なれ、日本軍兵士と同じような農民や労働者だったのだ。
64号の「一揆物語り」という散文詩には、次のような部分が含まれている。
……
時が流れて、僕の兄弟が正月に顔を揃えた。何かの拍子に「秩
父困民党」の話がでた。権力は弱者を切り捨てる。概ね同意の酒
杯に母の実家の話が注がれる。
「秩父は神流川を挟んだ隣村だ。日照りは同じ苦しみ。一揆に加
勢したのか」
「ところがどっこい、曾祖父たちは竹槍担いで国賊退治だった」
皆はがっかりして、それから大笑い。曾祖父よ許せ。
……
大戦中、母の実家に疎開したときに、曽祖父が冬場の炬燵話で国賊退治を自慢した場面を受けたあとの連の一部である。「鉄の匂い」や「空の箱」に描かれた父や叔父にも同じような視線が注がれているのではないだろうか。たとえば、「鉄の匂い」には書かれていないが、日本が植民地支配していた朝鮮で行った朝鮮土地調査事業で土地を奪われた人々(捨てたわけではなく奪われたのである)も、大挙して日本にやってきて〈金と命の交換会社〉に吸い込まれていっている。その運命が日本人労働者よりもさらに過酷だったことは言うまでもない。〈戦争を乗りきっ〉た日本人労働者は彼らのことをどう見ていたのだろうか。
詩誌「獣」には新井さんのエッセイも載っていて、そのときどきの関心事が書かれているが、それらのエッセイと同じ号の詩が見事につながっていて、つづき詩の会の例会が終わったあとの酒席で新井さんが控えめに話されたことにもつながっている。たとえば、66号には宗左近の縄文のことが書かれているが、新井さんが「長尾さん、宗左近についてはどう思ってますか。縄文のこと書いてますよね」と話しかけてこられたことを覚えている。本当のことではあるが「いやあ、あまり読んでなくて」とそっけなく答えてしまったが、66号の「宗左近の史的感性」という文章には、次のような印象的な言葉が書かれている。
ところで、古代史家の多くは渡来人が縄文人を滅ぼし
たのだ、とは決して言わない。混血などにより現在へと続
く日本人のルーツになったと論証する。しかし、この歴史
観からは宗左近の文学は成立しない。殺して滅ぼしたので
ある。それが、詩人の史的感性なのであると考える。
最近は、まるで日本の歴史を2600年ちょっとまで引き伸ばすためであるかのように、右から縄文を褒めそやす論調が目立っているが、それとはまったく反対のことが書かれている。そもそも、古事記/日本書紀のアマテラスの宮殿では、田んぼを耕し、機織りをしていたのだ。どこから見ても弥生以降の文化である。古事記/日本書紀は征服者の神話だと受け取るのが自然だろう。
新井さんに話しかけられたとき、記紀が弥生以降の文化だということにはちょっと触れた記憶があるが、新井さんがこのような見方から宗左近を話題にされていたことにはまったく思いが寄らなかった。ちょっと飛躍しすぎだと言われてしまうかもしれないが、渡来人(弥生人)が縄文人を殺したという見方は、近代日本が朝鮮半島から中国、東南アジアに侵略していって、現地の人々を人として扱わず、こき使ったり、犯したり、殺したりしたことを直視する見方に通じていくと思う。それに対し、弥生人の神話を崇めながら、縄文人は自分たちの祖先だなどと言うことは、日本国と日本人が犯してきた犯罪をなかったことにして、侵略を正当化してしまう見方に通じている。混血は間違いなく起きているだろうが、だからといって殺戮の歴史は消えない。先ほど触れた見たくないものを直視するという新井さんらしさがここにも現れていると思う。
自分の怠惰のために新井さんとそういう話をすることができなかったこと、そして新井さんの詩にしっかりと向き合ってここに書いたような感想を伝えられなかったことを後悔している。