ちょっとした不運
その日も普通に風呂場に行って
裸のからだに石鹸つけて洗ってたわけ。
老人の入口にたどり着くまで
何十年もくりかえししてきたことさ。
どうしたものか
その日に限って
右目のなかに飛び込んできたわけよ。
両手をすりあわせ
泡を起こしていた石鹸液のひとしずくが。
もう何十年も風呂に入ってきたけど
そんな不運は初めてさ。
石鹸液がはねたとしても
飛びつく先はは頬や胸や腹あたりが普通で
そんなときは石鹸液がはねたって意識することすらないと思うよ。
石鹸液のしずくが目のなかに飛び込む確率なんて恐ろしく低いはずさ。
からだを洗ってる途中だったんだよね。
すぐにシャワーを目に当てた方がいいのか
でもそんなことをすると
またからだに石鹸をつけ直さなきゃなんないぞ
ちょっとの間の我慢じゃないか。
束の間そんな迷いのなかをうろうろしてあとまわしを選び
からだの残りの部分に石鹸をつけてから
それを全部洗い流し
最後に右目にシャワーを当てたわけ。
ところがからだにつけた石鹸ほど簡単に落ちなかったんだよね。
目に入った石鹸は。
目が痛い
いつまでも痛い
風呂を出たあと何度も両手で水をすくい
そのなかで右目を開けたり閉じたりしてみたけど
痛い
ふとんに入っても痛い。
明日になっても痛かったら目医者に行こうか
ひょっとしてこれで片目が見えなくなったりすることがあるのかなあ
そうしたら車も運転できなくなるの?
あのときあとまわしにせずにすぐに洗うべきだったのかも
ちょっとした迷いのためにこれからの人生大きく変わっちゃうのかなあ。
そんなことをくよくよ考えてたけど
そのうちに眠ったらしい。
よく寝られたね。
死ぬほどのことではないので、
翌日はちゃんとやってきたさ。
実際、前日にそんなことが起きてたことも忘れてたぐらいにね。
何かの加減でまぶたに触って気づいたわけよ。
ちょっと異常なぐらい目やにがくっついてるなって。
それで昨日の四十行分のできごとを思い出したってわけさ。
もちろん目医者には行かないよ。
目やには自分で落としたさ。
でも、自分のことだとそこまで大騒ぎになるんだねえ
自分のなかでは。
理不尽に殺されてる人々のことを知っても
一瞬心を痛めるだけなのに。